イサーンなまりの秘密...2 雑学王者決定戦? (おかあつ)
2009年12月24日 17:02
前回 : イサーンなまりの秘密...1
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49051669&comm_id=987254
前回記事を書いてからいくつかのコメントを頂きました。 その中でもひとつのコメントは大変心苦しかったのですが削除させていただきました。 削除するのは迷惑だからとかレベルが低いからという意味ではなく、ラジオの投稿のボツと同じような感覚で捉えていただければ幸いです。 ひとつひとつのコメントにきちんと納得がいくような反論や論拠を示すことも出来ますが、その結果、全体の流れとしてあまりおもしろくないと判断した場合、大変残念なのですが、ボツとさせていただければと思うのです。
前回のコメントの中でいろいろな指摘を頂き、そのひとつひとつに反論を書こうと思ったのですが、そもそも僕が何を考えているのか、このように別な記事として起こしてみたいと思います。
反論を書いているうちに僕の中で「いや、僕はそんなことをいいたかったのではないのだ!」という心の叫びが大きくなってきました。 というのも、とかくこういう話をネットでしていると、何故かどうしてか、雑学王者決定戦みたいな話になってきやすいと感じるのです。 いや、甘いね。 俺はこんなことも知っている、いやいや、あたいはこんなことも知っている、という感じで雑学の応酬となり、エンドレスでとまらなくなります。 僕もそういう雑学を持っていない訳ではなく、むしろかなりたくさん持っている方です。 ですが、そういう雑学をたくさん持っている事に本当に大切なことでは無いと僕は感じています。
前回、僕が本当に言いたかったことは、そういう方向性のことではまったくありません。「象のチョーチャーンが鎖のソーソーに変わるという事実がタイ人の間でとても有名で、しばしばギャグとして使われるのだ」という事です。 これは雑学ではなくタイ語を話すときのひとつのTIPSです。 日本人が日本人に話して「ヘー」と言わしめ相手から尊敬の念を引き出すための武器ではなく、外国人がタイ人と雑談をするときにタイ人から笑顔を引き出すための優しさのひとつなのです。
ひたすら知識のデータベースを組み立てて、こちらではこう、あちらではこう、とイサーン語の地域間の差異をあげていくことも可能です。 ですが、そうではなく、タイ人がイサーン人に対して持っている感覚を理解することこそが大切だと思うのです。 つまり、タイ人と一緒に、ポンランサオーンやスィアンイサーンを見て、タイ人みんなが笑っているその輪の中に入ることができることこそが、本当に意義のある事じゃないかと思うのです。
ポンランサオーン・シュット1のある場面でイット氏がサラッと言います。 「プーッタイコーマイサット!」 すかさずララーの素早いつっこみ...「チャット!」 ここで、クスッと笑える様になる。 ここで笑える妙にタイ人の感覚を理解している日本人となる。 これがもっとも大切な事じゃないかと思うのです。
象のチョーチャーンが鎖のソーソーに変わるという事を知っているだけでは、無意味だと僕は思います。そのことをタイ人がどういう感覚で捉えているのか、きちんと自分の感覚として理解している、ひいては、聞いて理解できるだけでなく、そういうギャグをこちらからいえるようになったら、すばらしい事だと僕は思います。
タイに来る外国人というのは、(日本人に限らず)しばしば自分の国に一抹の息苦しさを感じている人であることが多いように思います。 タイの人には、そういう複雑な思いを抱えてタイにやってくる外国人を絶妙な心遣いでいやす事が出来るすばらしい国民性があります。
タイ語を勉強するからには、こういうタイ人の気遣いの恩恵にあやかるばかりでなく、逆に困っているタイ人・困って複雑な思いを抱えてスクンビット周辺で小物を売っている様なタイ人から、むしろ逆に笑顔を引き出してあげるような、タイ語独特の、森に吹くさわやかな風のような話術を身につけるべきでしょう。
これこそが、タイ語超上級スーパーエクストリーム編の目指す地点にふさわしいレベルです。
...で、ついでに森に住むマムシの様なイサーンの毒舌も学んでいこうという趣旨です。
^^;
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49051669&comm_id=987254
前回記事を書いてからいくつかのコメントを頂きました。 その中でもひとつのコメントは大変心苦しかったのですが削除させていただきました。 削除するのは迷惑だからとかレベルが低いからという意味ではなく、ラジオの投稿のボツと同じような感覚で捉えていただければ幸いです。 ひとつひとつのコメントにきちんと納得がいくような反論や論拠を示すことも出来ますが、その結果、全体の流れとしてあまりおもしろくないと判断した場合、大変残念なのですが、ボツとさせていただければと思うのです。
前回のコメントの中でいろいろな指摘を頂き、そのひとつひとつに反論を書こうと思ったのですが、そもそも僕が何を考えているのか、このように別な記事として起こしてみたいと思います。
反論を書いているうちに僕の中で「いや、僕はそんなことをいいたかったのではないのだ!」という心の叫びが大きくなってきました。 というのも、とかくこういう話をネットでしていると、何故かどうしてか、雑学王者決定戦みたいな話になってきやすいと感じるのです。 いや、甘いね。 俺はこんなことも知っている、いやいや、あたいはこんなことも知っている、という感じで雑学の応酬となり、エンドレスでとまらなくなります。 僕もそういう雑学を持っていない訳ではなく、むしろかなりたくさん持っている方です。 ですが、そういう雑学をたくさん持っている事に本当に大切なことでは無いと僕は感じています。
前回、僕が本当に言いたかったことは、そういう方向性のことではまったくありません。「象のチョーチャーンが鎖のソーソーに変わるという事実がタイ人の間でとても有名で、しばしばギャグとして使われるのだ」という事です。 これは雑学ではなくタイ語を話すときのひとつのTIPSです。 日本人が日本人に話して「ヘー」と言わしめ相手から尊敬の念を引き出すための武器ではなく、外国人がタイ人と雑談をするときにタイ人から笑顔を引き出すための優しさのひとつなのです。
ひたすら知識のデータベースを組み立てて、こちらではこう、あちらではこう、とイサーン語の地域間の差異をあげていくことも可能です。 ですが、そうではなく、タイ人がイサーン人に対して持っている感覚を理解することこそが大切だと思うのです。 つまり、タイ人と一緒に、ポンランサオーンやスィアンイサーンを見て、タイ人みんなが笑っているその輪の中に入ることができることこそが、本当に意義のある事じゃないかと思うのです。
ポンランサオーン・シュット1のある場面でイット氏がサラッと言います。 「プーッタイコーマイサット!」 すかさずララーの素早いつっこみ...「チャット!」 ここで、クスッと笑える様になる。 ここで笑える妙にタイ人の感覚を理解している日本人となる。 これがもっとも大切な事じゃないかと思うのです。
象のチョーチャーンが鎖のソーソーに変わるという事を知っているだけでは、無意味だと僕は思います。そのことをタイ人がどういう感覚で捉えているのか、きちんと自分の感覚として理解している、ひいては、聞いて理解できるだけでなく、そういうギャグをこちらからいえるようになったら、すばらしい事だと僕は思います。
タイに来る外国人というのは、(日本人に限らず)しばしば自分の国に一抹の息苦しさを感じている人であることが多いように思います。 タイの人には、そういう複雑な思いを抱えてタイにやってくる外国人を絶妙な心遣いでいやす事が出来るすばらしい国民性があります。
タイ語を勉強するからには、こういうタイ人の気遣いの恩恵にあやかるばかりでなく、逆に困っているタイ人・困って複雑な思いを抱えてスクンビット周辺で小物を売っている様なタイ人から、むしろ逆に笑顔を引き出してあげるような、タイ語独特の、森に吹くさわやかな風のような話術を身につけるべきでしょう。
これこそが、タイ語超上級スーパーエクストリーム編の目指す地点にふさわしいレベルです。
...で、ついでに森に住むマムシの様なイサーンの毒舌も学んでいこうという趣旨です。
^^;
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