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2010年2月10日水曜日

日本独特の不完全性定理 (mixi05-u459989-201002100543)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
日本独特の不完全性定理
2010年02月10日05:43
これは、日記というか、ある人の日記のコメント欄に書いた文です。

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... この世の中に自分以外の人間が居る、っていう事に気が付くのは案外難しい事なのかもしれないってな、たまに思う。

自分以外の人間が居るということは、つまり(当たり前だけど)自分と同じではない物がこの世に存在するということを知るという事と同じだ。 自分と同じではない物、それが正に他人で、それは自分じゃない。すごく当たり前なのだけど、他人が居るということに気が付くのは、案外高度な精神スキルが求められることなんじゃないかと思う。

これは普通、鏡を見て自分を見ることと同じなのかもしれないと思う。何でかと言うと、他人に気が付くという事は自分に気が付く事と必ず対になっているからだ。ごく当たり前なことだけど、鏡を見て自分の姿を見て、他人を見て他人の姿を見て、その両者がどうも姿が違うということに気が付いて、はじめて他人の存在を知るわけじゃないかと思う。

ところが、日本にはその肝心な「鏡」がない。それはどういうことかというと、日本以外の国だと、ありとあらゆる考え方の人が居るので、そういう多様性の中で相手の反応を見ることで、自分の姿を知ることが出来るのだが、日本にはそういう多様性がないので、自分を知る機会がない、ということだ。

自分を知らないので、他人を見ても、それが他人だと気が付かない。 自分とはまったく姿形が違う他人を見て、あぁ自分もきっとこの人と同じ姿をしているのだろう、と錯覚する。あるいは、自分と同じ姿の他人を見て、自分は彼とは違うと錯覚する。

自分が見えない同士で話し合うのは、とても疲れる。 自分の自分自身に対する虚像が壊される恐怖に常に怯え、相手の相手自身に対する虚像を壊さないよう常に偏執的なまでの注意を払う。 鏡がない場所というのは、とても精神衛生上、良くないことだと思う。

自分を知らず、他人を知らない人に、自分と他人が如何に異なるのか=「他人」の存在を説明することは極めて困難だ。 不可能といっても過言じゃないと思う。それを説明する時に直面する問題は実にたくさんの矛盾をはらんでいる。 自己説明的で独善的な論理をどうしても通過する必要がある。間違った意見の様に見える。 しかし、この「他人」というものは、広い多様性のある世界に居れば経験的に存在を知ることが知ることが出来る。気をつけなければいけないのは、この「他人」の存在を、自分一人だけで論理的に矛盾なく証明することが出来ない、ということだ。



差別が何故いけないのか。 それは自分が差別されたら困るからではないと僕は思う。 差別というのは、実は自分の価値感の一方的な押し付けだから、まずいんだと思う。

偏差値が70ないとバカだとか、月収が50万ないと貧乏人でバカだとか、そういう価値観があっても良い一方で、お金よりゆっくりした時間が大切だとか、知識よりも気持ちのゆとりが大切だとか、そういう価値観もある。

日本人は韓国人をバカだというが、それはそうなんだろう。 日本人の価値観からしたらバカなんだと思う。 だけど日本人以外の多様な価値感を通してみれば、日本の狭い価値感では評価出来ない、たくさんの良さが存在が浮かび上がってくる。

これまで説明したような意味での「他人」同士の中では、価値感とは絶対的な物ではない。 だから、人によって違っても構わない。そういう自分の価値感を相手に対して一方的に適用してしまうというのは、重大なコミュニケーション不全の原因となりうる。だから自分の価値感を一方的に相手に押し付けるようなことがあってはいけない。

だからこそ「差別」は良くないのだと僕は思う。

このことを差別する人にどうやって説明すればいいのだろう。 これは自分の外に他人がいるということを説明するのと同じくらい困難な事じゃないかと思う。



わかりあう必要はないけども、自分と他人が違うんだということを知っていると、わかりあっていないのに、疲れない。 だけど、日本に居ると、このことに気が付くのは、とても難しいんだと思う。

さて...。
コメント一覧
まはヴぃーら   2010年02月10日 11:50
差別するされる以前に、日本人はマイノリティーだということを自覚していない日本人が多いですね。
だから大抵の日本人は差別されると闘えない。
僕も、話せば分かると思っていた羊ちゃんでした。
でもタイ人に間違われてイギリス人に差別された時は困った。
プイプイ   2010年02月10日 12:23
子供の頃変わった言動をとると
「普通そんなことしね~よ~」
といじめられたものです。

「普通」にしていればすべて物事がスムースに進み
これが事なかれ主義に昇華したのでしょう。

他人と同じ普通を演じていれば差別されませんが
だとすると確かに自分の姿は見失ってしまうかもしれませんね
ジャコビ   2010年02月10日 12:31
結婚したり同棲したりすると、年がら年中「他者」と顔をつき合わせる事になるので、言葉でのコミュニケーションの大切さを実感しますよ。婚姻生活って良い意味でお互いの試練や修行の場だったりします。

うちの場合、お互いに人種も民族も国籍も宗教も言葉も異なるので、言わなくても分るという幻想を持つ事がそもそも不可能なのですが、日本の殆どの夫婦は、同じ人種、民族、国籍、宗教なので、妙な幻想を抱いてしまい、結局は一緒に住んでいるにも関わらず、お互いのことをあまり知らない人達が多いのではないかと思います。

差別をする人は、概して好奇心のレベルが低いですよね。自分の回りに壁を廻らして、別の価値観が侵入してこないようにガードしているようです。自分の世界が崩れてしまうようで、怖いんでしょうね。
風我   2010年03月28日 06:16
前から不思議なんですが、ヨーロッパ系言語と違って
日本語の1人称単数は「わたし」「わたくし」「僕」「俺」などと
目の前にいる人によって変化する「自己」があること自体、
他者をきちんと意識した言語構造になっているのに
実際は「共同幻想」の中で生きてる人が多いですよね。

親が国際結婚で父がよく母に「フツーは~」と指摘してたのですが
母が「フツーって何よ!」と言い返してから言葉につまったのか、
二度と口にしなくなったのをよく覚えています。

思うに自己のアイデンティティーが確立されていなければ
喪失感が災いして別の価値観に食われてしまうのを懸念して
失業者が増えると外国人排斥に走る国家のように
「フツー」にしがみつきたくなるのかも知れません。

また日本では個性よりも全体の和が重んじられているし、
日本社会で我を張ろうとすると「出る釘」として打たれてしまい、
「無難」に生きることを選んだ人も多いのでは?
それはそれで、そういった人たちはせめて国外に出ない方が
「無難」だとも自覚すべきです。
おかあつ   2010年03月30日 01:53
>目の前にいる人によって変化する「自己」があること自体、
>他者をきちんと意識した言語構造になっているのに
>実際は「共同幻想」の中で生きてる人が多いですよね。

目の前にいる人によって変化する自己っていうのは、要するに相手に合わせて自分を変えているわけじゃないでしょうか。 友達の子供と話すときは「おばさん、お菓子あげよっか!」とか自分の子供だったら「お母さん、お菓子あげよっか!」だし、相手が生徒なら「先生、お菓子あげる!」だし、相手にとっての三人称で自分を呼ぶわけじゃないかと思います。

普段自分が聞いている人称は常に固定になります。 逆にあわせてもらうことに慣れてしまって、他人の立場を理解しづらくなる、ということはあるんじゃないかと思うのです。

大多数の人は、年をとるとともに自分が合わせてもらうところから、相手に合わせてあげるところに移行していくんだと思うのですが、それが何かの事情でそちらに移行せずにずっととどまってしまう人がいるんだと思うのです。

おかあつ   2010年03月30日 02:06
>また日本では個性よりも全体の和が重んじられているし、
>日本社会で我を張ろうとすると「出る釘」として打たれてしまい、
>「無難」に生きることを選んだ人も多いのでは?

ここに関しては、僕はちょっと違う視点を持ってます。 というのも、タイにいる華僑やラオ・朝鮮・日本・タイ・マレー・クメール...と、色々なアジアの民族の人を見ていると、アジアのほとんどの人が、日本人が言うような「我の強さ」を持っていないように思うからです。「出る杭は打たれる」といいますが、アジアのほとんどの人たちは、そもそも杭として出っ張りたいという意識すら持ってない人がほとんどです。 日本人だけだと思うのです。 わざわざ杭として出っ張ってまで、我を張ろうとする民族は。

それに近いのが潮州人(華僑の一派)な気がします。 でも日本人みたいに、損得まったく考えず、理想と夢を追いつづけるタイプって、少ないと感じますです。 単純に知的好奇心にかられて何かを追求するタイプ(オタクともいう)も日本人以外にはとても少ないと感じます。 もちろん日本にだってそういうタイプがすごく多いわけじゃないですが、こういうマニア気質は日本以外にはほとんどあらわれないタイプでもあるように思うのです。 アジアにもオタクの人はいっぱいいますが、日本人みたいに病的なまでに追求する人って案外いません。

おかあつ   2010年03月30日 02:24
日本人って「破綻してる村社会」なんだと思います。 僕は今、「破綻してない完璧な村社会」に住んでいて、その事をよく思います。 破綻していない村社会では、皆、相手の気持ちをもっとも大切に考えます。 同じように考え、完璧に同じバックグラウンドを持ち、同じような家族構成で、同じような学校に通い...と皆同じなのです。 同じ民族で、同じ出身で、同じなのです。 だから 高度な「気遣い」の文化が生きているんです。

日本はそういう村社会から資本主義に移行して、お金のパワーと、同時にその怖さを知り、気持ちよりもお金の事をまず考えるようになったのだと思います。そして、 村から出て、自分と違う人と出会い、出身の違う人と話、民族の違う人と一緒に住むようになったのだと思うのです。

日本は正確には単一民族ではないんだと思います。 本当はタイと同じようにたくさんの民族がいると思うのです。 ですが、限られた面積の中に住んでおり混ざってしまい見分けがつかないんだと思います。 実際には他の大陸の国と同じように、地域によって遺伝的な民族の違い(多分文化的な民族の違いも)があるんだとおもいます。

つまり、日本人は、みんな元より、同じじゃないんだと思うのです。 同じじゃないのに、それに気が付いておらず、同じであると固く信じており、同じである状態のコミュニケーション方法しか持っていないという、ちぐはぐな国が日本だと思います。

そういう中で、少ないですが、悩み苦しみ考える力をつけた「我を張る」人が生まれてくるのが日本なんじゃないかと感じます。 そんなアジアの国は日本ぐらいなわけで、つまりそれは、アジア式個人主義の実験場の様になっているんだと思います。

風我   2010年03月30日 06:15
日本人は主に8つの人種が混ざってできた人種だと聞いています。
ただ当初から恐らく数世紀にわたって新しい移住に見舞われなかった
ものだから、それを忘れているだけでしょう。

出る釘については、自分で出る釘にならなくても隣の人と違うことを
言おうものなら打たれてしまうということを念頭においてたんですが、
そういう意味では「そうですね」という相鎚しか打てない会話は
非常に退屈です。

また1人称単数についてですが、自己に確信を持ち続けていれば
表向き合わせるのは非常に割り切りやすい反面、確信がなければ
何らかの所属を探すことでアイデンティティーを確立させるのが
人間の性じゃないでしょうか。
もちろんこれは日本人に限らずですが。
 
出展 2010年02月10日05:43 『日本独特の不完全性定理』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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