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2009年8月15日土曜日

反戦 (mixi05-u459989-200908150907)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
反戦
2009年08月15日09:07
西洋の反戦と日本の反戦は、何かが違う。



JMM『オランダ・ハーグより』

~引用~

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title1_1.html

「花はどこへ行った?」

 今年の7月25日、Harry Patch ハリー・パッチ氏が亡くなった。享年111歳で した(1898-2009)。

 といっても、ハリー・パッチ氏の名前を知る読者はまずおられないのではないかな。 わたくしも実は新聞で読むまで彼のことは知らなかったのですが、パッチ氏は、政治 家でも俳優でもアーチストでもなく、サッカー選手でもクリケット選手でもない、一 介のイギリス市民であります。

 パッチ氏は二つの世界大戦(1914-1918、1939-1945)を戦った 世代の最後の生存者であります(パッチ氏が亡くなる一週間前、ヘンリー・アリント ンというお年寄りが113歳で亡くなっています。彼らがあいついで亡くなったこと により、第一次世界大戦を身をもって知る世代はイギリスにいなくなってしまったの であります)。

 第一次世界大戦以前の戦争では、つまりペロポネソス戦争や薔薇戦争や普仏戦争や クリミア戦争や応仁の乱に関が原などでありますが、戦争はプロの兵士が戦うものと 決まっていた。それが第一次大戦になって戦争の規模がとてつもなくおおきくなり、 人手が足りなくなって徴兵制がしかれるようになったのであります。イギリスは19 16年に徴兵法(Military Service Act)という法律を布(し)き、市民の徴兵を始 めたのでありました。すなわちパッチ氏は、本人の意図・信条に関わりなく狩り出さ れて戦場に赴いた最初の世代でありました。

 1898年、つまりヴィクトリア時代の最後に生まれたパッチ氏は、この当時まだ ティーンエージャーで、鉛管工の見習いをしていたのですが、まもなく第一次大戦が 始まった。さきに戦地へ行っていた兄が負傷して帰国し、それを見て、おれにももう じき徴兵の通知がくるだろうなと思っていたところ、予想どおり、「赤紙」がやって きたのでありました。

 軍隊にとられたといっても、こちらは市民兵ですからそのまま戦場に連れて行くわ けにはいかない。パッチ氏はまず軍事訓練を受けるのであります。鉛管工からはから ずも兵隊になってしまったパッチ氏であったが、のみこみが早く、かつ敏捷で、すべ ての教科によい成績を収めたらしい。とくに射撃のコツをだれよりもすばやくつかん で、すぐに部隊きっての機関銃兵になったのであります。

 そして、訓練を終えたパッチ氏は、1917年、第7師団に配属されるのですが、 この部隊はフランスに送られる。ここでパッチ氏は機関銃掃射の技術とともにスナイ パー(狙撃兵)としても実力を存分に発揮するのです。

 第一次大戦の特徴のひとつに、戦争の規模が膨らんだものの、物資需要の急増に供 給が追いつかなかったことがあります。ですからこの時代の軍事産業は需給バランス の不均衡によって巨大な利益を上げたのであるが、それは別のときに議論するとして ……、ともかく、弾薬は貴重な軍事物資だったので、狙撃には細心の注意が必要とさ れた。無駄弾を撃つことは許されなかったのであります。パッチ氏はそのような制約 を楽々とクリアして、「優秀な兵士」と評価を受けた。

 部隊は戦況の展開とともに、西部戦線へ移動する。第7師団はベルギーの中でもい ちばんの激戦地でいちばん惨めな戦いを繰り広げたフランダース地方(イープルの近 郊)へ配置されるのです。フランダースでの戦いは一進一退でどちらも戦果をあげる ことなく、持久戦のまま、戦いは三ヶ月の長きに及んでしまう。

 そのあいだ、戦場には雨が降り、塹壕は泥だらけになってぬかるみ、硝煙の匂いは 消えることなくあたりに漂い、進むに進めず後ろにも戻れず、勝つとも知れず、負け るともわからず、明日の展望もまるでないまま、敵も味方も双方とも、兵士たちは生 殺しされるような気分に疲れきっていたのでした(イープルの町に戦争博物館があり ますが、そこに塹壕を再現した一部屋があります。部屋は薄暗くなっていて、本物の 火薬の匂いがたちこめている。時折、自動小銃の音がこだまする。演出だとわかって いても、ここだけはだれもが怖くなって駆け抜けてしまう、実に恐ろしい部屋であり ます)。

 だが、ぬかるみの塹壕の中でも、兵隊たちはお互いに元気づけあって暮らしていた のでした。彼らの楽しみの一つは故郷から届く小包で、これがが届くとみんなで中身 を分け合うのが楽しい習慣になった。パッチ氏は同じ部隊の3人の兵隊たちととても 仲良くなって、小包から出てくるタバコとかソックスとか(配給の靴下はすぐに穴が 開いた)を分け合ったり、ガールフレンドからの手紙をまわし読みしてからかいあっ たり、そうやって息抜きをし、無聊をかこったのでした。そうして彼らはかけがいの ない親友同士になった。

 パッチ氏は機銃を扱う技術に長けていたが、もともと好きでなった兵隊ではありま せん。それで、戦場で「人を殺す」ということがどうしても理解できないでおりまし た。

 あるとき、向こうの塹壕からドイツ兵が撃ちながらこちらへ迫ってきたことがあっ た。パッチ氏は相手を狙い、正確に肩に弾を撃ち込むのです。ドイツ兵は倒れながら も、さらに迫ってくる。撃たなければこちらが殺されるというとき、彼はこんどは敵 兵の足を撃つのです。パッチ氏ほどのスナイパーの腕をもってすれば、至近距離の敵 を撃ち殺すことは簡単なことだった。が、「なぜか、わたしは彼を撃ち殺すことがで きかったんだ」と、後年、パッチ氏は言っております。

 1917年9月22日。彼の部隊はドイツ軍の大きな攻撃を受け、パッチ氏たちの いた塹壕に砲弾がおちて、隣にいた3人の兵士は即死してしまう。彼らはタバコや靴 下を分け合い、笑いあっていた仲間だったのでした。

 パッチ氏も傷つき、後方へ戻される。

 そして入院するのですが、このことがパッチ氏の戦争観を決めた。なぜ親友が死な なければならないのだろう。なぜおれが傷を負わなければならないのだろう。おれた ちが何をしたというのだ……?

 第一次世界大戦は、欧州各国の気まぐれではじまったようなものであります。セル ビアの青年がオーストリアの皇太子を狙撃し、オーストリアがセルビアに「責任者を 処罰しろ」と通牒をだし、オーストリアとセルビアを囲むほかの国々が相互に複雑な 連携契約をしていたがために、みんなが争いに巻き込まれて、戦争が始まったような ものであった。

 そのような経緯でしたから、だれもがこの戦はすぐ終わるのだと思っていた。誰か がアタマをさげさえすれば、四方丸く収まるはずだったのであります。ところが、誰 も譲らないまま時間はたち、押さえが利かないままデスマッチになっていったのであ ります。

 開戦当初、「この戦争はすべての戦争を終わらせるための戦争だ」とのスローガン が掲げられ、市民は高揚した。レマルクの『西部戦線異状なし』という戦争文学の傑 作がありますが、その本の最初の章で、先生は学生たちに、「きみたち、世界の平和 を考えるのなら、戦場に行きなさい」と奨励する場面があります。そして多くの若者 たちが平和のために戦場に行ったのでした。

 パッチ氏もそのように鼓舞されて徴兵されたひとりだったわけですが、しばらくす るうちに、現場の兵士たちは、どうやらこの戦争はそんなユートピア的な話ではない のだと気がつくのです。「すべての戦争を終わらせるための戦い」というけれど、お れたちは辛い思いをしすぎてはいないか……。そうしてあちこちで厭戦気分がひろ がっていくのですが、ですから西部戦線での兵士の気分というのはじつに嫌なもの だったのでありましょう。

 負傷したパッチ氏が療養しているあいだ、第一次大戦は終戦を迎え、彼は病院で身 の回りの世話をしてくれていた看護婦の女性と恋におちる。それはなにかヘミング ウェイの小説のような趣がありますが、それはそれでよく、彼は故郷のバースへ戻っ て彼女と結婚するのでした。

 それからの80年、彼は戦争に関わることはありませんでした。第二次大戦がはじ まったときには齢がいきすぎていて徴兵されることがなく、かわりに国内にいてバー ス市の消防隊勤務をした。生涯、二度と戦場へ行くことはなかったのであります。

 そして、その80年間、パッチ氏は戦争について語ることはなかった。

 パッチ氏が戦場で過ごした期間というのは、実際はたった4ヶ月あまりのことであ ります。だがその4ヶ月の戦場生活は、彼にとってまさに地獄の生活だった。以来、 いろいろ聞かれてもパッチ氏は戦争について話すことはなかったのです。終戦の式典 に出席することもなく、勲章の授与もかたくなに断り続けてきた。テレビで戦争映画 を観ることはなかったし、映画館に行こうと誘われても、戦争映画だったら観ること はなかったということです。

 第一次世界大戦の連合国は、11月11日を終戦記念日として祝うことをしきたり としてきていますが、パッチ氏は「あれはショーだ」といって取り合わず、「わたし の記念日は、仲間がみんな死んだ9月22日だ」と言って、終戦記念日の式典に招か れても、一切断り続けてきたのでありました。

 パッチ氏は2008年になってはじめて、終戦記念の招待状を受け入れました。そ の年は第一次大戦終了90年の年で、彼は西部戦線イープルの旧戦場を訪ねた。80 数年ぶりのことでした。

 パッチ氏は、そこでイギリスの旧軍人だけでなく、一緒に戦ったベルギー、フラン スの兵士たちとともに、ドイツの元兵士たちにも会うのです。彼らはみな老人になっ ていて、多くは車椅子での参列だった。墓地に献花をし、敵・味方の兵士たちと語ら いながら、和解 Reconciliation ということを考えた。なんでおれたちはあんな戦争 をしたのだろう……。みんな普通のいいひとじゃないか……。

 彼はフランスからレジオンドノール勲章、ベルギーからはレオポルド勲章をそれぞ れ授与されております。それらは兵士が受ける最高の勲章であります。だがパッチ氏 は「わたしのいちばんの勲章は、育ったバースの町からもらった自由勲章だ」と言っ ていた。

 ハリー・パッチ氏はごく普通の市民であります。戦争の経験ということならば、 パッチ氏よりもっと悲惨な思いをした兵士はいたはずです。パッチ氏はたった4ヶ月 戦場にいて帰還したのだから、幸運な兵隊だったといえなくもない。だが総じて言う ならば、一般市民が召集された戦争でいちばん辛い思いをしたのは、パッチ氏のよう な下層階級だったのであります。

 ロンドンにノッティング・ヒルというお洒落な地区がありますね。映画の舞台にも なって、あたらしいレストランやバーが並ぶ、とても人気の地域であるが、あの区域 は、昔は低所得者階級の住宅街であった。西部戦線で多くのイギリス兵が死ぬと、そ の日にはノッティング・ヒルの通りに並ぶ家々のカーテンがいっせいに閉めきられた という話を読んだことがあります。あの町に住んでいた家庭の多くは家族から兵士を 出し、その多くは戦場から帰ってこなかったのであります。イギリスは軍人一般市民 を入れて99万人の死傷者を出したが、多くはノッティング・ヒルのような地域の住 民だったのであります。

 対照的に、その99万の犠牲者のうち、ケンブリッジやオックスフォードの卒業生 の死傷者は2000人足らずであったという、うろ覚えですがそういう数字を読んだ 記憶がある。エリートたちは前線に出ることなく後方で、戦略立案という「管理職」 をやっていたのでありました。

 繰り返しますが、ハリー・パッチ氏はごく普通の市民だった。銃器の腕前はたいし たものだったけれど、ひとを殺すことのできない兵士だった。そして戦場でできた友 人を失ったことを痛恨しつづけた、ごく普通の市民だったのであります。彼はじぶん を傷つけ、友人を奪い去った戦争を心底憎んでいたが、その反戦への思いと戦争への 憎悪を語ることはありませんでした。

 メッセージというのは、ときに語るよりも語らないほうがインパクトがあることが ある。歴史上いちばん残虐で悲惨だったといわれる第一次世界大戦を体験しながらも、 彼がその戦争について沈黙を続け、一切語ることがなかった、そのことはなににも増 して鮮烈な反戦のメッセージではなかったか、とわたくしには思えるのであります。 それだからハリー・パッチの弔報は、一面のニュースの価値があったのだと思うので す。

 ゴードン・ブラウン首相が「パッチ氏を悼む」として、「ハリーはもっとも勇敢な イギリス兵の最後の世代だった。偉大なヒーローだった」と弔辞を述べておりました が、そのような言葉を、いまもアフガニスタンやイラクへ次々に若者を送り出してい る為政者の口から聞くと、その型どおりの文句に、戦場に行くことはない為政者の 「何かを言わなければいけないから、何かを言う」という「姑息さ」を、わたくしは 感じてしまうのであります。

 パッチ氏の葬儀は、彼が晩年を過ごしたサマーセットの大聖堂で行われ、地元だけ でなくイギリス中から多くの参列者が集まったそうです。葬儀のさなか、だれかがピ ート・シーガーが書いた歌をくちづさみ、そのささやきがみんなにひろがっていった。 そして終わりには、参会者みんなによる「花はどこへ行った?」の合唱になったとい うことであります。


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出展 2009年08月15日09:07 『反戦』