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2011年11月2日水曜日

論理と心理の交差点 (mixi05-u459989-201111020448)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
論理と心理の交差点
2011年11月02日04:48
僕には学者をやってる友達が居る。古い友達だが気がついたら学者になっていた。この人と話をするのは、すごく楽しい。話をしているだけで、将棋をしている様な感覚だ。 純粋に論理についてのみ会話する能力がある。

僕の専門はプログラミングで、彼の専門は数学だから、専門が違うので、知識がカバーしている部分もずいぶん違う。 だけど、自分の専門を紹介しあって、色々な考えを交換出来る貴重な友達だ。

彼以外にも、僕の友達に多くはないがそういう論理的な討論が出来る友達が数人いる。 鋭い批判を投げると、鋭い反論が返ってきて、はっとしたりする。そのスリルがたまらない。自分の考えが崩壊するかしないかを辿り、あっと一瞬の内に何年もかけて築き上げた考えが、崩壊した時の爽快感。 自分の考えが崩壊するのは、悲しみではなく、むしろ快感だ。何十メートルも積み上げたトランプタワーが崩れるような、何ヶ月もかけて並べたドミノを倒す一瞬の様な。 僕が作ってきた考えを崩壊させる人に出逢いたい。

で、何が言いたいかというと、僕には少ないが比べる人がいるということだ。だから「論理的な人」と「論理的でない人」の違いが何なのかは、はっきりと判らないのだが、違うという事だけは、指摘できる。



人によっては、矛盾した考え方にいつまでもしがみついて、せっかく崩壊しそうになっているトランプタワーにセロテープを貼ったり、ノリをつけたりして、崩壊を防ぐタイプがいる。 終いには武器を持ち出し、崩壊させる敵を攻撃し始める。

人間は完全な論理に立ち向かうことが出来るほど、完璧ではない。 人間が操る論理も、結局のところ、出だしは感情や矛盾した気持ちである様に思う。 最初の投げる方向が正しければ、その後の論理も自然と矛盾なく組み立てられる。 ところが、最初に投げる方向が正しくないと、その後は、矛盾につぐ矛盾で、矛盾に対する付け足し、結果的にまた飛び出してきた矛盾につぐ付け足しでになる。 だから、屈折のない透明な感情を持つように、日ごろ努力する事は大切な様な気がする。

自分が持っている論理が間違っている事を証明するのは、とても難しい。 これはいつでも、大きなテーマだ。

プログラムを組んでいる時、どうもあちこちに矛盾が出てきて、上手く行かず悩んでいる時、その全体の設計方針のどこに矛盾があるのか、きちんと突き詰めてから、設計方針を変更するときもあるが、往々にして矛盾を突き止めるのは非常に難しく、時間のかかる作業であることが多い。

だから、僕は、プログラムがどんどんふくれあがってきたら「あぁ、これは、どうも何かが間違っているようだ」と踏んで、勘を使ってプログラムを作りなおす。 プログラミングは、サイエンス(因果関係をはっきりさせる事自体が目的)ではなくエンジニアリング(取り敢えず結果が出ればオッケー)なので、それでも構わない。

だから、僕は、何を持って自分の考え方が間違っていたか、矛盾なくきちんと説明できないことが多い。 だけど結果的に「プログラムの実行速度が速くなった」とか「言葉が話せるようになった」とか「不可能が可能になった」とか「人が納得するようになった」というような、経験則でしかない。



で、ずうっと矛盾した考え方にしがみついて、あれこれ僕に言ってくる人が居る場合、僕は彼のどこが矛盾しているのか、いまいちきちんと指摘できない。 これは僕の非でもある。だけど、長年の勘からくる経験則があり、それが矛盾している事は間違いないという判断は出来る。

いや、本当は、相手の言葉のいっこいっこに、蓋をするように、矛盾点を潰していくことも出来る。 だけど、矛盾点を潰したのに、潰した矛盾点がゾンビの様に蘇ってきたり、せっかく説明した論理が全部ふっ飛ばされて無視されたりすると、かなり萎えてくる。そういう場合、結局出てくる論理は、表面上の誤差でしかない。 その論理の大本にあるのは、鬱屈した感情なのだろう、と思う。

「論破するな、行動で示せ」と僕が好きな本「The 48 laws of the power」に書いてあった。論破すると最初は黙るけど、結局納得せず、後で問題を起こす、というのだ。

僕は基本的に、最初に例に出した様な論理的な人と話をするのが好きだ。 こういう人は、往々にして論破はしない。だが、話をする中で、その相手の意見の本質を掴んで、その方向性の良さ悪さを判断したりする、多角的な視点を持っている。 こういう批判は、非常にありがたく、こういう会話から新しい方向性をつかむことも非常に多い。

僕もそういう多角的に見た批判をするのは、苦手ではない。で、僕が相手の供述を多角的に見た時、その矛盾の来る地点が、論理的なものではなく、心理的なものであることに、気がつくことがある。

論理的は目に見える。だが心理は目に見えないことが多い。 こと自分の心理は他人からはよく見えるものだが、自分からはよく見えないことがほとんどだ。

その論理の間違いをどうやって指摘すれば良いのだろう。

そこからは、論理と違って「どうすれば良い」というはっきりした答えが存在しない。

コメント一覧
モダン・ペイズリー   2011年11月02日 09:03
心理学は不快ですよね

認知特性の違いによっても表出される言葉も行動も違うし

過去をどう記憶して処理している違いもある

応用思考や行動も違いますしね

だから、人間は面白い科学な生き物なんでしょうね

対話楽しみましょう
さい   2011年11月02日 09:49
論破すると黙るけど、結局納得せず後で問題を起こすって、ほんとうにその通りだとおもう。過去に出会ったとても有意義な仲間は、多角的に、分かりやすくアドバイスしてくれた人ばかりだった。そのうちの一人は「やってみて、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」とかいう昔の人の言葉をあげていた。
モダン・ペイズリー   2011年11月02日 10:03
不快ではなく深いです

ごめんなさい
モダン・ペイズリー   2011年11月02日 10:06
さいさん

素晴らしい

やってみて
言って聞かせて
させてみて
ほめてやらねば
人は動かじ

(*^▽^)/★*☆♪
さい   2011年11月02日 11:31
山本五十六とか昔の軍人が言ったっぽい。
タビビト   2011年11月05日 18:41
数学とソフトウェア。分野は違いますが、どちらも重力も抵抗も摩擦も温度も圧力も関係ないという意味で似ていますね。

おかあつさんがそのお友達に対して感じている感覚は、きっと私がおかあつさんの文章を読んだときに感じる感覚と同じようなものなんだろうなと思います。

私は論理的な人間ではありませんが、論理の世界に憧れはもっています。だからIT業界に居続けられるのかもしれないです。(そういえば数学も好きです。)論理的な文章を書いてみたいなー。
 
出展 2011年11月02日04:48 『論理と心理の交差点』