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2009年8月14日金曜日

りんごとみかん (mixi05-u459989-200908141836)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
りんごとみかん
2009年08月14日18:36
http://en.wikipedia.org/wiki/Apples_and_oranges

Apples and Oranges っていうのは、もとより質がまったく違うので比べられない物の例えとして使われるんだそうだ。 りんごというのは、みかんは中がスカスカでりんごとしてみれば、悪いりんごだが、りんごはみかんとしてみれば、固くてすっぱくて食べられたものじゃない悪いみかんだ、というようなことだと思う。



独り言:

僕は「理解を越えたもの」が好きだ。 自分の理解を越えている人...何考えているのかさっぱりわからない人とか、自分の理解を越えている本...何を言っているのかさっぱりわからない本とか、そういうものが好きだ。

僕がすごく残念になるのは、僕は相手が見えるし相手が考えていることをよく知っているのだけど、相手が自分を理解できないときだ。 色々な言葉や例えを使って説明する。 説明すればするほど相手を苛立たせたり怒らせたり悲しませたりする。 僕は単に事実を説明しているだけ━━つまり1+1は2だという様な金輪際絶対に変わらない事実を説明しているだけなのに、おかあつは冷たいとか頑固だとか右翼だとか左翼だとか偏見が強いとか反アメリカ的だとか言う。

僕はあまりこういういいかたがすきじゃないのだけど、僕自身が相手の理解を越えてしまっているのだと思う。 単刀直入に言って、相手に僕が言っている事を理解する能力が足りないんだと思う。 そういうとき、僕が、「いやそんなことない、誰にでもわかる簡単なことだよ!」といって、無理やり相手に理解を求めると、相手はゆとりがなくなり、辛くなって不幸になってしまう。 多くの人は僕と違って自分の理解を越えたものを忌み嫌う。



僕はアメリカやヨーロッパが好きだ。 だけど、アメリカやヨーロッパは、ウソもつく。 そういうウソをつく方法自体に高度な理論も持っている。 ウソ自体がひとつのゲームになっている。 それはとても興味深いものだ。

しかし、日本人でアメリカやヨーロッパが好きな人のほとんどはそういうゲームが見えない。 アメリカ・ヨーロッパ好きな日本人がアメリカやヨーロッパの文化を学ぶとしたら、そういうウソの理論こそ学ばなければいけない大切な文化のはずなのに、そのウソをまるまる信じてしまって、そこに存在する学ぶべき対象を認知できない。 彼らは、アメリカ・ヨーロッパが好きだということ自体が大きな自己矛盾になっている。

僕はそれがすごく残念だ。



日本人って見ていて思うけど「わかってもらいたい人」の集合だ。 僕も含めてだけど、みんながわかってもらいたいと思っている。 ところが、この国には「わかってあげる人」がどこにもいない。 みんなの感心が自分自身に向いているので、みんなが他人を理解できない。 わかってもらいたい人とわかってもらいたい人が出会って、こいつは何もわかっていないとケンカする。

それじゃイカンと思う。 だからこそ、自分が思うことをきちんと説明し、相手が言うことをきちんと耳を傾けて、きちんとコミュニケーションを取らないといけないと思う。




自分の考えを説明する事と、相手の考えを理解する事は、実は等価だ。自分の考えを説明することというのは、相手の考え方と自分の考え方との差分を取ってそれを言葉にして相手に伝える事でしかありえない。 だから相手の考え方を知らなかったら自分の考えを伝えることは出来ない。

そのためには日頃から他人をよく観察して、言わずして何を考えているのかを汲み取らなければいけない。 その上で、自分の考えと他人の考えとの差分を作り出していく。 こういう作業が必要だ。

もしも相手が十分に大人であれば、自分が思いつくことをつらつらと述べて、相手に観察してもらうと言うのもひとつかもしれない。 だけど、この方法は日本では使えない。 これは相手にある程度の分析力を求める。 みんなが自分にしか関心を持っておらず、他人を分析する力をまったく持っていない日本人に大しては使えない。



「ある人に書いた私信」━━━(前略)物事に「良いこと」「悪いこと」は、存在し得ないんとと思います。 僕がおかしいと思うのは、ネットで今もてはやされているように、日本軍がしたいいことだけをことさらクローズアップしていることはもちろんですが、反戦的な人が好む日本軍がした悪いことだけをことさらクローズアップするというのも、僕はかなりおかしいと思います。

今の僕はタイに居て、タイ(戦勝国)とラオス(敗戦国)という、日本と韓国(とアメリカ)にかなり近い歴史を持ってる国を客観的にみることができるからこそ、自分の国に対してもある程度冷静になれるのかもしれませんが、日本以外の敗戦国の歴史を見ることはとても大切だと思います。 そこには綺麗事では済まない酷い出来事や、それにまつわる汚いプロパガンダと、プロパガンダに簡単に善悪感をコントロールされてしまう無垢な人々が居ます。 ラオスの人たちはことさらプロパガンダに対して無垢で騙されやすいものがありますが、日本もそういう意味で十分無垢です(後略)━━━

(終わり)

コメント一覧
AMFTW   2009年08月14日 22:12
欧米の学問体系やビジネスの場では、論理的であることが特に協調される。裏を返して言えば、論理的であり、相手を信じ込ませられれば、嘘が真実になるとも言える。カナダ留学していたときに特に感じたのは、みんなが論理の遊びに慣れていることだ。ある論理に対して反証を論理的にする。これが日本にないところで、論理的に反証をしようとすると、「空気が読めない奴」やら「協調性のない奴」というレッテルを貼られてしまう。とにかく日本は、論理性よりも「場の空気」を読む能力を持っている人間の方が尊敬され、評価が高いように思える。カナダにいたときの論理の応酬が懐かしい。あんなこと、日本では味わえないだろうな。
おかあつ   2009年08月15日 08:48
>みんなが論理の遊びに慣れていることだ。

そうだと僕も思います。



そういう意見がすっきりわかってくれる人だと次の話がしやすいんですが、一方で、僕は論理も偏見の一つなんだ、という事をどうやったら西洋人に納得させることが出来るのか、っていうこともよく思います。

日本とかタイとかラオス、アジア全体に言えることですが、気持ちを重視して論理は度外視なのです。 これは人を幸せにするときにすごく大切な考え方で、働けど働けど幸せになれなくて常に疑問を持っている人がタイにくると、そこに何かを見つけるんだと思います。

こういうドラスティックな展開を西洋人に説明するのは、極度に難しいと思っています。(アジア言語を勉強している人は別ですが...)



更に踏み込むと、そういうアジアの中にあって、日本というのは、得にずば抜けて論理的な国だと僕は思うのです。 しかし、タイの様に気持ちだけを重視もできないし、かといって西洋の様に論理だけも重視しきれない、歯切れの悪さがあると僕は感じています。

論理的だという点で見れば日本はアジアの先端ですが、西洋の中で比べると非論理的でダメダメなんだと思うのです。

じゃぁ西洋の人が気持ちを重視してないかというと、ドイツで見て思ったんですが、普段あんなにかっちりしているドイツでも土日はハメ外しまくりで暴れまくっているのを見ました。 こちらはこちらで、案外幸せ重視なんですよね。

しかし、日本って何がしたいんですかね。

 
出展 2009年08月14日18:36 『りんごとみかん』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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