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2009年6月22日月曜日

(メモ)無題 (mixi05-u459989-200906221402)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
(メモ)無題
2009年06月22日14:02
公開された規格(オープンな規格)のメリットというものは、ほとんどの場合、その規格の利用者のためのものだ。 それは明らかにその規格の設計者のためのものではない。 何年も掛けて設計したものを無料でオープンな規格として公開してしまうことは明らかに莫大な損益である。 だからオープンな規格を設計するのは損であるはずだ。

しかし、そこに、ひとつだけはっきりしたメリットがある。 それは、規格をオープン化することによって「肉を切らせて骨を断つ」ことができる、ということだ。



往々にして、本当によい規格というものは、採用されないものだ。 本当によい規格というものは、すでに規格を設計し、それを運用しているものにとっては、何の利便性ももたらさない。むしろ大きな脅威である。 だから、採用するどころか、積極的に排除しようとするのが当然である。

そういう中で新しい規格を元にしてビジネスをする場合、どういう戦略が考えられるか。 それは規格をオープン化することだ。

何年も掛けて設計したものを無料でオープンな規格として公開してしまうことは明らかに莫大な損益だ。 だが、利用者にとってはその損害の何倍もの莫大なメリットをもたらす存在になりえる。 するとクローズな規格を使ってプロプライエタリーな事業を行っていた者達に、致命的な一撃を加えるための道が開ける


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真実を求めるものには、経済的な自由が不可欠だ。 お金は、思考の偏りを生み出す唯一で最大の理由である。

経済的な自由がない場合、視点は必ず偏る。何故か。

証明:

- すべての事柄は論理的に説明できる。 すべての事柄は合理的だ。
- だからお金に関連する意思決定もすべて論理的に説明できる。
- お金は他人と関連している。 お金が必要ないなら完全に孤独で完結できるが、お金が必要ない上、他人と関連していかなければならない。
- ほとんどの他人は、十分な論理理解力を持っていない。 合理的な説明力も持っていない。
- 世の中のほとんどの人は、自滅的である。 関わる他人を破滅に巻き込む。
- 人には自滅する自由がある。 自滅の自由がない人は合理に至れない。
- 自分はひとりであり、他人は無数に居る。自分が破滅することには付き合うことはできても、他人の破滅すべてに付き合うことは不可能だ。
- 他人に自分の行動の原理を話した場合、間違った理解をして自滅することがある。
- 他人の妨害がその人自身の損害であるにも関わらず気付かずに妨害を続けることも少なくない。
- 他人の破滅を避けるために、自分を守るため、あるいは他人を守るために、本当のことではないことを話す必要がある。

結論: 本当のことを話さないから、視点が偏る。 すべてを他人に正直に話すことはお互いにとってよくない。 それは、不誠実ではなく、責任だ。

僕は人が好きだ。 だから人に楽しんでもらいたいし、人に喜んでもらいたい。 だけど、僕が思うこと僕が考えること僕が知っていることの、すべてを他人に理解することを求めるのは、残酷だと思う。



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ウソには4種類ある。 1つは、ある自分が所属していない特定のグループに対して利益をもたらすウソだ。 そして、自分が所属している特定のグループに対して利益をもたらすウソもある。 反対に、ある自分が所属していない特定のグループに対して損害をもたらすウソがあり、そして、自分が所属している特定のグループに対して損害をもたらすウソもある。

世の中には、いいウソもわるいウソもない。 そこにあるのは自分の利益と自分の損害だけだ。 自分の利益の枯渇は破滅である。 だから、わるいウソを憎みわるいウソを排除する者は誰でも、最終的に破滅を迎える。 破滅を迎えないウソを憎む人はウソツキである。

ウソにはもう別なカテゴリで二種類ある。 利益を目的としたウソと、そうじゃないウソだ。 政治家が言うのは利益を目的としたウソだ。 利益を目的としないウソもある。 それは芸術だ。

そして、そこには、質の高いウソと質の低いウソがある。
質の低いウソは、人の思考を鈍化させる。 質の高いウソは、人の思考を研ぎ澄ます。


本来は、真実を求めることだけが、真実を得るためのゆいいつの方法だ。 だけど、すべての人がすべての真実を得る能力を持っているわけではない。 ウソとして限りなく真実にちかい知識を得ることができる方法、それが芸術ではないだろうか。



つまり、自分の所属する特定のグループに利益をもたらしつつ、人の思考を研ぎ澄ますウソというものがあるのではないか、と思う。

これは『現実的』に生きていくうえでの、唯一の手段ではないか。 つまり、自分の利益が枯渇せず、自分の思考を偏らせずに、経済活動を行う方法なのではないだろうか。



本来は芸術に頼ることなく、真実そのものを求めることにより、真実を得ることが唯一の方法だ。 だから、芸術に頼ることで、真実と似てるが否なるものを得てしまうことはありえる。 芸術を与えることで、真実と似てるが否なるものを与えてしまうこともありえるだろう。

そこが真実を真剣に求めない人の限界だろう。

それを解決する方法は、あるひとつの方法を除いて存在しない。 その唯一の方法とは人を真実を求める人に変えることだ。 しかし、それが必ずしもその人を幸せにするわけでもないし、逆にその人を不幸にもする。


コメント一覧
タビビト   2009年06月22日 21:46
こんな文章を書けるなんて、おかあつさんはどんな経歴をつんできたのですか?うらやましいです。
おかあつ   2009年06月22日 22:50
すごい文章に見える、というのは要するに、わかりづらいんだと思います。
こんな文章が書けるのは、なぜかというと、要するに修行が足りないのです。--;
 
出展 2009年06月22日14:02 『(メモ)無題』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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