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2015年6月12日金曜日

お金と嘘の続編 (oka01-yuqvwqzrfauictxw)


2011年以降、日本の人口は急激に100万人減った。断定は出来ないが、原発事故の被害者が、実は既に甚大な人数に登っている可能性がある。それははっきり断定出来ないが、少なくとも「皆無」という事はなさそうだ。僕はこのことをツイッター上でしつこく投稿してみたが、反応が非常に鈍い。何故ここまであからさまに嘘だということば暴露しているのに、まだその嘘を信じ続けるのだろうか ──── そういう強い疑問を持っている。 僕の問に関する答えは ──── 恐らくだが、「真面目さ」の表れなのではないか。


この件に関してツイッター上でつぶやいた考えに加筆訂正して、雑記としてまとめてみた。





──── で、僕は理解出来ないのだ。

何故ここまであからさまに嘘だということば暴露しているのに、まだその嘘を信じ続けるのだろうか ──── これは恐らくだが、「真面目さ」の表れなのではないか、と思う。それが事実であろうが嘘であろうが、それを疑わずに信じ続けるのが、よい日本人たる資質であり、疑ってばかりいて真面目に仕事をしない日本人は、良くない日本人である、と考えているのではないか。

信じ過ぎることによって、不満が高まってくると、酒を飲んで暴れたり、デモなどに参加し、反抗してみた*ふり*だけする。だが本当に政権転覆などを企んだりするのは、良くないことだと考えているのではないか。

僕はツイッターで「この辺が恐らく政府の本音ではないのか」という予想をした。それは恐らく蓋然性の高い話だ。それは恐らく相当数の人数の日本人の目に触れた筈だ。だがそれがいくら蓋然性の高い話だということが誰の目にも明らかとなっても、凍りついた様に誰も反応しない。それは一体何故なのか。

それを僕は、真面目さや誠実さの表れなのではないか、と解釈してみようと思う。君主は家来を絶対に裏切らないと信じるべきだ、という暗黙の了解が絶対の掟として存在しているのに、君主が裏切っていると明らかになると、どうしたらいいかわからなくなってしまい、凍りついてしまうのではないか。

真面目さ=日本人の血液型にA型が多いからだろう。他人を騙してばかりいるO型(東南アジア・中国の人に多い)や、質実剛健なB型(騎馬民族・チベットなど内陸に多い)と、決定的に違う。

「O型を人を騙してばかりいるとは、なんと失礼な」と思う方もいるだろう。だが僕は「誠実なイノセント」と「自立性のない依存バカ」は、その表現方法が違うだけで、実際には同じ事象を捉えた言葉だと考えている。「騙してばかりいる」というのは、基本的に荒波で生き抜く生命力と捉えるべきだ。

だが騙し合い化かし合いの巣窟で、足の引っ張り合いばかりやっている、否、足の引っ張り合いがメイン業務になっている、O型中心・B型中心の国は、大抵あまり発展してない。 問題に対して「人を騙してやらせよう」とか「あいつから騙しとろう」と考えず、真面目に解決するのはA型社会の持ち味だ。

で、僕は思ったのだが、A型社会では、リーダーが非常に重要なのではないか。O型社会・B型社会だと、そう簡単に騙されない手練が揃っているので、誰かが嘘を言ってもそれを信じる人が皆無な為、ほとんど暴走しない。だがA型は、信じるのが前提にあるのでリーダー次第で社会が簡単に暴走してしまう。

僕は暴走は悪いことだとは思わない。問題は、A型社会は、暴走すると、必ず自滅することだ。つまり、O型社会・B型社会の人間が、A型社会の中に人を送り込んで、意図的に暴走させて潰すという戦略が成立している。

A型人間は真面目なので、何もなければ暴走しない。そこに暴走させる何かが入るから暴走するのであって、A型は基本的に自ら暴走しない。

暴走させて潰す戦略。この理論は、僕は、非常に有効だと思ってる。この理論は、日本の慰安婦問題や、南京大虐殺などが何故起こったのか、実に矛盾なくすっきりと説明できる。

A型人間は、真面目なので、誰かが「おい、歩行者天国の真ん中でパンツを脱いでウンコしてこい」と命令すると、本当にやる。 そのウンコした瞬間を写真に収めて、みんなに見せれば「あいつは狂人だから殺した方が良い」という様な暴力的な論説が、簡単に通用してしまう。これはA型社会の脆弱性だ。

自分で言うのもなんだが、謎が多く複雑な日本の近代史を、こんなに上手に表現した言葉は、未だかつて見たことがない。 だが、A型人間は、自分に対する客観性をあまり持っていないことが多いので、恐らくこのツイートを見て「あぁーーそうそう!そうなのよ!」という風に思う人はいないだろうが。



【余談1】 ここでこういう返答を頂いた。link


こういう風に、自分が直視すべき点を、直視できずに、その「ちょっと脇」をついて、自分の無意識に感じている不安をごまかそうとする。彼に限らず、こういう人は、ツイッター上に非常に多い。 pic.twitter.com/K4ueS5iyzw



【余談2】 余談なのだが、この間、小泉元首相がA型と聞いて「あぁー」と思った。恐らく日本には稀有な「騙されにくいA型」なのではないか。しかも苗字分布を調べると、バリバリの本州人。小泉元首相は、薩長出身でない珍しい政治家だと。

あまり確信はないが僕の個人的な印象として、小泉氏は「アメリカの犬」とか「売国総理」とか言われつつも、なんだかんだいって、巧く欲望よあ名誉心をくすぐり、巧みな話術とハデなパフォーマンスで煙に巻いたりして、ちゃっかり官僚(薩長の権力者)の権限を相当に縮小することに成功した様に思う。


そして、こういう返答を頂いた。

そうなんだ! バリバリの鹿児島人ではないか! すみません、指摘ありがとうございます!

調べてみたところ、本当にそうだった。 これにより「本州人・政治的痴呆論」が再度強化される。

小泉さんの苗字分布

鮫島さんの苗字分布

余談終わり



─── 話を戻す。 日本人は嘘を信じようとする。そして嘘を信じない人に同調圧力を掛けてその人も嘘を信じるように強制する習慣を持っている。 その様子をわかりやすく文章化した本に「戦争責任者の問題(伊丹万作著)」がある。

戦争責任者の問題=伊丹万作著 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


真面目な人間は騙されやすい。だが騙されるほうが悪い… 騙されて他人を攻撃するのも騙す人間に加担したのと同じなのだ…という考え方もある。人間としての自立性を求める考え方で、これまで僕はこの考え方を支持していた。

…だが本当にこの考え方は有効なのだろうか。今僕は若干、気持ちが揺らいでいる。もし自立性を求めることを正しくないとみなすなら、どの様にしてこの問題を回避すべきなのだろうか。


で、結論として、今後の行動の指針としてどういう風に活かすべきなのか…。と思うのだが、そこがどうしても思いつかない。

日本を出てきたが、日本に友達は多い。日本は大嫌いだが、僕の大好きな人の大半は、日本人だ。日本には、僕の、まだ見ぬ未来の友達もたくさん住んでいる筈だ。で、どうも日本は今、戦前と同レベルかそれ以上の非常に危険な方向に進みつつある様に見える。

ここから先は、散歩でもしながら、もう少しよく考えてみよう…。

【一旦終わり】




【余談3】その後、この様な返答頂く。


僕の分析によると、このツイートは、前半部と後半部で別々なことを言っている。

何を根拠に「A型社会」とか言ってるのか知らんけど、日本は6割の人が非A型ですの(´・ω・`)


バカにするつもりはないのだけど、九州(あと近畿の左側)以外の人は、日本が多民族だということを直感的に理解出来る環境にないので、結果的に自分らを客観的に見ることができないケースが多い様に思う。 出来れば海外(せめて近畿・九州)を知らないと、残念なのだけど、話にならない。


…と、最初思ったが、改めて考えてみると、恐らくこの方は、血液型がA型ではないのだろう。日本人にA型が多い、という発言を目にして、自分の存在が否定されたと感じ、ひがみの感情からこの様な応答をよこしてきたのではないだろうか。だとすると、僕の返答は誤爆だった可能性がある。この方は既に日本の多民族性からくる激しい孤立感を感じて悩んでいるのかも知れない。

この様に、日本の多民族性の中では、相手の文脈・環境・歴史などを「言わずに察する」という行為が極めて難しく、しばしば誤爆を起こす。



この後半の問は面白い。

日本よりA型比率が高い国はそれなりにあるんだけど、そういう問題って起きてるのかな?

A型の社会で同じ問題が起きているか ───  僕はこの問に関して、欧米全体で起きている、と考えている。アジア人は大昔から農耕民族で、農業をやりながら資本とは無関係にのんびり自由にやってきた為、資本に支配されるという経験が短い。だが、真面目な西洋人(部分的にA型社会)は大昔から資本に支配されあまり自由でない。

資本が投下されて社会が発展すると、信じなければいけない嘘の量が桁違いに増える。(騙されることで、気付かぬ内に無償で働かされる人が増える。)当たり前だが、農業中心の非資本主義社会では、そういうことがない。


信じなければいけない嘘の量が桁違いに増える。 ─── これを別名「教育」ともいう。



「資本の奴隷だ!」そういう考え方へのアンチテーゼとして「お金の為ではなく、信念や愛情から行動を起こしましょう」という考え方が生まれる。 だが、こういう思想を元に資本の奴隷を脱出し行動する人は、視点を変えると「愛の奴隷」だといえる。これは、現在、オープンソース(無料で配布されるソフトウェア) の開発者などでしばしば観察される…と僕は思う。


この様に、人間の持っているミクロな視点(愛情や人情や友情等々)が、マクロで見ると完全に破綻するということが、しばしば起こる。先日、増えすぎた猫に関して、次のような考察をした。

近所に猫がいる。で、猫にご飯をあげる人がいる。猫を可愛がる。すると猫はどんどん増える。近所が猫だらけになる。で、ご飯が足りなくなってきて、台所から忍び込んで窃盗を働く窃盗猫が増える。近所が猫臭くてたまらなくなる。 で、可哀想だから、避妊手術をしましょう、というボランティアが出る
「近所で窃盗を働く臭い猫が増えたので、殺すのを手伝って差し上げましょう!」で、ナタを持ってバッサバッサと猫を殺す「猫殺しボランティア」が出ることは、あまりない。 飽くまでも避妊手術と。 だがやっていることは、基本的に同じ筈なのだ。
このテーマに関しては、また改めて考えてみたいと思う。


【余談おわり】

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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