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2013年6月23日日曜日

久しぶりに雲南師範大学に行ってきた話 (oka01d-mhjcjkjoprctrlff)

昆明3日目だ。今日は昆明師範大学に行って来た。
※ おかあつは2013年6月21日に中国・昆明に来ました。中国からはbloggerにアクセスすることが出来無い為、この日記は、あらかじめ別に書きためたものを後日中国の国外からアップロードした物です。

僕は最初に昆明の華僑学校に入った時、勉強すればする程中国語がわからなくなって行く「方言地獄」に落ちていた。最初何も知識がない時に聞き覚えで話していた時のほうがずっとよく通じていたと感じた。学校で勉強が進めば進むほど、周りのいう言葉がなんだかわからなくなって行く様な、CDで発音を覚えれば覚えるほど、聞き取りにくく感じる様な、強烈な違和感で苦しみぬいた。 華僑学校は先生がそもそも強く訛っているので、初心者向けでない。で、発音に気を付けて方言を直せば直すほど、周囲から虐められるという、初学者に取ってはムチャクチャな無理難題とも言えるジレンマに落ちて、散々苦しんだ。

それで「もう華僑学校はコリゴリ」と当時は思っていたので、いつか華僑学校を辞めて師範大学に浮気しようと思っていた。次に中国語を学ぶなら絶対に師範大学と思っていた。よって、当時中国語を学び始めた頃は、師範大学にはかなり足しげく通って情報収集をしていたのだった。

しかし不思議なもので、あれほど苦しんだ雲南方言だが、慣れてくると雲南方言のほうが好きになってくる。今ではかなり聴き取れる。雲南省の外に行って、ふと雲南方言を耳にすると、懐かしい感じがする。

結局のところ、ああやって方言地獄で苦しんだからこそ、外人である僕が中国各地に行っても、方言の違いを(完璧でないにしてもある程度)柔軟に受け止める事が出来る様になった様な気がする。標準語を話すことは大切だが、一方で聴き取ることにかんしては、方言に寛容であることは大切ではないか。

で、結局師範大学には入学しなかった。(というか華僑学校を含むどこの学校にも入学しなかったけど。)

で、足しげく通った懐かしの師範大学に久しぶりに師範大学に来たら、丁度入学試験をやっていたみたいで、人がごった返していた。

留学生科に行って、パンフレットをもらってきた。 自信はないのだが、恐らく受付で話をした方は、2年前に僕がパンフレットをもらった時に話した方と同一人物だったような気がする。 流暢に標準語を話すけど、よく聞くとちょっと訛ってる。

しばらく話をしていたら、家から電話があった様だった。電話に出たその方が、家の人と話す時の話し方は、全然違った。

何というか、標準語は大切だけども、方言に対して慣れることは、どう考えても大切だと思った。一応基本的にみな標準語を話しているが、完璧に話せる人など中国人にだって多くはないわけで、外人が来て「こいつらは標準語すらきちんと話せないのか!」と見下して歩くようなことは、絶対にしてはいけない と僕は思う。




今日タクシーを拾う時、シーファン・ターシュエ(師範大学)と言ったら「うーん…それどこ?」と悩んでしまった運転手が居た。なんでシーファンターシュエが通じないのか…と思ったのだが、この辺の人は「スーファン・ターシュエ」と呼ぶことを思い出した。ひょっとしたら「スーファン」と言えばよかったのかなぁ…。

あと冷えた水を買おうとした時に「有没有凉水吗?」と言ったら、何かピンとこなかったみたいで、あまり通じなかったことがあった。なんでなんだろう。店には冷えてる水と冷えてない水があったから 有凉的吗?と聞いたけど、何かあまりピンとこなかったみたいだった。発音がまずいのかと思って、リヤンシュイとリヤンスイとか色々試してみたが、あまり通 じなかった。 これもなんで通じなかったのか、よくわからない…。気温は「冷」・水温は「凉」と覚えたのだが、これが間違っていたのかな…。辞書(特に日中辞書)は当てにならん。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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