バンコクに戻って雑感
2009年03月28日14:44
おととい深夜にバンコクに帰ってきた。 昨日からまたバンコク暮らしが始まった。
バンコク暮らしは暖かくていい。 最初あれだけ慣れなくて苦しんだ排気ガスも、慣れた。 慣れれば慣れるものだ、と思った。 むしろ、触媒のないボロボロのLPG車から出る排気ガスのにおいを嗅ぐと郷愁というかそういうものすら感じる。 僕は関節があまり丈夫でなくて寒いと関節の調子が悪くなることがおおいのだけど、バンコクだと関節がとても楽になる。
それに、街を走る車から歩道を歩く犬に至るまで、みんなちゃんとアイコンタクトがあって、目を見てコミュニケーションがあるので、東京に居るときのような変な孤独感を感じない。 いろいろな意味で楽だ。
◇
とりあえず、僕は三ヶ国語(トリリンガル)+アルファを話す人になったようだ。
(トリリンガル初心者の僕には、まだ問題点はいろいろあるが)
トリリンガルになって思うとはいろいろある。
トリリンガルであることっていうのは、普通に考えられているよりもずっと難しいと思う。
なぜか。 例えば、言葉が違うと、世界に対する認識自体がまったく違う、ということがほとんどだからだ。 僕らはとりあえず日本語を話して、日本人の物の見方を持っている。 僕らは物を見ている、と当たり前のように思っている。 僕らは物を理解している、と当たり前のように思っている。 だけど、この当たり前のように思っていることというのが、実は絶対じゃないのだ。
理解すら難しいことを、理解して、しかも、これを会話する言葉ごとに瞬時に切り替えるというのは、極めて難しい。 だけど、実際にふたつ以上の言葉を動じに話そうとすると、これを瞬時に切り替えないといけない場面というものはとても多く、非常に戸惑う。
◇
言葉って必ず、別なものと一緒に存在する。 例えば、言葉と文化・言葉と認識・言葉とコミュニケーション という風に。 言葉だけ独立して存在するものじゃないと思う。 言葉なんて本当に表面的なものだ。
だから言葉だけをひたすら機械的に勉強しても絶対話せるようにならない。 これは、誰がどんなにわめこうが絶対に変化しない事実だと思う。 この根拠というのは非常に経験に頼ったものでしかないが、経験するとすぐにそれと判る事実だ。
◇
日本人として、タイに滞在すると、タイ人には二種類の人が居ることに気がつくと思う。 それは、話しかけると割りとフレンドリーに返事をくれる友好的な人たちがいる、ということと、まったく無反応な人が居る、ということだ。
後者は英語で話しかけても、タイ語で話しかけても、とても冷淡だ。 僕は彼ら冷たいタイ人があまり好きでなく、何なんだろうなとよく思ったのだった。
◇
で、昨日こういうことがあった。
昨日いきつけのバーに居た。 ここは客層が日本人1割・西洋人9割という感じの店で、英語を話す人が多い。
で、昨日その店にいるときトイレに行ったら、酔っ払ってベラベラ英語を話しているアメリカ人がいた。 そうしたら何か酔っ払った勢いで、話しかけられた。
最初ヘタクソなタイ語で話しかけられて、僕はタイ語で応答したけど通じてない。 で、この人は英語で話しはじめた。 僕がタイ人じゃないということぐらいはわかったのか、どこから来たか、と聞いてきた。 日本から来たといった。 そうしたら、「君は中国語がわかるのか?」といって、またヘタクソな中国語を話し始めたので、「わかりません。」と言って去った。
あとから考えた。 "Do you speak Chinese?" って言われたら、"Do you speak Russian?" って言い返して、"No" って言われたら "Same thing" って言えばよかった、と思った。 こうすれば、彼が言ったことがいかに失礼なことか、説明せずにわからせることが出来た、と思った。
◇
冷たい言い方をしたとも感じた。 もうすこし丁寧な応対の方法もあっただろう、かわいそうなことをしたな、とも考えた。 だけど、彼にとって、タイ人も中国人も日本人も大差ないわけで、これは、ロシア人もアメリカ人もフランス人も、外人は外人と思っている日本人と同じようなものだ。
タイにいると、タイ長期滞在中なのにタイの文化をいくら説明してもまったく理解できない日本人というのをよくみかける。 彼らは正直、話しかけてもほとんど会話にならない。 日本の仲良しクラスのノリしかないので、自分と違う文脈の人とコミュニケーションが取れないのだ。
このアメリカ人もその「仲良しクラス」と同じなのだ。 話してもきりが無い。
これは、つまり、こういうことだ。
僕がやったことというのは、冷淡なタイ人と同じことなのだ。
相手の中に、どうやっても自分の文脈を説明できる切り口が見つからないので、無視するぐらいしか出来ることが無いのだ。
◇
僕はどうも英語を話しはじめるまでに時間がかかる。
だから急に英語を話しかけられるとかなり困る。
僕が英語で話しかけられるとすぐに受け答えできない理由のひとつにこういうことがある。 それは、英語・日本語・タイ語の三つは、「自我」というものに対する考え方が、根本的に違うからだ。
英語であれば、上で挙げたアメリカ人のように、他社のアイデンティティを混同している物言いをされたら、はっきりと不快感を示すのが通例じゃないかと思う。 不快感をはっきり示すからこそ、そこから論争なり、融和なりのコミュニケーションが発展するのだろうと思うし、不快感を示さないからこそ、「アジア人は理解しがたい」と思われているのだと思う。
これは、つまり 「自我」をはっきり持っているからではないかと思う。
しかし、日本だと、このような件に関して不快感を示すことは、あまりない。 不快感自体をあまり感じずに怒らない人もいるかもしれない。 また、このような相手と遭遇すると、アイデンティティの違いによる衝突の存在を、出来るだけ目立たないようにカモフラージュしようとする傾向がある。
これは、つまり 「自我」を弱く持っているからではないかと思う。
で、タイだと、このような場合、何も言わない。 相手が物事をどのように捉えるかは、相手次第であり、相手の自由だと考えられている。 だから、相手が言うことに異議を唱えることは無い。 怒ることもない。
これは、つまり 「自我」を持っていないのだと思う。
自我は、人格形成の上で非常に大切な物だが、上で述べたように、タイ語・日本語・英語では、それぞれの言語が持っている「自我」というものの構造自体がまったく違う。
心理構造自体が大きく違うからこそ、その言語を話すなかで一般的と考えられているリアクションが大きく違う。
つまりタイ語日本語英語を同時に話すということは、これを瞬時に切り替えるということとかなり近い関係にある、ということがいえるのではないか。
◇
日本人にはどうも「言葉がすべて」という風に思いたがる傾向がある。 でも言葉がすべてというのは事実じゃない。 前も書いたけど、プロで英語を話しているような人に、相手がアジア人だろうがヨーロッパ人だろうが、気にせず、アメリカ英語で強引にまくし立てるタイプの人って少なくない。 正しい英語を話してるんだから、言ってること判れ!といわんばかりだ。 こんな話方をされたら、人によっては、萎縮してしまうし、これではコミュニケーションが成り立たない。 いくら言葉が正しくても通じてないのだ。
また、日本人には「他者の存在が確実でない」という日本人独特な精神構造がある。 日本人の書く哲学書を見ていると「他者の存在確実性を軽々しく語るべきでない」というような、実に厳密な他人論を嬉々として延々と語っている変な人が多い。
日本人以外の人はこうは考えていないと思う。 自分が見ている他人をよく観察すれば、相手の中にも自分と同じものがあることが見て取れる、また若干違う場合もあるようだ、というごく常識的な洞察が働いているからだ。 普通は、そこからコミュニケーションを発展させるものだ。
だけど、日本人は他人を観察する習慣がない。 相手を見ない。 目も見ない。 だから、他人がまったく理解できない未知なる存在でしかない。 だからこそ、コミュニケーションも無い。 とても自閉性が高い。
◇
日本人が勉強する語学というのは、ほとんどの場合本で勉強することを指すのではないだろうか。 では、もしも辞書がなく本も無かったら、その言葉を勉強することは出来ないのだろうか。
そんなことはない。
もしも本が無かったら、知らない言葉を勉強するということは、他人を観察すること以外にありえない。
つまり、他人を観察することは、語学のもっとも基本な行動ではないか。
本というのは、その観察の結果を自国語に翻訳したもので、副次的なものだ。
◇
facebook がリニューアルした。 リニューアルしたら、何かいきなり膨大な知り合いが増えた。 前よりもきちんと会話が出来るようになったからだ。 mixi のように きめ細かい会話が出来るようになった。 そう、前は出来なかったのだ。
さて... これからどうしようか...
(仕事はするけど)
バンコク暮らしは暖かくていい。 最初あれだけ慣れなくて苦しんだ排気ガスも、慣れた。 慣れれば慣れるものだ、と思った。 むしろ、触媒のないボロボロのLPG車から出る排気ガスのにおいを嗅ぐと郷愁というかそういうものすら感じる。 僕は関節があまり丈夫でなくて寒いと関節の調子が悪くなることがおおいのだけど、バンコクだと関節がとても楽になる。
それに、街を走る車から歩道を歩く犬に至るまで、みんなちゃんとアイコンタクトがあって、目を見てコミュニケーションがあるので、東京に居るときのような変な孤独感を感じない。 いろいろな意味で楽だ。
◇
とりあえず、僕は三ヶ国語(トリリンガル)+アルファを話す人になったようだ。
(トリリンガル初心者の僕には、まだ問題点はいろいろあるが)
トリリンガルになって思うとはいろいろある。
トリリンガルであることっていうのは、普通に考えられているよりもずっと難しいと思う。
なぜか。 例えば、言葉が違うと、世界に対する認識自体がまったく違う、ということがほとんどだからだ。 僕らはとりあえず日本語を話して、日本人の物の見方を持っている。 僕らは物を見ている、と当たり前のように思っている。 僕らは物を理解している、と当たり前のように思っている。 だけど、この当たり前のように思っていることというのが、実は絶対じゃないのだ。
理解すら難しいことを、理解して、しかも、これを会話する言葉ごとに瞬時に切り替えるというのは、極めて難しい。 だけど、実際にふたつ以上の言葉を動じに話そうとすると、これを瞬時に切り替えないといけない場面というものはとても多く、非常に戸惑う。
◇
言葉って必ず、別なものと一緒に存在する。 例えば、言葉と文化・言葉と認識・言葉とコミュニケーション という風に。 言葉だけ独立して存在するものじゃないと思う。 言葉なんて本当に表面的なものだ。
だから言葉だけをひたすら機械的に勉強しても絶対話せるようにならない。 これは、誰がどんなにわめこうが絶対に変化しない事実だと思う。 この根拠というのは非常に経験に頼ったものでしかないが、経験するとすぐにそれと判る事実だ。
◇
日本人として、タイに滞在すると、タイ人には二種類の人が居ることに気がつくと思う。 それは、話しかけると割りとフレンドリーに返事をくれる友好的な人たちがいる、ということと、まったく無反応な人が居る、ということだ。
後者は英語で話しかけても、タイ語で話しかけても、とても冷淡だ。 僕は彼ら冷たいタイ人があまり好きでなく、何なんだろうなとよく思ったのだった。
◇
で、昨日こういうことがあった。
昨日いきつけのバーに居た。 ここは客層が日本人1割・西洋人9割という感じの店で、英語を話す人が多い。
で、昨日その店にいるときトイレに行ったら、酔っ払ってベラベラ英語を話しているアメリカ人がいた。 そうしたら何か酔っ払った勢いで、話しかけられた。
最初ヘタクソなタイ語で話しかけられて、僕はタイ語で応答したけど通じてない。 で、この人は英語で話しはじめた。 僕がタイ人じゃないということぐらいはわかったのか、どこから来たか、と聞いてきた。 日本から来たといった。 そうしたら、「君は中国語がわかるのか?」といって、またヘタクソな中国語を話し始めたので、「わかりません。」と言って去った。
あとから考えた。 "Do you speak Chinese?" って言われたら、"Do you speak Russian?" って言い返して、"No" って言われたら "Same thing" って言えばよかった、と思った。 こうすれば、彼が言ったことがいかに失礼なことか、説明せずにわからせることが出来た、と思った。
◇
冷たい言い方をしたとも感じた。 もうすこし丁寧な応対の方法もあっただろう、かわいそうなことをしたな、とも考えた。 だけど、彼にとって、タイ人も中国人も日本人も大差ないわけで、これは、ロシア人もアメリカ人もフランス人も、外人は外人と思っている日本人と同じようなものだ。
タイにいると、タイ長期滞在中なのにタイの文化をいくら説明してもまったく理解できない日本人というのをよくみかける。 彼らは正直、話しかけてもほとんど会話にならない。 日本の仲良しクラスのノリしかないので、自分と違う文脈の人とコミュニケーションが取れないのだ。
このアメリカ人もその「仲良しクラス」と同じなのだ。 話してもきりが無い。
これは、つまり、こういうことだ。
僕がやったことというのは、冷淡なタイ人と同じことなのだ。
相手の中に、どうやっても自分の文脈を説明できる切り口が見つからないので、無視するぐらいしか出来ることが無いのだ。
◇
僕はどうも英語を話しはじめるまでに時間がかかる。
だから急に英語を話しかけられるとかなり困る。
僕が英語で話しかけられるとすぐに受け答えできない理由のひとつにこういうことがある。 それは、英語・日本語・タイ語の三つは、「自我」というものに対する考え方が、根本的に違うからだ。
英語であれば、上で挙げたアメリカ人のように、他社のアイデンティティを混同している物言いをされたら、はっきりと不快感を示すのが通例じゃないかと思う。 不快感をはっきり示すからこそ、そこから論争なり、融和なりのコミュニケーションが発展するのだろうと思うし、不快感を示さないからこそ、「アジア人は理解しがたい」と思われているのだと思う。
これは、つまり 「自我」をはっきり持っているからではないかと思う。
しかし、日本だと、このような件に関して不快感を示すことは、あまりない。 不快感自体をあまり感じずに怒らない人もいるかもしれない。 また、このような相手と遭遇すると、アイデンティティの違いによる衝突の存在を、出来るだけ目立たないようにカモフラージュしようとする傾向がある。
これは、つまり 「自我」を弱く持っているからではないかと思う。
で、タイだと、このような場合、何も言わない。 相手が物事をどのように捉えるかは、相手次第であり、相手の自由だと考えられている。 だから、相手が言うことに異議を唱えることは無い。 怒ることもない。
これは、つまり 「自我」を持っていないのだと思う。
自我は、人格形成の上で非常に大切な物だが、上で述べたように、タイ語・日本語・英語では、それぞれの言語が持っている「自我」というものの構造自体がまったく違う。
心理構造自体が大きく違うからこそ、その言語を話すなかで一般的と考えられているリアクションが大きく違う。
つまりタイ語日本語英語を同時に話すということは、これを瞬時に切り替えるということとかなり近い関係にある、ということがいえるのではないか。
◇
日本人にはどうも「言葉がすべて」という風に思いたがる傾向がある。 でも言葉がすべてというのは事実じゃない。 前も書いたけど、プロで英語を話しているような人に、相手がアジア人だろうがヨーロッパ人だろうが、気にせず、アメリカ英語で強引にまくし立てるタイプの人って少なくない。 正しい英語を話してるんだから、言ってること判れ!といわんばかりだ。 こんな話方をされたら、人によっては、萎縮してしまうし、これではコミュニケーションが成り立たない。 いくら言葉が正しくても通じてないのだ。
また、日本人には「他者の存在が確実でない」という日本人独特な精神構造がある。 日本人の書く哲学書を見ていると「他者の存在確実性を軽々しく語るべきでない」というような、実に厳密な他人論を嬉々として延々と語っている変な人が多い。
日本人以外の人はこうは考えていないと思う。 自分が見ている他人をよく観察すれば、相手の中にも自分と同じものがあることが見て取れる、また若干違う場合もあるようだ、というごく常識的な洞察が働いているからだ。 普通は、そこからコミュニケーションを発展させるものだ。
だけど、日本人は他人を観察する習慣がない。 相手を見ない。 目も見ない。 だから、他人がまったく理解できない未知なる存在でしかない。 だからこそ、コミュニケーションも無い。 とても自閉性が高い。
◇
日本人が勉強する語学というのは、ほとんどの場合本で勉強することを指すのではないだろうか。 では、もしも辞書がなく本も無かったら、その言葉を勉強することは出来ないのだろうか。
そんなことはない。
もしも本が無かったら、知らない言葉を勉強するということは、他人を観察すること以外にありえない。
つまり、他人を観察することは、語学のもっとも基本な行動ではないか。
本というのは、その観察の結果を自国語に翻訳したもので、副次的なものだ。
◇
facebook がリニューアルした。 リニューアルしたら、何かいきなり膨大な知り合いが増えた。 前よりもきちんと会話が出来るようになったからだ。 mixi のように きめ細かい会話が出来るようになった。 そう、前は出来なかったのだ。
さて... これからどうしようか...
(仕事はするけど)
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