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2011年5月5日木曜日

友達と仕事をしてはならないのは、何故か。 (mixi05-u459989-201105051634)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
友達と仕事をしてはならないのは、何故か。
2011年05月05日16:34
前説 ─── 僕は、今回2011年3月8日から始まった中国旅行で、北京・天津・上海・深圳・広州・昆明と徐々に南下し、ラオスに入国、4月11日に、ルアンパバーンからビエンチャンへ移動し、ノンカイからタイに入国した後、ウドンタニーの知人のおばあちゃんの家に二週間滞在させてもらった。 その後南下し24日・日曜日の朝9時ごろ、バンコクに到着、現在に至る。 バンコクに来てからは、バンコクで活動している色々な方からお話を伺う為ミーティングに併走している ───

最近何かいつも忙しく、あまり時間がない。 だからこの文章もきちんと説明を尽くせないかもしれない。 時間がないのは友達が増えたからなのかも知れない。 友達が増えたということはいいことなのかも知れない。 「いやぁニューヨークに居る友達に頼まれちゃって仕方がなくてさぁ」とか「ベルギーにもデュッセルドルフにも友達が居る」とかそういう話をすると、どこかカッコがいい。 あちこちに友達が居るので、手広くビジネスをしててとか。 「インターポールにも友達は居る。 すぐに引き上げることになろう。」とか。

思うのだけど、「友達」というのは自分を助けてくれるので、いっぱいいた方がよいものなのだろうか。 往々にして「友達」というものは、助けてもらうわけではなく、助けてあげるべき存在ではないかと思う。 何かの利益を引き出す為のものではなく、犠牲を払って一生懸命守るべきものではないか。

僕の日本の友達は、ほとんどが「心の友」の様な存在だ。 ほとんどの友達は十年以上の付き合いで、二十年以上の人も少なくない。 再会しても金品をやりとりしたりすることはない。 100%、音楽・語学・プログラミング・アイスホッケー・スケートのいずれかの技能を通じた付き合いだ。 僕にはこういう「心の友」がたくさん居る。

だが、世間を広く見回してみると、こういう「心の友」という存在は珍しいものなのかも知れないと、思う。 友達なのに食事の一度も奢らない様な人は、だんだんと離れていく。 助けてもらってばかり居る人は、どんどん人が離れていく。 逆にどんどんと人を助けて気前よくお金を払う人のまわりには人が集まる。 僕が言う意味での「友達=心の友」とは若干異なった存在だ。 タイの人は来る人には、知らない人でもどんどんと助けてくれる。 とても親切だ。 でも長く住むようになると、友達というのがある一定の利害関係を持った仲だということを思うようになる。 日本で言うような友達とちょっと違うような気がする。

でもこれはバンコクでの話だ。 田舎になるとかなり違う様に思う。 田舎はよそ者は一切入れないし、村の中に居る人は、みんな無条件で助ける。 生活共同体だからだ。 いや、ひょっとすると、バンコクも田舎と同じような人間関係の持ち方なのだと言えるのかも知れないが。

自分が生活を共にする人はきちんと選ばないといけない。 核家族化が進んだ日本とかなり違う物を感じる。 ここでいう友達というのは、日本で言う友達とかなり違う。 何か、結婚以下だが、他人以上の何かだ。 生活を共にする何かだ。 (同性に対して結婚というたとえを使うのはおかしいかもしれないが、タイの友達という関係は、同性であっても日本でいうところの配偶者と近い様な関係だ。)

だから、トラブルばかり作り出す人を友達として選ぶと大変だ。 友達には、ある程度器量の良い人を選ばないと、こちらが面倒ばかり見る羽目に陥ってしまう。 そういう人は遠慮なく切り捨てなければいけない。 常に誰に対してもいい人ではいられない。

あるいはトラブルばかり作り出しているにも関わらず、守ろうと思う何か目に見えない価値がそこにあればよい。 その価値が見出せない人とは一緒に居るべきではないのだと思う。

大きな収入があれば、あちこちに利益を供与することで「友達」を増やすことも出来るのかもしれない。 だけど何かが違うと感じる。

お金をくれている間はいい顔をしているのに、お金がなくなったらあっさり捨てる人などいくらでも居る。

ひょっとしたら、だからこそ、チェスやスポーツ・芸術などのライフワーク、言語・背景となる文化・宗教が大きなウェイトを占めるのかもしれない。 そういう「心の友」でつながったネットワークはそう簡単には切れない。



ここまで考えてみるなかで「友達と仕事をしてはならないのは、何故か。」という疑問に対する答えは見つからなかった。 なぜだろうか。 友達というものは基本的に利益を引き出すものではなく、利益を与えて養う物だからだろうか。


メモ

・ 何か日本の「仕事仲間」という人間関係ともずいぶん違うものを感じる。 日本人は、そのあたりのよっぱらいでも、非常に高い責任感と計画性を持っている。その点タイと全然違う。 タイは計画性責任感がないのが当たり前で計画性責任感を期待しないところからすべてが始まる。 日本はそこが若干違う。 一緒に仕事をするとき、ある程度相手からの利益を期待できるところがある。 だから村的な人間関係なのだけど、タイほどの面倒くささがない。

・政治関係に置いて「利益を供与する」というのは、全ての基本なのかもしれない。 当然だが、自分の団体が利益を持っていなければ供与できない。 他の団体から利益を供与してもらうだけでは、強い権力たり得ない。 つまり、自分の団体がどうやって利益を得るのかということが全てであって、それ以外の要素はないのかもしれない。

・僕は前、お金がない、学歴がないことで、どんどん切り捨てられてばかりいたので、お金がない、学歴がないことで、他人を切り捨てる事に強い抵抗を感じる。 他人を切り捨てること自体に強い抵抗を感じる。 だから誰でも分け隔てなく付き合っている。 だけど最近そのことがしんどくなっている。

タイの人間関係というのは、非常に速くものすごく広く広がるので、誰でも付き合っていると本当に体が持たない。 特に僕はプログラマや音楽という専門を持っている。 こういう事をタイ語でムーアチープというが、ムーアチープは、普通の人と同じように時間をゆっくり使う生活を送っていたら、すぐに仕事がダメになってしまう。 特殊な存在だ。

最近「貧乏とダメ人間は違う」ということを思う様になった。 お金がなくてもまともな人間は居る。 お金を持っていてもダメ人間はいる。 持っているお金の量に関わらず、ダメ人間というものが存在する。 住む土地の田舎・都会に関わらず、ダメ人間というものが存在する。 ダメ人間を切り捨てるのに躊躇してはいけない、と思う。

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コメント一覧
 
出展 2011年05月05日16:34 『友達と仕事をしてはならないのは、何故か。』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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