今日は本当に疲れた一日だった。
2010年01月30日10:01
2010/01/30 07:37:39 +0700
今日は、マジ疲れた。 話は昨日にさかのぼる...
昨日は、スクンビット界隈でコールガールをやっている子と遊びに行った。 この子=Fさんはこの辺にいる子にしては非常によい性格の人で、たまにあって話をする。 で、この子を通じてある日本人と知り合ったのだが、この人がまたすごくいい人だった。 Sさんという。 タイに来て1年半というが、タイ語の読み書きに明るく、タイ語も非常に丁寧に話す人だったので、僕は好感を持っている。 Fは何か問題がある度に、面倒見のよいSさんに愚痴を聞いてもらったり、一緒に遊びに行ったりしていたのだが、Sさんはある問題がきっかけで他の県に出かけてしまった。 その問題というのが、Fさんとも非常に関わりの深い問題で、Fさんは非常に深く落ち込んでいた。 落ち込んでいる上、Sさんもいなかったので、どうにもならない様だった。
それで、じゃぁ一緒にどっか行こう、ということにした。 で、いろいろ考えたのだが、ステートタワーでも連れて行こうと思った。 ステートタワーというのは、バンコクで一番高級じゃないか思われる場所で、屋上に非常に洒落たバーがある。 ここがいい、と思った。
タクシーを走らせてステートタワーについた。 で、屋上に行った。 入り口に女の人が立っていて、英語で話しかけてきた。 僕がタイ語で返事をしたら何回か聞き直したあと、タイ語に変わった。 で、いわく、僕のジーンズに穴が開いているのが、ドレスコード違反だから入れないという。 何というか、非常にバカにされた雰囲気でその場を後にした。
この店は超高級だが、僕にとっては、日本の居酒屋程度の値段で飲み食いできる訳である。 いくらハメを外して飲み食いしたって、日本のキャバクラほどは届くまい。 どんなに僕が貧乏だといっても、それくらいの金は持っている。 だけど、僕は穴の開いたジーンズをはき、ネイティブの様な(汚い)タイ語を話すということで、明らかに何か見下されたような視線を受けた。
日本人がタイ語を話すというのは、決して容易ではない。 普通に考えれば、これだけ流ちょうにタイ語を話すということは、それだけの能力の高さを表すはずである。 だが決してそうは見られない。 タイ語を話すということはタイ人と同じように無能でタイ人と同じように貧乏であると、タイ人から見なされるのである。 タイ人がタイ人を見下すのと同じように、僕がタイ人から見下されるのである。 (この事で僕は何回もタイ人とケンカしたことがある。タイ人がタイ人を見下しているという事実をタイ人は決して認めない。) この違和感というのは例えようがない。 だが事実だ。 タイ語が上達すればするほど、煙たがられるのである。
僕は思う。 金持ちであるためには、論理的である必要がある。 ところがタイ人はそう思ってないところがある。 例えばトレンディードラマで描かれる世界観の違いをみてもそのことを知ることが出来る。
この国タイでもトレンディードラマが花盛りだ。 トレンディードラマは、その国での一番高級な暮らしを具象化している存在ではないか、と思う。 日本であれば、IT企業の社長の暮らしとか、料亭のコック長とか、そのような特殊技能を持った人が登場し、高級なマンションで暮らしたりという、優雅な生活をしている様子が描かれるものではないだろうか。 で、タイのトレインディードラマだが、実にのんびりしたあまり論理的でない人たちがたくさん出てくる。 彼らは特段優れた能力を持つわけでもなく、のんびりと仕事をしながらも、何故か実に高級な生活をしている様子が映し出される。 これは絶対にあり得ない状況な訳で、僕的には違和感を覚える。
日本のドラマはその辺に関して、かなりリアリズムが追求されているのではないかと僕は思う。 いや、日本のドラマだって、そんなにリアリズム的ではないと思うが、それでもタイのドラマと比べるとずっとリアリティーに富んでいる。 タイは、お金持ちの生活というのが、まるでおとぎ話の中の出来事の様でてんで現実感がない。絶対にあり得ない状況で生活している。 日本では少なくとも建前上、特殊な技能(天才料理人とか天才メカニックとか天才スナイパーとか天才医師とか)を持った人が優雅な暮らしをするという建前が少なくともあるのではないか。 また、日本には「容姿と能力は関係がない」という内容のストーリ-も多い。 日本では、頭はぼさぼさ、つぎはぎだらけの服を着ている変な天才刑事が複雑な事件をずばっと解決するとか、実にそこら辺の隠居暮らしをしているジジイが実は徳川家の偉い人だったりとかいう話が、たくさんある。 だけど、タイにはこういう話はない。
日本だけではない。 例えば、ワイドアイズシャットという映画があるが、これに登場する主人公のニューヨークでの実に優雅な暮らしは、少なくとも主人公が医者であるという設定によって裏付けられている。 少なくともそういう裏付けがあるのが普通だ。 水戸黄門やブラックジャックに表されるような「服装と能力の不一致」も実に一般的な認識だろう。 ノーベル賞受賞者のリチャードファインマンが、ヨレヨレの格好でスイスの学会に参加したという有名な話がある。 一流のジャズピアニスト、キースジャレットがビシっとしたスーツで演奏したりするだろうか。 スウェーデンのジャズピアニスト、ラーシュヤンソンなど、化け物の様なすさまじくみすぼらしい格好で演奏している。 だが、人々は、格好と能力は別な物であるという一般認識を持って、彼らを尊敬する。 ところがタイの人にとっては、見かけがすべてなのである。 ましてやタイ語をタイ人の様に話すということは、軽蔑の対象ですらある。
「論理的であること」は「お金持ちであること」の必要最低条件だと僕は思う。
◇
で、仕方がないので、アラブ街に連れて行って色々と話を聞いた。 で、色々なことを知った。 僕も個人的に田舎で様々な問題を抱えており、この事で非常に悩んでいる訳だが、この子もまた、全く同じ問題を抱えているということだ。 しかも、僕よりずっとひどい。
この問題の原因を一言で言えば、つまり田舎の人が「いくらバンコクの生活が大変だっていっても、死ぬことはないだろう」という風に錯覚している事だ。 たしかに、田舎での暮らしはまだ自給自足の文化が色濃く残っており、お金が無くなっても死ぬことはない。 しかし資本主義経済が発達してきているバンコクでは、お金がないことで死ぬことがある。 田舎の人が思っている程簡単ではないのだ。 だから都会に出てきた田舎者は、田舎から出たことがない人たちに必死でお金を得る大変さを説明する。 ところが、田舎の人は「助け合わない人は人間じゃない」というマジックカードをすぐに出す。 出されると、それをどうしても覆すことが出来ない。 だから、ひたすら、死ぬまでお金を送金するハメになる。 しかも、田舎の人はお金をさわったことがないので、まるで、散らしビラのようにお金を使いまくる。 渡せばすべて使い尽くすだけだ。 だから、何も残らない。
そういう無理なお金の助け方を続けるためには、普通のやり方では無理だ。 特にこの国ではまとまったお金を得るのはごく一部のエリートのみであり、普通の人は可能性すら無い。 だから、麻薬を売ったり、体を売ったり、犯罪に走ったりということにどうしてもなってしまう。 こういう行動は身を滅ぼす。
これは、極端な多民族国家であるタイという国が抱える、ひとつの病気なのだと思う。 政府ですらこの問題に手を焼いている。 まさに「赤シャツ」と「黄シャツ」デモ隊の衝突と同じ問題なのだ。 バンコクが働き、田舎が使い尽くすという、この国が持つ構造は、この国のもっとも大きな問題だ。
そして、昨今未曾有の不景気でもある。 少し前であれば、景気がよかったので、バンコクに来て売春でもやれば、放蕩一家のひとつやふたつ、養うことが出来た。 だが、これくらい不景気だとそれもままならないのだ。
◇
で、今日の話。 明日Sさんが帰ってくるということで、今日一日ぐらいはグチを聞いてもいいかと思い、今日もソイカウボーイにあるFが働いている店に行き、取り敢えず「連れだし料」だけでも払ってあげようかと思った。 (連れだし料が店に入りさえすれば、取り敢えずその日は働かなくてよくなる、という制度がある。)
しかしこの時、連れ出し料を取りに来たボスが実に感じが悪かった。 最悪だった。 金を渡すときぐらい、嘘でもいいのでニコニコして欲しい。 お金を払う人が、お金を払って、なおかつ気分まで悪くするのでは、どうにもならない。 悪循環である。 頭に来たのでチップを払わなかった。 そうしたらその事を他のボスに言いつけているのが見えたので、更に頭に来た。
ふと気がついたのだが、店にいる客にタイ語が話せる外人の確率が上がっている。 そういえば、この間この店で見かけた西洋人も、実に上手にタイ語を話す人で、タイ人を笑わせるツボを心得ており、実に味のある「変な外人キャラ」に設定している人だった。 そう思って思い起こすと、確かに最近タイ語が話せる外人をたくさん見かけた。 あそこでも...ここでも... そういえば、ラオ語が少し話せる貧乏なインド人が、ラオ料理屋台でツケでご飯を食べているのを見かけたことすらある。
僕は観察していて何となく思うのだが、要するに景気が悪くなるとタイ語が話せる外人の比率があがるのだ。 タイ語が話せないような人たち...つまり、外資系企業で働き、能力が高く、タイ文化に明るくなく、相場を知らず、金払いが非常によいというような人は、不景気により本国に送還されてしまっているのだろう。 残った外人というのは、つまり、在タイ歴が長く、語学好きでコミュニケーションスキルが高く、タイでの生活に慣れており、相場を熟知しており、生活費を安く抑えるノウハウをよく知っている外人なのだ。
ソイカウボーイの全ての店は入場料が無料だ。 入場料を無料にした上で、事情をよく知らない外人客を呼び寄せ、彼らから上手に金を巻き上げるというのが、この商売の本筋なのだ。 つまり、客が慣れた外人ばかりでは、商売あがったりなのだ。 僕は、そういうだましばかりやるこの店が悪いとは、思わない。 それに彼らがどんなに極悪なぼったくりをしたとしても、3000~4000バーツだ。 タイ人にとっては月収ほどもある大金だけど、外人にとってはせいぜい$100位だ。 外国では$100ではこんなに楽しく遊ばせてもらえないだろう。 だから、それでよいのだと思う。
僕のように、タイ語もラオ語も英語も日本語もわかる客ばかりでは、商売は成り立たない。 そうすると僕のようなけちな人間が来てソーダ水一杯でひたすら粘ったりするということも出来ないのである。
◇
で、この子は他の友達とディスコに遊びに行くことになった。 僕はディスコ遊びがあまり好きでないので、行ってらっしゃいと送り出して、僕はいつものようにアラブ街にしけ込む事にした。 行きつけの水たばこレストランに行ってしばらくプログラムを組んでいた。
そうしたら極めて奇跡的なことが起こった。 以前この店に居たら変な女から話しかけられた事があった。
(疲れたので次回に続く)
ただいま、 2010/01/30 08:01:01 +0700 もう寝よう。
ただいま 2010/01/30 14:14:56 +0700 アップデートした。
今日は、マジ疲れた。 話は昨日にさかのぼる...
昨日は、スクンビット界隈でコールガールをやっている子と遊びに行った。 この子=Fさんはこの辺にいる子にしては非常によい性格の人で、たまにあって話をする。 で、この子を通じてある日本人と知り合ったのだが、この人がまたすごくいい人だった。 Sさんという。 タイに来て1年半というが、タイ語の読み書きに明るく、タイ語も非常に丁寧に話す人だったので、僕は好感を持っている。 Fは何か問題がある度に、面倒見のよいSさんに愚痴を聞いてもらったり、一緒に遊びに行ったりしていたのだが、Sさんはある問題がきっかけで他の県に出かけてしまった。 その問題というのが、Fさんとも非常に関わりの深い問題で、Fさんは非常に深く落ち込んでいた。 落ち込んでいる上、Sさんもいなかったので、どうにもならない様だった。
それで、じゃぁ一緒にどっか行こう、ということにした。 で、いろいろ考えたのだが、ステートタワーでも連れて行こうと思った。 ステートタワーというのは、バンコクで一番高級じゃないか思われる場所で、屋上に非常に洒落たバーがある。 ここがいい、と思った。
タクシーを走らせてステートタワーについた。 で、屋上に行った。 入り口に女の人が立っていて、英語で話しかけてきた。 僕がタイ語で返事をしたら何回か聞き直したあと、タイ語に変わった。 で、いわく、僕のジーンズに穴が開いているのが、ドレスコード違反だから入れないという。 何というか、非常にバカにされた雰囲気でその場を後にした。
この店は超高級だが、僕にとっては、日本の居酒屋程度の値段で飲み食いできる訳である。 いくらハメを外して飲み食いしたって、日本のキャバクラほどは届くまい。 どんなに僕が貧乏だといっても、それくらいの金は持っている。 だけど、僕は穴の開いたジーンズをはき、ネイティブの様な(汚い)タイ語を話すということで、明らかに何か見下されたような視線を受けた。
日本人がタイ語を話すというのは、決して容易ではない。 普通に考えれば、これだけ流ちょうにタイ語を話すということは、それだけの能力の高さを表すはずである。 だが決してそうは見られない。 タイ語を話すということはタイ人と同じように無能でタイ人と同じように貧乏であると、タイ人から見なされるのである。 タイ人がタイ人を見下すのと同じように、僕がタイ人から見下されるのである。 (この事で僕は何回もタイ人とケンカしたことがある。タイ人がタイ人を見下しているという事実をタイ人は決して認めない。) この違和感というのは例えようがない。 だが事実だ。 タイ語が上達すればするほど、煙たがられるのである。
僕は思う。 金持ちであるためには、論理的である必要がある。 ところがタイ人はそう思ってないところがある。 例えばトレンディードラマで描かれる世界観の違いをみてもそのことを知ることが出来る。
この国タイでもトレンディードラマが花盛りだ。 トレンディードラマは、その国での一番高級な暮らしを具象化している存在ではないか、と思う。 日本であれば、IT企業の社長の暮らしとか、料亭のコック長とか、そのような特殊技能を持った人が登場し、高級なマンションで暮らしたりという、優雅な生活をしている様子が描かれるものではないだろうか。 で、タイのトレインディードラマだが、実にのんびりしたあまり論理的でない人たちがたくさん出てくる。 彼らは特段優れた能力を持つわけでもなく、のんびりと仕事をしながらも、何故か実に高級な生活をしている様子が映し出される。 これは絶対にあり得ない状況な訳で、僕的には違和感を覚える。
日本のドラマはその辺に関して、かなりリアリズムが追求されているのではないかと僕は思う。 いや、日本のドラマだって、そんなにリアリズム的ではないと思うが、それでもタイのドラマと比べるとずっとリアリティーに富んでいる。 タイは、お金持ちの生活というのが、まるでおとぎ話の中の出来事の様でてんで現実感がない。絶対にあり得ない状況で生活している。 日本では少なくとも建前上、特殊な技能(天才料理人とか天才メカニックとか天才スナイパーとか天才医師とか)を持った人が優雅な暮らしをするという建前が少なくともあるのではないか。 また、日本には「容姿と能力は関係がない」という内容のストーリ-も多い。 日本では、頭はぼさぼさ、つぎはぎだらけの服を着ている変な天才刑事が複雑な事件をずばっと解決するとか、実にそこら辺の隠居暮らしをしているジジイが実は徳川家の偉い人だったりとかいう話が、たくさんある。 だけど、タイにはこういう話はない。
日本だけではない。 例えば、ワイドアイズシャットという映画があるが、これに登場する主人公のニューヨークでの実に優雅な暮らしは、少なくとも主人公が医者であるという設定によって裏付けられている。 少なくともそういう裏付けがあるのが普通だ。 水戸黄門やブラックジャックに表されるような「服装と能力の不一致」も実に一般的な認識だろう。 ノーベル賞受賞者のリチャードファインマンが、ヨレヨレの格好でスイスの学会に参加したという有名な話がある。 一流のジャズピアニスト、キースジャレットがビシっとしたスーツで演奏したりするだろうか。 スウェーデンのジャズピアニスト、ラーシュヤンソンなど、化け物の様なすさまじくみすぼらしい格好で演奏している。 だが、人々は、格好と能力は別な物であるという一般認識を持って、彼らを尊敬する。 ところがタイの人にとっては、見かけがすべてなのである。 ましてやタイ語をタイ人の様に話すということは、軽蔑の対象ですらある。
「論理的であること」は「お金持ちであること」の必要最低条件だと僕は思う。
◇
で、仕方がないので、アラブ街に連れて行って色々と話を聞いた。 で、色々なことを知った。 僕も個人的に田舎で様々な問題を抱えており、この事で非常に悩んでいる訳だが、この子もまた、全く同じ問題を抱えているということだ。 しかも、僕よりずっとひどい。
この問題の原因を一言で言えば、つまり田舎の人が「いくらバンコクの生活が大変だっていっても、死ぬことはないだろう」という風に錯覚している事だ。 たしかに、田舎での暮らしはまだ自給自足の文化が色濃く残っており、お金が無くなっても死ぬことはない。 しかし資本主義経済が発達してきているバンコクでは、お金がないことで死ぬことがある。 田舎の人が思っている程簡単ではないのだ。 だから都会に出てきた田舎者は、田舎から出たことがない人たちに必死でお金を得る大変さを説明する。 ところが、田舎の人は「助け合わない人は人間じゃない」というマジックカードをすぐに出す。 出されると、それをどうしても覆すことが出来ない。 だから、ひたすら、死ぬまでお金を送金するハメになる。 しかも、田舎の人はお金をさわったことがないので、まるで、散らしビラのようにお金を使いまくる。 渡せばすべて使い尽くすだけだ。 だから、何も残らない。
そういう無理なお金の助け方を続けるためには、普通のやり方では無理だ。 特にこの国ではまとまったお金を得るのはごく一部のエリートのみであり、普通の人は可能性すら無い。 だから、麻薬を売ったり、体を売ったり、犯罪に走ったりということにどうしてもなってしまう。 こういう行動は身を滅ぼす。
これは、極端な多民族国家であるタイという国が抱える、ひとつの病気なのだと思う。 政府ですらこの問題に手を焼いている。 まさに「赤シャツ」と「黄シャツ」デモ隊の衝突と同じ問題なのだ。 バンコクが働き、田舎が使い尽くすという、この国が持つ構造は、この国のもっとも大きな問題だ。
そして、昨今未曾有の不景気でもある。 少し前であれば、景気がよかったので、バンコクに来て売春でもやれば、放蕩一家のひとつやふたつ、養うことが出来た。 だが、これくらい不景気だとそれもままならないのだ。
◇
で、今日の話。 明日Sさんが帰ってくるということで、今日一日ぐらいはグチを聞いてもいいかと思い、今日もソイカウボーイにあるFが働いている店に行き、取り敢えず「連れだし料」だけでも払ってあげようかと思った。 (連れだし料が店に入りさえすれば、取り敢えずその日は働かなくてよくなる、という制度がある。)
しかしこの時、連れ出し料を取りに来たボスが実に感じが悪かった。 最悪だった。 金を渡すときぐらい、嘘でもいいのでニコニコして欲しい。 お金を払う人が、お金を払って、なおかつ気分まで悪くするのでは、どうにもならない。 悪循環である。 頭に来たのでチップを払わなかった。 そうしたらその事を他のボスに言いつけているのが見えたので、更に頭に来た。
ふと気がついたのだが、店にいる客にタイ語が話せる外人の確率が上がっている。 そういえば、この間この店で見かけた西洋人も、実に上手にタイ語を話す人で、タイ人を笑わせるツボを心得ており、実に味のある「変な外人キャラ」に設定している人だった。 そう思って思い起こすと、確かに最近タイ語が話せる外人をたくさん見かけた。 あそこでも...ここでも... そういえば、ラオ語が少し話せる貧乏なインド人が、ラオ料理屋台でツケでご飯を食べているのを見かけたことすらある。
僕は観察していて何となく思うのだが、要するに景気が悪くなるとタイ語が話せる外人の比率があがるのだ。 タイ語が話せないような人たち...つまり、外資系企業で働き、能力が高く、タイ文化に明るくなく、相場を知らず、金払いが非常によいというような人は、不景気により本国に送還されてしまっているのだろう。 残った外人というのは、つまり、在タイ歴が長く、語学好きでコミュニケーションスキルが高く、タイでの生活に慣れており、相場を熟知しており、生活費を安く抑えるノウハウをよく知っている外人なのだ。
ソイカウボーイの全ての店は入場料が無料だ。 入場料を無料にした上で、事情をよく知らない外人客を呼び寄せ、彼らから上手に金を巻き上げるというのが、この商売の本筋なのだ。 つまり、客が慣れた外人ばかりでは、商売あがったりなのだ。 僕は、そういうだましばかりやるこの店が悪いとは、思わない。 それに彼らがどんなに極悪なぼったくりをしたとしても、3000~4000バーツだ。 タイ人にとっては月収ほどもある大金だけど、外人にとってはせいぜい$100位だ。 外国では$100ではこんなに楽しく遊ばせてもらえないだろう。 だから、それでよいのだと思う。
僕のように、タイ語もラオ語も英語も日本語もわかる客ばかりでは、商売は成り立たない。 そうすると僕のようなけちな人間が来てソーダ水一杯でひたすら粘ったりするということも出来ないのである。
◇
で、この子は他の友達とディスコに遊びに行くことになった。 僕はディスコ遊びがあまり好きでないので、行ってらっしゃいと送り出して、僕はいつものようにアラブ街にしけ込む事にした。 行きつけの水たばこレストランに行ってしばらくプログラムを組んでいた。
そうしたら極めて奇跡的なことが起こった。 以前この店に居たら変な女から話しかけられた事があった。
(疲れたので次回に続く)
ただいま、 2010/01/30 08:01:01 +0700 もう寝よう。
ただいま 2010/01/30 14:14:56 +0700 アップデートした。
コメント一覧
ジャコビ 2010年01月30日 11:03
>バンコクが働き、田舎が使い尽くす
似たような事をどこかで聞いた事があります。サンパウロの事だったかな?
似たような事をどこかで聞いた事があります。サンパウロの事だったかな?
おかあつ 2010年01月30日 16:18
多分ですが、南の国はそういう傾向がどこもあるんだと思います。
僕が聞いたことがある話では、ギリシャがそうだということを聞いたことががあります。
僕が聞いたことがある話では、ギリシャがそうだということを聞いたことががあります。