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2009年12月20日日曜日

イサーンなまりの秘密...1 (isaan05-c987254-200912201336)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
イサーンなまりの秘密...1 (おかあつ)
2009年12月20日 13:36
この間ラオスに行った時、ラオス語の先生に教えてもらった豚焼肉屋に行きました。 本当はそこにあった犬焼肉屋(!)に行きたかったのですが、時間が遅くもう閉まっていたので残念ですが諦めて、豚焼肉屋に行くことにしました。

豚の皮をカリカリに焼いてそれを野菜で巻いておいしいタレを付けて食べる料理で、15パンキップ(タイバーツでだいたい50バーツ・日本円で大体200円くらい)で腹いっぱい豚の焼肉を食べて大満足でした。

で、ラオス語があまり上手でなく、ラオス語にタイ語のなまりが強い僕をみた店員さんが、ふと僕に向かって「シェープマイ?」と話しかけてきました。 シェープ... 僕はシェープという単語を今まで、タイ語でもラオス語でも聞いたことがなく、???となってしまいました。

10秒ぐらい考えてパッと閃きました。 「セープボー!」



...解説せねばなるまい。 (^^;;

イサーン語も含めたラオス語では、タイ語にはあるがラオス語には無い発音がいくつかあって、その内でももっとも代表的な物がチャ行の欠落です。 タイ語とラオス語で共通な単語で利用されるチャ行(チョーチャーン ช)は、すべて、ラオス語では サ行に変ります。 例えば、この文字チョーチャーン自体も、ラオス語ではソーサーンと呼ばれます。 (日本語で書くとチャの方が一般的ですが、発音自体は場合によってかなり日本語のシャに近い発音にもなります。)

つまり、ラオス語を話す人にとっては、自分の言葉のサ行をすべてチャ行(シャ行)に置き換えればかなり高い確率でタイ語にコンバートすることが出来る、というテクニックがあるのです。 例えば、ラオス語でソーサーンであれば、サ行をすべてチャ行に置き換えてチョーチャーンとタイ語に変換する事が出きます。 大部分の単語がこの規則で置き換えられるのですが、中に例外があるのです。

例えば、オートバイを表すモーターサイという言葉があります。 モーターサイは外来語です。 だからラオス語でモーターサイであっても、タイ語でモーターシャイとはなりません。 タイ語でもモーターサイです。

「語学で学ぶあらゆる知識の95%は規則的な変化をし、不規則な変化をするものは全体の5%程度しかない。しかし日常頻繁に使われる単語のほとんどがその5%に集中している。」の法則がここにも現れます。 この日常語のほとんどの単語が上記のパターンに則らないのです。

しかし則るものもあるのです。例えばはっきりすると言う意味の「ชัด」は 日常頻出語であっても ラオス語で サッ タイ語でチャッと、この規則に則って変化します。 この様に、この変化に則るものもあれば則らないものもあるということは非常に混乱の元です。

この問題はよく気をつけていないと、プーッタイマイチャッ(タイ語がうまくない) が、 プーッタイマイサッ になってしまったり、キーモーターサイ(オートバイに乗る)が、キーモーターシャイになってしまったりします。

で、ラオス語でおいしいを表す セープですが、これをシェープに変えても、残念ながらタイ語になりません。 タイ語では「アロイ」です。 つまりこの店員さんは セープボーを直接上記のパターンで置き換えて「シェープマイ?」と話しかけていたのでした。

これがまさに、いわゆる「タイ語イサーンなまり」の根源です。



これはラオス語を最初に知った人がタイ語を話す時に起こる問題ですが、同時にタイ語を先に知った人がラオス語を話す時にも起こりえる問題です。 得に教本・教材に事欠かないタイ語と違いラオス語は教材がとても少ないため、多くの人はタイ語を勉強してからラオス語を勉強することになるでしょう。

ラオスの人は温和で多少間違ったラオス語を話してもニコニコして聞き流してくれますが、ラオス語を第二言語として話す人にとって、タイ語なまりラオス語から脱出するのは、ラオス語なまりのタイ語から脱出するのと同様、容易ではありません。
コメント一覧
[2]   ダヌパット   2009年12月22日 11:20
それと「ロールア」が「h」にかわるのでは?
ラック=ハック、ローン=ホーン、ロングリアンにいたっては
ホングヒアン・・・

学生に「チャイ」というニックネームの学生は「サ(シャ)イ」と
皆呼んでいますね・・・。
[3]   おかあつ   2009年12月23日 02:10
もちろんそうです。 ただ、どういう変化をするかを全部一度に書くと本が出来てしまうので、追って順番に書いていこうと思います。

ちなみにロールアに関してですが、僕が最近知ってびっくりしたのは、その(タイ語の)ロールアが(ラオス語では)ハ行に変ることに加えて、ハ行に変らないロールアはローリンに変化するっていう規則です。 こっちはあまり知られてない様な気がします。

ノンカイのテスコロータスで、コプクンティーチャイボリカンってタイ語とラオス語両方で書いてあったんですが、ボリカンのリがタイ語だとロールアでラオス語だとローリンなんですよね。 ヘーッって思いました。 ただ、ラオス語にはローロットっていうタイ語には無い文字があって、ローリンでなくこちらに変化する物もあるので、一概には言えません。

更にイサーン語では同じロールアでも ハ行に変わる単語と変らない単語があるので、規則は簡単ではないです。 「知らない」という言葉ひとつとっても、出てくる文脈によって ボフーって言うときとボルーという時とあり、単純ではないです。
[4]   そむちゃい吉田   2009年12月23日 09:31
ひとことにイサーン語と言っても、県や地域によっても発音が違いますよ。
大ざっぱにラオス語とイサーン語という場合でも、
イサーンをどこにするかでかなり違うと思います。
わたしが知っているのはコラートとコンケーンという隣の県。
またノーンカイなどと比べると違いはさらに大きくなります。

面白いのはコラートの場合、イサーン語とタイ語の中間的な方言であること。
(コラート県内であっても違う事もあるようです。)

例として
・なに? 
 アライナ?=タイ語
 アライコ?=コラート語
 イヤンコ?=イサーン語

また、最近のラオス語はタイ語の影響をかなり受けています。
ホーイがローイ(100)になったのも、ここ10年くらいです。
ですので、他のホーがローになっているものも同様に考えられます。

さらにラオス人といっても、地方や民族によって言語そのものが違っており
その言語の影響が標準ラオス語にも表れますので、
この場合もヴィエンチャンのみを対象にするなど定義が必要になりますね。


そして、ラオス人はタイ語をちゃんと聞き取れますが、
タイ人はラオス語をあまり理解していません。
これは、ラオス国内でもタイのテレビは見られますので、
単純にテレビの影響と観光収入を当て込んだものと考えられます。
タイ人、特にバンコク人がイサーン語をほとんどわからないのと似た現象とも言えるでしょう。
これは日本も全く同じで、東京人にとって津軽弁や沖縄語が理解できないという現象があげられるでしょう。
[5]   おかあつ   2009年12月23日 12:02
もちろんそうです。 ただそれを一度に書くと本が軽く2~3冊出来てしまうので、追って順番に書いていこうと思います。

>面白いのはコラートの場合、イサーン語とタイ語の中間的な方言であること。

コラートでどうよばれているかは僕は知らないのですが、コラート弁の事をノンカイ周辺では「パーサーカーン」とか「パーサーコラート」とか呼ぶことがあります。 イサーン語の中でもタイ語の混ざり具合がかなり強い言葉だと思います。 イサーン語に色々な変化があるのはもちろんですが、中でもかなり特異であるパーサーコラートを挙げてイサーン語にも色々あるという意見には僕はちょっと賛同できません。


> さらにラオス人といっても、地方や民族によって言語そのものが違っており

ここまで踏み込むなら、じゃぁ民族って何なのか、国境って何なのか、方言って何なのかという事を考える必要があると思います。 民族って何でしょうか。 イサーン人でイサーン語(ラオ語)を話す人でも顔が白い人って結構居ます。 ビエンチャンにいくともっとたくさん居ます。 そういう中にも顔が黒い人も居ます。 そういった容貌を見ればその人の性格がだいたいわかります。 容貌によって性格がずいぶん異なるからです。 僕はこれは民族のハードウェア面じゃないかと思っています。

そういう容貌とは別にその人が何語を話すのかという問題があります。 その人がどういう文化バックグラウンドを持ってどういうお祭りをしてどういう言葉を話すのか、という面です。 これは僕は民族のソフトウェア面ではないかと思うのです。

そういう容貌と言語の組み合わせの確率は地域によってグラデーション的に変っていくのではないかと僕は感じています。

この変化をきちんと議論しようとすると、こちらは辞書が軽く2~3冊出来るでしょう。 調査費用もかかるでしょう。 所詮ミクシなんで、一応軽い読み物程度に抑えたいじゃないですか。
^^;



僕はもうひとつ共通語と地方語という概念を持っています。 例えばバンコクやビエンチャンは都会なので、あちこちの地方から上京してくる人がたくさん居ます。 上京してくる人はみんな自分の言葉を持っているのですが、都会ではみんな違う言葉を話していたら意思疎通が不便なので、共通語を話すことになります。

共通語を話す人たちというのは、ちょっと特殊です。 みんなが色々なクセを持って共通語を話すので、みなそれぞれ、そういう差異におおらかというか、多少なまっていてもおおざっぱに理解するスキルみたいなもの持っています。

地方語は違います。 生まれてから何十年もずっと一緒に居る人同士、何十年も顔見知りで知らない顔と会うことは一切無いというような狭い環境でしか話しません。 地方語を話す人たちは発音がちょっとでも違うと通じなかったりします。 発音の差異にとても神経質です。

僕が知っているのはチョーチャーン(皿のチャーン)が コーカイ(鶏のカイ)に変わる方言です。 ウドンでよく使われる方言です。 国境の向こうではパクセーで話されると聞いたことがあります。 こちらはバリバリの地方語でちょっとでも発音が違うと「は?」と聞き返されます。

僕はちょっと完璧主義すぎるところがあるのかもしれないですが、外人がビエンチャンに行ってラオス語を話して通じているというのは、ある意味ラオス語が話せるとみなせないんじゃないか、と思ってるのです。 ビエンチャンの人は、都会の共通語であるラオ語を話し、なまりに寛容だからです。 多少タイ語なまりでもかなりベタベタに間違っていても聞き取ってわかってくれるからです。

(何故かというと個人的にはウドンでラオ語を話すのが目標で、ウドンの人はちょっとでも発音が違うと嫌な顔をしたりタイ語に直そうとしたりするので、「発音が多少違っててもわかってくれる」程度だとちょっと足りないのです。)

(ちなみにもう一つ目標があります。 もうひとつの僕の目標はシアンイサーンのギャグが全部聞き取れる事です。 こっちも多少はなせる程度だとかなり難しいのです。)
[6]   そむちゃい吉田   2009年12月25日 23:53
言葉って、それ一つだけではどうにも説明のつかないことがいっぱい出て来ますよね。
お気づきの通り、歴史、文化、民族すべてに関係しているわけで。

ひとつのコミュニケーションツールと割り切ってしまえばそれきり。
でも、少しでも興味を持ってしまうと次から次へと疑問がわいて来て、
どんどん引き込まれてしまう。

形のないものですし、その形成をリアルタイムに見たわけでもないので、
その考察は人それぞれに違ってきます。

多分、同じだと思うのですがわたしもこの魅力を伝えるのに苦労しています。
さらに悪いことに自分の表現力と言う問題も加わるのですが、
少しでも、ひとりでも、同じ疑問を持った方の助けになればと思ってます。

おかあつさんは、非常に観察力、学習力の優れた方とお見受けします。
わたしも専門的に学習したわけではないので、ここでの考察はすごく刺激的です。
これからも独自の視線で考察を深めて、書き進めて下さい。
楽しみにしています。
[7]   おかあつ   2009年12月27日 17:03
>多分、同じだと思うのですがわたしもこの魅力を伝えるのに苦労しています。
>さらに悪いことに自分の表現力と言う問題も加わるのですが、
>少しでも、ひとりでも、同じ疑問を持った方の助けになればと思ってます。

僕は、そこの人がどう思っているのか知ればそれで充分だと思います。 そこにいる人が「あーそうそう、そうなんだよ、よく知ってるね」って共感を持ってくれればそれで充分だと思うのです。 むしろ、それ以上の事は必要ないと思います。

また、そこには、個人的な感性とか、個人的な表現力の違いとか、考え方が人によって違う、とか、そういう要素は一切入って来ません。 そこにいる人が「そうそう」って思うならそうですし、「いやそんなことない」って思えば、違うっていうそれだけの事だと思います。 これははっきりと形を持った具体的な物だと思います。

何か攻撃的な書き方で恐縮なのですが...そう思うのです。
[8]   おかあつ   2009年12月27日 17:24
もちろん、それを日本語でどうやって書くかっていうのは、別問題だと思います。 こっちはとても難しいです。

ただ、案外ラオス・イサーンにある物って(というか、どこの国に行っても実は同じなのかもしれないですが) 日本にもほぼ同じ要素のものがあるように思います。 世界中どこに行ってもおばあちゃんの話す話題って「足が痛い」とか「足痛にはどこの病院がいい」とか「どこの誰々がケンカして離婚した」とかそういう事だったりするような気がするのです。



一方、日本人って「自分の事を100%理解してくれる人を探し求める」習慣があると思うのです。 自分の事をわかってほしいなら、自分の事をきちんと誰にでもわかるように説明するスキルを持っていなければいけない筈です。 あるいは「わかってほしい」 と思うなら、思うのと同じだけ他人を理解するためのスキルを身につける必要もある筈です。 しかし、日本人は、そういうコミュニケーションの訓練を一切しないので、日本人同士であってもコミュニケーションがまったく取れません。 そういう中で寂しさに打ちひしがれて、いつも「世界のどこかに自分の事を100%理解できる人がいる」と信じて探し回るんじゃないかと思います。

特に日本は近代化が進んで、ラオ人と同じように「みんな大体同じ」とはもはや言いきれない複雑な社会に住んでいます。 なのに今でも同じだと思っている。 自分の事を説明せずにわかってもらうなんて、あるいは人の説明を聞かずにだいたい理解するなんて、所詮無理なのです。 なのに自分を説明したがらないし、人の説明を聞きたがりません。 日本人には自分と異なる人=「他人」が存在しないんだと思います。

こういう精神性を持っている日本人に、外国の文化について説明するというのは、独特の難しさがあるのではないか、と僕は感じます。
 
出展 2009年12月20日 13:36 『イサーンなまりの秘密...1』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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