FLAGS

筆者おかあつ 大きな区分 記事の区分 記事の一覧 検索 ツイート

2013年6月22日土曜日

久しぶりに中国の昆明に来た話 (oka01d-eamgcjxjefatwnaa)

中国来た。久しぶりに昆明だ。2013年6月21日に到着した。最後に来たのは地震の直後だったと思う。2011年の3月下旬だったと記憶してる。その頃は、僕は、まだラオ語が今ほど話せなかった。2年前だ。
※ おかあつは2013年6月21日に中国・昆明に来ました。中国からはbloggerにアクセスすることが出来無い為、この日記は、あらかじめ別に書きためたものを後日中国の国外からアップロードした物です。
久しぶりに来た昆明は、かなり模様替わりしていた。 知っている店がなくなっていたり、知っていた道が工事中になっていたり、特によく泊まってた安ホテルが消えていたりしたのは、かなりショックだった。

一方人の様子も様変わりしたように思う。いや自分が変わったのかも知れないが。自分の感じ方が変わったのか、それとも本当に昆明の人の雰囲気が変わったのか、自分にもよくわからない。取り敢えず気付いたのは、タバコを吸っている人が減ったことだろうか。以前はそこらじゅうでタバコを吸っていた人を見かけたような気がするのだが、どうも見かけなくなった様に思う。

僕が初めて昆明に来た時は、どうも物凄く虐められて居たように思う。 だが今回来て僕が先ず思うのは、どうも僕は街の人から色々と親切にされていることだった。初めて昆明に来た時は、こんなことは全くなかった。

何が変わったのか、自分にもよくわからない。恐らくだが、ラオ語が話せるようになって、僕自身が変わったとしか考えられない。その何が変わったのかは僕にもよくわからない。

ただ僕が思うのは、例えばボッタクリのインチキ客引きみたいなのがよってきた時、前は何も言わないで逃げていたのが、今は、取り敢えず笑顔で「すんません、要りません」というようになったことな気もする。前はその一言すら言えなかったし、向こうが何を言っているのかすらわからなかった。

前はバンコクでも上手くそれが言えなかった。タイ語で答えるとうまく通じなくて話がこんぐらかるのが怖かったので、あまり話しかけられなかった。 だがラオ語が話せるようになってからは、くだらないことや、咄嗟に思いついたことを口走ったりすることも出来るようになったし、それも相手に一発で伝わるようになった。何度も聞き返されたり、誤解が誤解を読んでワケワカになったりしなくなった。 だから積極的に話しかけるようになった。 また、ラオの人独特なアイコンタクトというものがあって、これが出来るようになると、何も言わなくても相手に通じるようになるので、これも使うようになったかも知れない。

ラオ語を話しているときにやっていることは、どうも昆明でもほとんど通じるらしい事がわかってきた。 特にラオ人がやるような目の動きは、昆明の人にも100%通じる。それがなんでなのかは、僕にもよくわからない。兎に角通じる。 ラオ人が無意味にだべっている時に出てくる様な話題や、気の使い方、気の回し方も、ほとんど全部使える。

今日も銀行に行った時、警備員さんがずっと自分を気にしている事に気付いた。その時僕は菓子を食べていたので、「食べますか?」と聞いたら、物凄くよく通じた。もちろん相手が食べるとはこちらも思ってないし、向こうも仕事中食べるわけにいかないのは当たり前なのだが、ラオの人はこういう挨拶の仕方をよくする。食べないのだけど「食べますか?」と言われると嬉しい、みたいな気の使い方がある。 これが昆明の人にも通じる。

なんでそれが出来る様になったのかは、自分にもよくわからない。前は僕はこういうことが全く出来なかった。全く無口だったし、他人に話しかけるのが非常に苦手だった。

何が原因なのかは自分にもわからないのだが、すると何か街の人がすごく親切にしてくれる様になったのを感じる。 実際問題中国語は話しにならないくらいまずいのだが、それでもなんとなく受け答えや世間話くらいは何とかなるようになった様な気がする。でもそれは言葉の問題ではないような気が強くする。

ただ一つだけ僕が気がついたことがある。 昆明の人達が、実は標準語を話していたことだ。前は学校で標準語を習えば習うほど、通じなくなっていくのを感じて、非常に辛かった。標準語の発音を覚えれば覚えるほど、聞き取りにくくなっていく。標準語の発音を覚えれば覚えるほど、発音を聞きとってもらいにくくなる。 街の人の話し方の違いは激しく、僕は全く違う方言を話しているのだとばかり思っていたのだが、今発音に慣れた状態で聴いてみると、みんな基本的には標準語を話していた。

今日、超久しぶりに華僑学校(僕が中国語を勉強した学校)に行った。で、先生と話をしている時「リウレン」という言葉を聞いて、なんだこりゃ、と思った。話が進んでいく内に、どうもこれが「ニューレン nüren )の事だという事がわかってきた。 nü の発音は、難しい。これは日本人などの外人にとって難しいだけでなく、中国人にとってもとても難しい発音だ。 よってこの発音には、色々なバリエーションの訛りがあるらしい。 このnü をニューと読むと、これもかなり間違っている。これは日本語訛りだ。またこれをリウと読む訛り方があるらしい。

この様に、発音の違いはあるものの、昆明の人は基本的に標準語を話しているらしいことが、わかった。これが以前はわからなかった。全く違う言葉を話している様にしか聴こえなかった。

僕の頭の中の発音解析アルゴリズムが、発音の変化のパターンをだんだんと理解してきた様な感覚がある。自分が今まで知らなかった発音変化のパターンと出会っても、類推や推測補完で「おそらくこれだろう」という発音を導き出すことが出来る様になったことを感じる。

逆に自分が発音するときも、相手の顔をみて発音を変えるようなことも必要らしいことがわかってきた。 日本(riben)なども正しく「ルアベン」と読むと、多くの場合通じないので、「リーベン」とか「ズーベン」という様に発音を変化させて言ったほうが通じやすいことがわかってきた。すると街の中での雑談がしやすくなってくるので、色々と楽になってくる。

今日は、サルバドールという日本人が経営しているコーヒー屋に行った。そこで「手紙=shou zhi )の話をした。手紙は日本語では手紙の意味だが、中国語ではトイレットペーパーの事だ。で、このshou zhi という発音は、南部の多くの人は、ショウチーという風に発音せずに、ソウツーと発音するという話を日本語で大声でしていたら、どうも周囲の人に「こいつらは方言の話をしている」という事がバレたらしく、気がついたら、周囲の人が全員中国語や英語で「ここの発音がこう変わる」「あそこの発音はああかわる」と方言談義で盛り上がっている事に気付いた。ムチャクチャ恥ずかしかった。

結局思うのだが、方言を話す事は出来なくとも、少なくとも聴き取ることくらいは出来無いと、語学力とは使い物にならない、という事を思わざるを得なかった。

ーー

あと改めて思ったのが、中国語とタイ語とラオ語の類似点だ。日本語は言い回しも文法も物凄く違うのだが、中タイラオは、かなり似ている。

日本語だと全く同じ言い方がなくて困るのだが、中国語とタイ語とラオ語は、直訳すると同じいい方になる言い方が色々ある。 単語の一致が良い。

日本語だと「分ける」とひとつの言葉になるが、タイ語とラオ語は、 แยก と แบ่ง と分かれており、中国語も 分开(fen kai) と 分配(fen pei ) と同様に分かれていることなど。

タイ語に慣れていれば、中国語もすぐに理解出来るのだが、タイ語の下地がないままで中国語を勉強すると、こういう細かなニュアンスをつかめなくて恐らく苦労する。

勿論日本人は、漢字が読めるという圧倒的なアドバンテージがある。だが、日本人は一定まではすぐに上達するのだが、そこから伸び悩むことが多いという。そのことを一部で「さまよえる中国語中級」と呼ぶとかなんとか。

いくら漢字の言語とはいえ、音声は避けて通れない。特に方言を含めると、結局のところ英語と同じくらい難しい。

というか日本人にとって、音声だけに着目すると、タイ語もラオ語も中国語も英語も同じくらい難しい。

だから音をメインに勉強しないとダメなんだって。何度も言ってるけど。

文字で勉強しても全然使えない。人生に字幕はないのである。