(長文)読みきれない空気
2009年03月20日01:12
僕の実家の最寄駅にスターバックスがある。 このスターバックスは、とても小さく決して居心地がよいとはいえないのだけど、とにかく近いのでよく行く。 このスターバックスには、吉野家のUの字テーブルのように、向かいの人といつケンカになってもおかしくないほど差し迫ってしまう、小さなテーブルが二つおいてある。 窮屈ではあるが、他には小さな丸テーブルしかない。 これでは書類を広げて仕事することが出来ない。 小さな差し迫った机以外にきちんとした卓上が確保できる席は無いので、そこに座る以外ない。
その日も僕はそのスターバックスに行った。 そしてその小さい差し迫った机に座った。 すると、向かいには、黒いリクルートスーツで身を固めた若い女の子が二人座っていた。 ペチャクチャとよくしゃべっていた。 向かいの席はとても近く、そのおしゃべりの会話の内容がよく聞こえた。 僕は聞き耳を立てるでもなく、聞こえてくるままに話を聞いていた。 彼女らは見たとおり、就職活動中であるらしかった。 その駅は東京の某空港のすぐそばにあり、航空会社と近いのだが、彼女らはどうやらスチュワーデスの面接を受けて帰ってきたらしかった。
ひとりは積極的でどちらかというと要領よく仕事を進める自分の才能に酔いがちなタイプなのかなと思った。 もうひとりは控えめな感じの女の子でずっと聞き手に回っているような感じだった。 話は恋愛から就職・東京暮らしまで多岐にわたった。
要領がいい方は、恋愛も相当強気らしかった。 田舎に居た頃、捨てた男が家のそばで待ち構えていたことがあって、つかまって泣かれて大変で、と笑って話した。 周りに近所の人がたくさんいて目立ってしまい、そんな男泣かせのこの女はどんなヤツなんだ、という絵があり、人目が気になって仕方が無かった、というようなことを言っていた。 「それってやじゃない?」 「え~ 絶対やだよね~」
彼女の言葉は自身に満ち溢れており極めて強気だった。 他人を踏みにじっても自分は絶対に他人から踏みにじられないというはっきりした確信を持っているように感じられた。 しっかりした両親に守られ失敗も挫折も知らずにここまで育ってきたのではないかと思う。
彼女ははっきり言って、僕が嫌悪するタイプの女ではあった。 話の内容も実に表面的でうんざりした。 何を考えているのかさっぱりわからないと感じた。 バカじゃないか、とも思った。 だけど、何を考えているかさっぱりわからず相手がバカだと思える、というのは、外国文化との遭遇でよくおこる一種のカルチャーショックで、もし相手をバカだと思ったままで立ち止まっていたなら何も進歩が無い。 だから、よく話を聞いて観察して、何を考えているのか、知る努力をしてみようと思ったのだった。
こんな会話が聞こえてきた。
「...○○社の面接受けてきたんだけど~。 ○○社って『もし会社の○○を紹介するとしたらどんな文章を書きますか。 実際に作成して提出しなさい。』 みたいな試験を出すんだって。 自由な発想で書け、みたいなことを言われるらしくて、だからシールとか使って自由に作って出すと~、その会社意外と硬くて、落とされちゃうんだって~。 じゃぁどうすればいいっていうの~? 傾向がわかんない。」
その話を聞いていて、このような絵が浮かんできた。
面接というのは、実際にあって話を聞いてみるための場だ。 面接官は、そこで、その人物がどういう適性を持った人なのか見極める。 面接を受ける人は、自分の特徴や自分の良さを面接官にアピールする。 だから、面接を受ける人は、何でも正直に話して、何でも正直に聞くべきだと、僕は思う。 それこそが普通の面接ではないか。 世界的に見ても、それが普通じゃないか。 しかし、日本では事情が異なる。
実際の日本の面接はそんな直接的なコミュニケーションの場ではない。 実際にはもっと違うことが起こっている。 面接をする側は、既に、あらかじめどのような人間を採用するか固定した方針として用意している。 試験管は言われた方針を守るだけで、あまり柔軟性がないのだろう。 だから機械的に面接を受ける人を振り分けるだけのマシーンに成り下がっているのではないかと思う。
もし面接を受ける側が、その面接のからくりを知ったら、どう思うだろうか。 面接を受ける側は正直に自分を出して自分の考え方をアピールするだろうか。 人間、そこまで正直じゃない。 もっとも自分のメリットが最大化する方法をとるのが自然だ。 つまり、面接をする側がどのような方針を用意しているのかをあらかじめ予測し、それにあわせてまったく別な人格を演じるのである。 これが常態化している。
これでは、面接が、その人物の適正を調べているとはいえないだろう。 これは、つまり、その人間の「空気を読む力」を測定しているのに他ならないだろう。 言葉を変えれば、これは、面接という形を借りたジェスチャー当てゲームである。
面接によって空気を読む能力を持った人だけが入社することになるのではないか。
これが、僕にはものすごく日本的に見える。
◇
「空気を読む」というのは、多くの場合、言わずに相手が嫌がっていることやして欲しいことなどを、相手が言う前に察して行動することを指す。 しかし、空気を読むのは時として非常に難しく、実はほとんどの場合、実行不可能じゃないだろうか。
空気を読むことが可能であるケースは、極めて限られている。 空気を読むためには相手の文脈を知り尽くしている必要があるからだ。 文脈を知り尽くすためには何らかの同じものが必要だ。 「同郷である」「同大学である」「同期である」「同世代である」「同性である」といった何らかの同じものが必要なのだ。 しかし、そういう何らかの同じものを常に用意できるとは限らない。 同じものを用意できない場合、空気を読むことは出来ない。
相手のことを何も知らないのに、何も言わないで相手のことをどうやって知ることができるというのだろう。 もちろん説明を求めることも出来ない。 これでは理解することは絶対に不可能だ。 しかし、その不可能を乗り越えなければ「空気が読めない」といわれて批判される。
つまり、自分が他の人と異なった特徴を持っていると、コミュニケーションが極めて困難になる。 だが、この半世紀で急速に変化し、信じられないほど複雑になった日本で、同じものなどいくつ用意できるというのだろうか。
◇
日本人の人間関係は、実に疲れる。 何故だろうか。僕の意見では、このつかれる理由はふたつある。 ひとつは、日本人の人間関係がとても表層的だからだ。 もうひとつは、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。 順番に説明してみたい。
日本人の人間関係は、実に表層的だ。 表層的、というのは、つまり、相手に関する情報を一切知らず、自分に関する情報を一切知らせないことだ。
何故日本人の人間関係はここまで表面的なのか。 それは、自分の人格に関する情報を相手に伝えると、人間関係の駆け引き上、不利になるからだ。 たとえば、あなたのある特徴が、あなたを評価する人の考え方の中で好ましくない特徴であった場合、あなたはチャンスを失ったり、ポストを失ったりすることなる。 だから出来るだけ自分の特性を相手に伝えない方が有利だ。 あなたが評価する側であった場合も同じである。 あなたの人間の好みがどのようなものであるか、相手に伝えない方が有利だ。 そうすることで、相手がうっかり本性を出してしまう可能性が高くなり、評価の精度が高くなる。
つまり、日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負けなのである。
これは仕事上だけではなく、恋愛での人間関係であったり、時には友人との間でも、時として親類との人間関係であっても、起こりえる。
自分に関する情報を一切知らせないということは、時としてとても疲れる。 自由にのびのびと振舞えず、常に自分が言った建前どおりのことを演じきらなければならないからだ。 これは日本人を知る外国人ほぼ全員の意見でもある。 恐らく日本人自身もそう思っているのではないだろうか。
これがひとつめの理由だ。
ふたつ目は、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。
人間、ひとりとして同じ人はいない。 誰しも個人差があり、違う感性もって違う性格を持っている。 ハムスターなどを飼っているとこんなことに気がつく。 ハムスターは、みな同じ顔、同じ模様をしているものだが、それがどうして一匹一匹少なくない個体差があるのだ。 性格や行動パターンがこれだけ異なると、一匹一匹を見分けることは、さほど難しいことではない。 ハムスターよりもずっと複雑な生き物である人間なら、なおさらである。 当然なことである。
しかし、日本人は、そう思っていないようだ。 われわれはみな同じであるべきだ、と思っているところがある。 わずかな違いに目くじらを立てて、相手を糾弾する。 「髪の毛の色が違う」 「髪の毛の長さが違う」 「出身が違う」 「学閥が違う」 何故だろうか。
僕は最近思うのだけど、日本人は、アジア版・知恵の実を食べたアダムとイブなのではないだろうか。 それはつまり、アジアの国の中では珍しく、本当のことを知る辛さと正面から対決している国だということだ。
◇
知るということは、時として実に辛いことだ。 知ることの中でも特に自分に関して知ることはとても辛い。 たとえば、誰にでも自分の容姿が醜いということに気がつくときがある。 誰しも自分は美しいと思っている。 だけど、あるきっかけで、それが真実でないということに気がつき始める。 自分を美しいと思う気持ちには麻薬のように常習性がある。 容易には止められない。 麻薬が切れると心の中にありとあらゆる苦痛が入り込んでくるが、鏡を見ることによってそんな麻薬が切れ始めるのである。 麻薬が切れ始めると人はいろいろな行動をとるものではないだろうか。
ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れなすがままに醜くなる。 ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れることが出来ず、それを見まいとすることで、心の安静を保つ。 ある人は、醜い他人をあざけることで、心の安静を保つ。 ある人は、本当に美しい人の邪魔をすることで、心の安静を保つ。
しかし、醜いことを受け入れることは出来ないが、ひたすら美しくなる努力をする人もいる。 あるいは、美しさが人間の唯一の価値ではない、という更に普遍的な価値観に気がつくきっかけになる人もいる。 こういう、前向きさ。 ひたむきさこそが人が残酷で何の色彩も無い冷酷な真実から心を守るための唯一の方法ではないだろうか。
人は、心の痛みを和らげるために、いろいろな現実認識に対する狂いを持っている。 そして、それが麻薬として働く。 狂いをすべて厳密に修正してしまう 論理・合理とは、そんな心をやさしく守ってくれる麻薬をすべて追い出してしまう、極めて苦い薬なのである。
厳密な論理に負けない気持ちのタフさを得るためには、極めて辛いコールドターキー(禁断症状)を乗り越えなければいけない。 その苦しさを乗り越えることが出来たものだけが、緻密に現実をコントロールすることが出来る。 本当の美しさを手に入れることが出来る。 多くの人はその禁断症状を乗り越えることができず、次善策で妥協するものではないか。
◇
日本はアジアの国の中でもとても特殊な国だ。 なぜならば他の国のように文化の中に「認識の麻薬」を持っていないからだ。 アジアの多くの国は、文化の中に、とても高級で副作用の少ない麻薬=現実認識の狂いを持っている。 それは、のんきさだったり、やさしさだったり、適当さだったり、あいまいさだったりする。 こういうあいまいさがあるからこそ、現実が自分の思ったとおりでなくとも、苦しくない。 心の世界は平和なまま保たれる。 あいまいさが生きている。
また、言葉もそれを反映してか時制が無かったり冠詞が無かったりすることが多く、言葉自体にあいまいさが許されている場合が多いようだ。
しかし、日本語はその点大きく異なる。 日本語は、その点極めて特殊だ。 日本人はどういうわけか、他の文化からいろいろなものを輸入するのが好きで、特に、日本語に外国語から新しい概念を輸入するのが好きであるようだ。 日本語はあらゆる文化からのあらゆる概念を取り入れまくっている。 中国語・ポルトガル語・ドイツ語・フランス語・英語・あらゆる文化から新しい考え方を取り込むことで、あいまいだった日本語をドーピングしまくっているのである。
最初は大和言葉だけで他のアジア言語と同じようにあまり複雑な論理を表現できなかった日本語が、こうしてドーピングされることによって、非常に厳密に論理を表現できるようになってしまったのではないだろうか。
◇
日本人は相手も自分もほぼ同じだ、ということを前提にコミュニケーションをとろうとする。 これは、自分も相手も同じだという前提に立つことで、自分と相手の違いを出来るだけ隠し、相手との衝突を避けようとするからだ。 だが、日本語が持っている厳密さは、こういう人間関係のあいまいさを徹底的にあぶりだしてしまうのではないだろうか。 相手との違いをあぶりだし、衝突の存在をあぶりだしてしまう。 あぶりだされてしまったあいまいさは、正に麻薬を断ち切る鏡のような存在となる。 それは、出来ればあいまいなままおいておき、そのまま通り過ぎたい。 しかし、日本語が持っている厳密さはそれを許さない。
そういう矛盾の中で、「ごくわずかな差」に目くじらを立てる人が現れたりするのではないだろうか。 上司の出身が自分と違えば、そのことを出来るだけ指摘しないように接する必要がある。 平社員は、上司の麻薬を切らせたら終わりである。 営業マンも同様だ。 客の要望が現実的でない、というような場合でもそのことを出来るだけ悟らせないようにする必要がある。 営業マンは客の麻薬を切らせたら終わりである。
だからこそ、日本語を話す人は、そのごくわずかな差を隠すために全身全霊を傾けなければいけないのではないだろうか。 日本語があいまいなアジア言語のひとつであれば、こういう問題は起こらなかった筈だ。
これが僕が思うふたつめの理由だ。
◇
しかし本来であれば、日本語の鋭さを隠すような消極的な解決策に甘んじてはいけないのではないか。 本来であれば、現実認識の麻薬は完全に断ち切り、心地よいあいまいな世界から、完全な論理・合理の世界にわたりきらなければならないはずだ。 本来であれば、厳密な言葉をつかって話し合うことでお互いの理解を深める、そんなコミュニケーションを持たなければならないはずなのだ。 しかし、日本人は、まだそこまでは近代化されていない。
そういう実にアジア的なあいまいさとヨーロッパ的な厳密さの中間で漂っている国が日本なのではないだろうか。
日本人の人間関係は、実に疲れる。 それは、日本語が持っている言葉の厳密さを全身全霊を使って隠す必要があるからなのかもしれない。
しかし、本来は、せっかく持っている日本語の厳密さを最大限に利用し、もっときめの細かいコミュニケーションをとるべきではないだろうか。 自分のことを出来るだけ的確に説明し、相手が説明する相手の状況を的確に読み解く。 こうすることで全員が「自分のことを100%理解できる人」になる。
「自分のことを100%理解できる人が居ることを仮定する」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1101124132&owner_id=459989&org_id=1103047032
いや、実は今までの「空気を読む」コミュニケーションでは0%しか理解できなかったのだ。 話し合えば30%理解できるようになるだけだ。 そして、その30%が理解できるだけで、多くの日本人が長年にわたって取り付かれたように感じ続けていた、あの日本独特な孤独感は消えるのだ。
きちんと厳密な言葉で話し合わなければいけない。 実際、日本の一部の人はそう考え始めている。 僕はタイにいるのでよく思うけど、日本の女の子が言う言葉は、タイの女の子が言う言葉と比べて、ものすごく哲学的だ。 日本の女の子は、心理の奥深い部分にある複雑さを出来るだけ厳密に描写しようとしていることを感じる。 タイの女の子はもっとシンプルだ。
しかし、上で述べたように「日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負け」である限り、厳密な言葉で話し合うグループはマイノリティーであり、不利だ。 限界がある。 「自分の意見を言ったら負け」である限り、厳密なコミュニケーションをとろうとする人たちは、マジョリティーから迫害されがちだ。
これは、今の日本人がもっている大きな矛盾なのではないか。
その日も僕はそのスターバックスに行った。 そしてその小さい差し迫った机に座った。 すると、向かいには、黒いリクルートスーツで身を固めた若い女の子が二人座っていた。 ペチャクチャとよくしゃべっていた。 向かいの席はとても近く、そのおしゃべりの会話の内容がよく聞こえた。 僕は聞き耳を立てるでもなく、聞こえてくるままに話を聞いていた。 彼女らは見たとおり、就職活動中であるらしかった。 その駅は東京の某空港のすぐそばにあり、航空会社と近いのだが、彼女らはどうやらスチュワーデスの面接を受けて帰ってきたらしかった。
ひとりは積極的でどちらかというと要領よく仕事を進める自分の才能に酔いがちなタイプなのかなと思った。 もうひとりは控えめな感じの女の子でずっと聞き手に回っているような感じだった。 話は恋愛から就職・東京暮らしまで多岐にわたった。
要領がいい方は、恋愛も相当強気らしかった。 田舎に居た頃、捨てた男が家のそばで待ち構えていたことがあって、つかまって泣かれて大変で、と笑って話した。 周りに近所の人がたくさんいて目立ってしまい、そんな男泣かせのこの女はどんなヤツなんだ、という絵があり、人目が気になって仕方が無かった、というようなことを言っていた。 「それってやじゃない?」 「え~ 絶対やだよね~」
彼女の言葉は自身に満ち溢れており極めて強気だった。 他人を踏みにじっても自分は絶対に他人から踏みにじられないというはっきりした確信を持っているように感じられた。 しっかりした両親に守られ失敗も挫折も知らずにここまで育ってきたのではないかと思う。
彼女ははっきり言って、僕が嫌悪するタイプの女ではあった。 話の内容も実に表面的でうんざりした。 何を考えているのかさっぱりわからないと感じた。 バカじゃないか、とも思った。 だけど、何を考えているかさっぱりわからず相手がバカだと思える、というのは、外国文化との遭遇でよくおこる一種のカルチャーショックで、もし相手をバカだと思ったままで立ち止まっていたなら何も進歩が無い。 だから、よく話を聞いて観察して、何を考えているのか、知る努力をしてみようと思ったのだった。
こんな会話が聞こえてきた。
「...○○社の面接受けてきたんだけど~。 ○○社って『もし会社の○○を紹介するとしたらどんな文章を書きますか。 実際に作成して提出しなさい。』 みたいな試験を出すんだって。 自由な発想で書け、みたいなことを言われるらしくて、だからシールとか使って自由に作って出すと~、その会社意外と硬くて、落とされちゃうんだって~。 じゃぁどうすればいいっていうの~? 傾向がわかんない。」
その話を聞いていて、このような絵が浮かんできた。
面接というのは、実際にあって話を聞いてみるための場だ。 面接官は、そこで、その人物がどういう適性を持った人なのか見極める。 面接を受ける人は、自分の特徴や自分の良さを面接官にアピールする。 だから、面接を受ける人は、何でも正直に話して、何でも正直に聞くべきだと、僕は思う。 それこそが普通の面接ではないか。 世界的に見ても、それが普通じゃないか。 しかし、日本では事情が異なる。
実際の日本の面接はそんな直接的なコミュニケーションの場ではない。 実際にはもっと違うことが起こっている。 面接をする側は、既に、あらかじめどのような人間を採用するか固定した方針として用意している。 試験管は言われた方針を守るだけで、あまり柔軟性がないのだろう。 だから機械的に面接を受ける人を振り分けるだけのマシーンに成り下がっているのではないかと思う。
もし面接を受ける側が、その面接のからくりを知ったら、どう思うだろうか。 面接を受ける側は正直に自分を出して自分の考え方をアピールするだろうか。 人間、そこまで正直じゃない。 もっとも自分のメリットが最大化する方法をとるのが自然だ。 つまり、面接をする側がどのような方針を用意しているのかをあらかじめ予測し、それにあわせてまったく別な人格を演じるのである。 これが常態化している。
これでは、面接が、その人物の適正を調べているとはいえないだろう。 これは、つまり、その人間の「空気を読む力」を測定しているのに他ならないだろう。 言葉を変えれば、これは、面接という形を借りたジェスチャー当てゲームである。
面接によって空気を読む能力を持った人だけが入社することになるのではないか。
これが、僕にはものすごく日本的に見える。
◇
「空気を読む」というのは、多くの場合、言わずに相手が嫌がっていることやして欲しいことなどを、相手が言う前に察して行動することを指す。 しかし、空気を読むのは時として非常に難しく、実はほとんどの場合、実行不可能じゃないだろうか。
空気を読むことが可能であるケースは、極めて限られている。 空気を読むためには相手の文脈を知り尽くしている必要があるからだ。 文脈を知り尽くすためには何らかの同じものが必要だ。 「同郷である」「同大学である」「同期である」「同世代である」「同性である」といった何らかの同じものが必要なのだ。 しかし、そういう何らかの同じものを常に用意できるとは限らない。 同じものを用意できない場合、空気を読むことは出来ない。
相手のことを何も知らないのに、何も言わないで相手のことをどうやって知ることができるというのだろう。 もちろん説明を求めることも出来ない。 これでは理解することは絶対に不可能だ。 しかし、その不可能を乗り越えなければ「空気が読めない」といわれて批判される。
つまり、自分が他の人と異なった特徴を持っていると、コミュニケーションが極めて困難になる。 だが、この半世紀で急速に変化し、信じられないほど複雑になった日本で、同じものなどいくつ用意できるというのだろうか。
◇
日本人の人間関係は、実に疲れる。 何故だろうか。僕の意見では、このつかれる理由はふたつある。 ひとつは、日本人の人間関係がとても表層的だからだ。 もうひとつは、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。 順番に説明してみたい。
日本人の人間関係は、実に表層的だ。 表層的、というのは、つまり、相手に関する情報を一切知らず、自分に関する情報を一切知らせないことだ。
何故日本人の人間関係はここまで表面的なのか。 それは、自分の人格に関する情報を相手に伝えると、人間関係の駆け引き上、不利になるからだ。 たとえば、あなたのある特徴が、あなたを評価する人の考え方の中で好ましくない特徴であった場合、あなたはチャンスを失ったり、ポストを失ったりすることなる。 だから出来るだけ自分の特性を相手に伝えない方が有利だ。 あなたが評価する側であった場合も同じである。 あなたの人間の好みがどのようなものであるか、相手に伝えない方が有利だ。 そうすることで、相手がうっかり本性を出してしまう可能性が高くなり、評価の精度が高くなる。
つまり、日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負けなのである。
これは仕事上だけではなく、恋愛での人間関係であったり、時には友人との間でも、時として親類との人間関係であっても、起こりえる。
自分に関する情報を一切知らせないということは、時としてとても疲れる。 自由にのびのびと振舞えず、常に自分が言った建前どおりのことを演じきらなければならないからだ。 これは日本人を知る外国人ほぼ全員の意見でもある。 恐らく日本人自身もそう思っているのではないだろうか。
これがひとつめの理由だ。
ふたつ目は、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。
人間、ひとりとして同じ人はいない。 誰しも個人差があり、違う感性もって違う性格を持っている。 ハムスターなどを飼っているとこんなことに気がつく。 ハムスターは、みな同じ顔、同じ模様をしているものだが、それがどうして一匹一匹少なくない個体差があるのだ。 性格や行動パターンがこれだけ異なると、一匹一匹を見分けることは、さほど難しいことではない。 ハムスターよりもずっと複雑な生き物である人間なら、なおさらである。 当然なことである。
しかし、日本人は、そう思っていないようだ。 われわれはみな同じであるべきだ、と思っているところがある。 わずかな違いに目くじらを立てて、相手を糾弾する。 「髪の毛の色が違う」 「髪の毛の長さが違う」 「出身が違う」 「学閥が違う」 何故だろうか。
僕は最近思うのだけど、日本人は、アジア版・知恵の実を食べたアダムとイブなのではないだろうか。 それはつまり、アジアの国の中では珍しく、本当のことを知る辛さと正面から対決している国だということだ。
◇
知るということは、時として実に辛いことだ。 知ることの中でも特に自分に関して知ることはとても辛い。 たとえば、誰にでも自分の容姿が醜いということに気がつくときがある。 誰しも自分は美しいと思っている。 だけど、あるきっかけで、それが真実でないということに気がつき始める。 自分を美しいと思う気持ちには麻薬のように常習性がある。 容易には止められない。 麻薬が切れると心の中にありとあらゆる苦痛が入り込んでくるが、鏡を見ることによってそんな麻薬が切れ始めるのである。 麻薬が切れ始めると人はいろいろな行動をとるものではないだろうか。
ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れなすがままに醜くなる。 ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れることが出来ず、それを見まいとすることで、心の安静を保つ。 ある人は、醜い他人をあざけることで、心の安静を保つ。 ある人は、本当に美しい人の邪魔をすることで、心の安静を保つ。
しかし、醜いことを受け入れることは出来ないが、ひたすら美しくなる努力をする人もいる。 あるいは、美しさが人間の唯一の価値ではない、という更に普遍的な価値観に気がつくきっかけになる人もいる。 こういう、前向きさ。 ひたむきさこそが人が残酷で何の色彩も無い冷酷な真実から心を守るための唯一の方法ではないだろうか。
人は、心の痛みを和らげるために、いろいろな現実認識に対する狂いを持っている。 そして、それが麻薬として働く。 狂いをすべて厳密に修正してしまう 論理・合理とは、そんな心をやさしく守ってくれる麻薬をすべて追い出してしまう、極めて苦い薬なのである。
厳密な論理に負けない気持ちのタフさを得るためには、極めて辛いコールドターキー(禁断症状)を乗り越えなければいけない。 その苦しさを乗り越えることが出来たものだけが、緻密に現実をコントロールすることが出来る。 本当の美しさを手に入れることが出来る。 多くの人はその禁断症状を乗り越えることができず、次善策で妥協するものではないか。
◇
日本はアジアの国の中でもとても特殊な国だ。 なぜならば他の国のように文化の中に「認識の麻薬」を持っていないからだ。 アジアの多くの国は、文化の中に、とても高級で副作用の少ない麻薬=現実認識の狂いを持っている。 それは、のんきさだったり、やさしさだったり、適当さだったり、あいまいさだったりする。 こういうあいまいさがあるからこそ、現実が自分の思ったとおりでなくとも、苦しくない。 心の世界は平和なまま保たれる。 あいまいさが生きている。
また、言葉もそれを反映してか時制が無かったり冠詞が無かったりすることが多く、言葉自体にあいまいさが許されている場合が多いようだ。
しかし、日本語はその点大きく異なる。 日本語は、その点極めて特殊だ。 日本人はどういうわけか、他の文化からいろいろなものを輸入するのが好きで、特に、日本語に外国語から新しい概念を輸入するのが好きであるようだ。 日本語はあらゆる文化からのあらゆる概念を取り入れまくっている。 中国語・ポルトガル語・ドイツ語・フランス語・英語・あらゆる文化から新しい考え方を取り込むことで、あいまいだった日本語をドーピングしまくっているのである。
最初は大和言葉だけで他のアジア言語と同じようにあまり複雑な論理を表現できなかった日本語が、こうしてドーピングされることによって、非常に厳密に論理を表現できるようになってしまったのではないだろうか。
◇
日本人は相手も自分もほぼ同じだ、ということを前提にコミュニケーションをとろうとする。 これは、自分も相手も同じだという前提に立つことで、自分と相手の違いを出来るだけ隠し、相手との衝突を避けようとするからだ。 だが、日本語が持っている厳密さは、こういう人間関係のあいまいさを徹底的にあぶりだしてしまうのではないだろうか。 相手との違いをあぶりだし、衝突の存在をあぶりだしてしまう。 あぶりだされてしまったあいまいさは、正に麻薬を断ち切る鏡のような存在となる。 それは、出来ればあいまいなままおいておき、そのまま通り過ぎたい。 しかし、日本語が持っている厳密さはそれを許さない。
そういう矛盾の中で、「ごくわずかな差」に目くじらを立てる人が現れたりするのではないだろうか。 上司の出身が自分と違えば、そのことを出来るだけ指摘しないように接する必要がある。 平社員は、上司の麻薬を切らせたら終わりである。 営業マンも同様だ。 客の要望が現実的でない、というような場合でもそのことを出来るだけ悟らせないようにする必要がある。 営業マンは客の麻薬を切らせたら終わりである。
だからこそ、日本語を話す人は、そのごくわずかな差を隠すために全身全霊を傾けなければいけないのではないだろうか。 日本語があいまいなアジア言語のひとつであれば、こういう問題は起こらなかった筈だ。
これが僕が思うふたつめの理由だ。
◇
しかし本来であれば、日本語の鋭さを隠すような消極的な解決策に甘んじてはいけないのではないか。 本来であれば、現実認識の麻薬は完全に断ち切り、心地よいあいまいな世界から、完全な論理・合理の世界にわたりきらなければならないはずだ。 本来であれば、厳密な言葉をつかって話し合うことでお互いの理解を深める、そんなコミュニケーションを持たなければならないはずなのだ。 しかし、日本人は、まだそこまでは近代化されていない。
そういう実にアジア的なあいまいさとヨーロッパ的な厳密さの中間で漂っている国が日本なのではないだろうか。
日本人の人間関係は、実に疲れる。 それは、日本語が持っている言葉の厳密さを全身全霊を使って隠す必要があるからなのかもしれない。
しかし、本来は、せっかく持っている日本語の厳密さを最大限に利用し、もっときめの細かいコミュニケーションをとるべきではないだろうか。 自分のことを出来るだけ的確に説明し、相手が説明する相手の状況を的確に読み解く。 こうすることで全員が「自分のことを100%理解できる人」になる。
「自分のことを100%理解できる人が居ることを仮定する」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1101124132&owner_id=459989&org_id=1103047032
いや、実は今までの「空気を読む」コミュニケーションでは0%しか理解できなかったのだ。 話し合えば30%理解できるようになるだけだ。 そして、その30%が理解できるだけで、多くの日本人が長年にわたって取り付かれたように感じ続けていた、あの日本独特な孤独感は消えるのだ。
きちんと厳密な言葉で話し合わなければいけない。 実際、日本の一部の人はそう考え始めている。 僕はタイにいるのでよく思うけど、日本の女の子が言う言葉は、タイの女の子が言う言葉と比べて、ものすごく哲学的だ。 日本の女の子は、心理の奥深い部分にある複雑さを出来るだけ厳密に描写しようとしていることを感じる。 タイの女の子はもっとシンプルだ。
しかし、上で述べたように「日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負け」である限り、厳密な言葉で話し合うグループはマイノリティーであり、不利だ。 限界がある。 「自分の意見を言ったら負け」である限り、厳密なコミュニケーションをとろうとする人たちは、マジョリティーから迫害されがちだ。
これは、今の日本人がもっている大きな矛盾なのではないか。
コメント一覧
クレ 2009年03月21日 23:35
少し話すと、疲れる相手か気が合う相手かわかることは多いですね。いいも悪いもなくて、ただそれだけの気がしてしまうのです。おかあつさんは少数タイプなんで、理解不能の相手に出くわす率高そうだし、自己主張するとぶつかるでしょうねえ・・っていうか相手に避けられそう。年齢とともに無駄な人間関係で疲れたくないので、合わない人はスルーです。どうしても関わらないとならない人の場合、けんかするのも疲れるので、適当に合わせることもあります。この世の中病的に頭おかしい人もずいぶん多いんだなあってしみじみ思うこの頃。人格が不完全なのは仕方ないですね。お互い様ですから。
おかあつ 2009年03月22日 00:58
僕だけが少数って言うのは、たぶん事実じゃないと思います。 本当は、みんな少数なんです。
クレ 2009年03月22日 01:17
ああそれはそうですね。ただ人へのアプローチの仕方とか、期待度みたいなものが冷めてないというのか、諦めてないところが、私には珍しく見えるのかもです。
おかあつ 2009年03月22日 01:28
>ただ人へのアプローチの仕方とか、期待度みたいなものが冷めてないというのか、諦めてないところが、私には珍しく見えるのかもです。
そう、それが、正に僕が言いたいところで、日本だと「あきらめないとやってられない」んです。
しかし、僕が知っている限りの外国での話ですが、普通、ここまであきらめてないです。
もう少し、ちゃんとコミュニケーションがあります。
(きちんと目を見るとか、知らない人でもきちんと挨拶するとか、きちんと自己紹介するとか、きちんと自分の意見を説明できるとか 人の話をじっと最後まで聞けるとか)
そう、それが、正に僕が言いたいところで、日本だと「あきらめないとやってられない」んです。
しかし、僕が知っている限りの外国での話ですが、普通、ここまであきらめてないです。
もう少し、ちゃんとコミュニケーションがあります。
(きちんと目を見るとか、知らない人でもきちんと挨拶するとか、きちんと自己紹介するとか、きちんと自分の意見を説明できるとか 人の話をじっと最後まで聞けるとか)
おかあつ 2009年03月22日 01:35
本当は、きちんと方法さえ持っていれば、日本人だってこうやってコミュニケーションすることは、出来るはずなんです。 しかし、そういうコミュニケーションのリテラシーを持ってないので、うまくいかないんです。 その状態で「100%自分を理解できる人間がどこかにいるはずだ」とかよく言う人がいるのです。 そうやって、みんなあきらめてしまっているように思えます。 それが僕は結構変だと思います。
クレ 2009年03月22日 23:57
努力しないでも心地よい人間関係を結べる人とだけのつながりでも十分忙しい場合、そのほかはカットする選択をするのもありのような気がします。まあ、けんかうらない程度に。
ただ、心地よくないのに無理やりつるんで自分への他者からの攻撃に備えているだけのむなしい友達関係作っている若い人をたくさんみます。
自分が弱いから、今ある関係を維持するのに汲々として、新しい者を排除することで自分の立場を守っているって感じでしょうか。
仕事の関係においては、このお子ちゃま感覚はいただけません。好きも嫌いも理解不能も乗り越えて、なんとかやっていかなければなりませんものね。
相手との本音の関係をあきらめつつも、相手を決め付けない思い込まない鈍感力を駆使して、距離を近づけすぎず、できる範囲で好意的にふるまううちには、腐れ縁のようになって本音嫌いでも嫌いでなくなるもんです。
実は自分の本音なんてあってないもの、自分でもさっぱりわからないものだし、始終変わるものなんだから、あんまり分析しないで軽く流すのも生きる知恵のように思えます。
真の関係は長い時間がかかってやっと築けるから価値があるので、話し合って手に入るものでもないなあという実感もあります。
ただ、心地よくないのに無理やりつるんで自分への他者からの攻撃に備えているだけのむなしい友達関係作っている若い人をたくさんみます。
自分が弱いから、今ある関係を維持するのに汲々として、新しい者を排除することで自分の立場を守っているって感じでしょうか。
仕事の関係においては、このお子ちゃま感覚はいただけません。好きも嫌いも理解不能も乗り越えて、なんとかやっていかなければなりませんものね。
相手との本音の関係をあきらめつつも、相手を決め付けない思い込まない鈍感力を駆使して、距離を近づけすぎず、できる範囲で好意的にふるまううちには、腐れ縁のようになって本音嫌いでも嫌いでなくなるもんです。
実は自分の本音なんてあってないもの、自分でもさっぱりわからないものだし、始終変わるものなんだから、あんまり分析しないで軽く流すのも生きる知恵のように思えます。
真の関係は長い時間がかかってやっと築けるから価値があるので、話し合って手に入るものでもないなあという実感もあります。
おかあつ 2009年03月23日 00:37
クレさんの言うことはもっともで、僕もそうだと思います。 で、では僕が言っている部分とどう交わってどういう関係になるのか、ちょっと考えてみたんですが、僕もよくわららないです。
ひとつだけ思うんですが「どんどん出会って、どんどん別れる」 人間関係ってあると思うんです。 これは確かに「真の関係」などというものとは、てんでかけ離れており、そういう意味では薄っぺらな関係で、ぜんぜん違うものです。
ですが、いろいろな職場や学校や寮や旅行先や何でもいいんですが、出会った先で短い間だけ世話になることができて、しかもそれが、それこそ、どこにいってもたくさん居る、という世界があると思うのです。(日本だとなかなかそうも行かない場合が多いような気がします)
そういう中で、ウマが合う人もいれば、ウマが会わない人も居て、その人と仲良くするか、仲良くしないかは、その人の自由、という世界があると思うのです。 仲良くしたからほめられる訳でもなし、仲良くしなかったから責められるわけでもなし、という感じです。 (これも日本だとなかなかそうも行かないものです)
それで、日本人同士って一緒に居てどうも疲れる、とか、日本に居るのにどうも寂しい、とかっていう、日本独特な人間関係の問題と、どういう違いがあるからそうなるのか、僕もよくわからないです。
僕は今頭の中で、欧米で語学留学していたときの実に気楽な人間関係のことを思っているんですが、そういう「ちょっと知り合って、きちんと関係を持てる」 というか「異質なものでもきちんと一定のコミュニケーションを維持できる」というか... 何だろう。
アジアでもタイはそういう感じの流動的な人間関係ってところ、あります。
ひとつだけ思うんですが「どんどん出会って、どんどん別れる」 人間関係ってあると思うんです。 これは確かに「真の関係」などというものとは、てんでかけ離れており、そういう意味では薄っぺらな関係で、ぜんぜん違うものです。
ですが、いろいろな職場や学校や寮や旅行先や何でもいいんですが、出会った先で短い間だけ世話になることができて、しかもそれが、それこそ、どこにいってもたくさん居る、という世界があると思うのです。(日本だとなかなかそうも行かない場合が多いような気がします)
そういう中で、ウマが合う人もいれば、ウマが会わない人も居て、その人と仲良くするか、仲良くしないかは、その人の自由、という世界があると思うのです。 仲良くしたからほめられる訳でもなし、仲良くしなかったから責められるわけでもなし、という感じです。 (これも日本だとなかなかそうも行かないものです)
それで、日本人同士って一緒に居てどうも疲れる、とか、日本に居るのにどうも寂しい、とかっていう、日本独特な人間関係の問題と、どういう違いがあるからそうなるのか、僕もよくわからないです。
僕は今頭の中で、欧米で語学留学していたときの実に気楽な人間関係のことを思っているんですが、そういう「ちょっと知り合って、きちんと関係を持てる」 というか「異質なものでもきちんと一定のコミュニケーションを維持できる」というか... 何だろう。
アジアでもタイはそういう感じの流動的な人間関係ってところ、あります。
クレ 2009年03月23日 01:38
>僕は今頭の中で、欧米で語学留学していたときの実に気楽な人間関係のことを思っているんですが、そういう「ちょっと知り合って、きちんと関係を持てる」 というか「異質なものでもきちんと一定のコミュニケーションを維持できる」というか... 何だろう
おかあつさんが求めている姿がちょっとだけ見えました。
日々重いと感じている、あるいは疲れると感じている人間関係を、当然の人間としての試練?として私は受け止めているけれど、ほんとにそれは当然のことなのか?ってことから話は始まるのですね。
日々の人間関係を試練としないで、もっと楽しいものにできる道があるのでは?って。
私は人見知りしないので、知らない人と一時的に仲良くするのはまったく苦になりません。むしろ、長く付き合うべき相手や、共通する活動場所を持った仲間との付き合いに疲れることが多いんですが、旅行先での人間関係はそういう意味では気楽で楽しいだけであっても不思議ではありません。
>それで、日本人同士って一緒に居てどうも疲れる、とか、日本に居るのにどうも寂しい、とかっていう、日本独特な人間関係の問題と、どういう違いがあるからそうなるのか、僕もよくわからないです。
日本人同士の場合スタートラインというか、親交の深まる速度が別の国からの人と比べて早いので、深いところで合うか合わないかの結果が早くでるから、すぐ関係が複雑になってしまうのでは。まったく違う人種となら、会話できただけでもうれしいってところから始まるわけで、親交の深まる速度が遅いので、深まらないうちに別れるから、楽しいところだけで済むのでは??
海外で銃を乱射する子供がいるところを見ると、人間関係が上手な人ばかりとは思えないし。体型や能力や性格で阻害されている人がいるのは、日本と同じ??
もともと異質が前提の外国人同士の付き合いと、理解できるはずと期待してしまう同国人同士では(特に日本は同種観が強いし、長年の共通のバックボーンもあるはずと思っているわけで)お互いに対する要求も違うでしょうし。
共通理解と和の心を徹底的に洗練??させたのが、京都の社会なんだろうあと想像します。ノーと言わずにノーを伝えるとか・・。とても神経磨り減りそうです。
おかあつさんが求めている姿がちょっとだけ見えました。
日々重いと感じている、あるいは疲れると感じている人間関係を、当然の人間としての試練?として私は受け止めているけれど、ほんとにそれは当然のことなのか?ってことから話は始まるのですね。
日々の人間関係を試練としないで、もっと楽しいものにできる道があるのでは?って。
私は人見知りしないので、知らない人と一時的に仲良くするのはまったく苦になりません。むしろ、長く付き合うべき相手や、共通する活動場所を持った仲間との付き合いに疲れることが多いんですが、旅行先での人間関係はそういう意味では気楽で楽しいだけであっても不思議ではありません。
>それで、日本人同士って一緒に居てどうも疲れる、とか、日本に居るのにどうも寂しい、とかっていう、日本独特な人間関係の問題と、どういう違いがあるからそうなるのか、僕もよくわからないです。
日本人同士の場合スタートラインというか、親交の深まる速度が別の国からの人と比べて早いので、深いところで合うか合わないかの結果が早くでるから、すぐ関係が複雑になってしまうのでは。まったく違う人種となら、会話できただけでもうれしいってところから始まるわけで、親交の深まる速度が遅いので、深まらないうちに別れるから、楽しいところだけで済むのでは??
海外で銃を乱射する子供がいるところを見ると、人間関係が上手な人ばかりとは思えないし。体型や能力や性格で阻害されている人がいるのは、日本と同じ??
もともと異質が前提の外国人同士の付き合いと、理解できるはずと期待してしまう同国人同士では(特に日本は同種観が強いし、長年の共通のバックボーンもあるはずと思っているわけで)お互いに対する要求も違うでしょうし。
共通理解と和の心を徹底的に洗練??させたのが、京都の社会なんだろうあと想像します。ノーと言わずにノーを伝えるとか・・。とても神経磨り減りそうです。
おかあつ 2009年03月23日 02:03
>日本人同士の場合スタートラインというか、親交の深まる速度が別の国からの人と比べて早いので、深いところで合うか合わないかの結果が早くでるから、すぐ関係が複雑になってしまうのでは。
これも、僕もそうかもしれないと、常に思って注意しているんですが、いちがいにそうだともいえないケースも多いように感じてます。
僕がよくしっているタイ人とかも、知り合った瞬間マックスまで仲良くなるところありますし、思い返してみれば、韓国人もそういう感じです。 知り合ったその日いきなり飲みに行って人のタバコとかすいまくったりしますし。
また、嫌いなら即ケンカできる自由があるというか、むかついたら文句言える自由があるというか... 何だろう。
タイでもむかつく人なんかいくらでもいます。 居ますが、日本みたいに面倒くさくないというか、いや、ある意味もっと面倒くさいところもあるんです。 だけど、日本みたいに妙に消耗しないというか...何だろうなぁ。
>海外で銃を乱射する子供がいるところを見ると、人間関係が上手な人ばかりとは思えないし。体型や能力や性格で阻害されている人がいるのは、日本と同じ??
おかしい人、ってやっぱりどこにも居ます。 どこの国にも居ます。 それで銃を乱射しちゃうような人っています。 で、こっちは、タイは実は意外ですがかなり少なくて、アメリカとかにはたくさん居るような気がします。 で、日本にもいるけど、アメリカほど多くないところが、日本っぽいんだと思います。 日本はまだ安全弁が生きているというか... これは、漠然と何でだかわかるんですが、これも説明しようと思うと、ものすごく難しいです。 これってひょっとして比較文化論みたいな、ものすごく説明も検証も難しい学問の世界なのかなぁ ひょっとして。
◇
個人的な感想なんですが、僕は「言わずにわかる」っていうのが、面倒で仕方ないです。
「不満があるならいえよ、すぐ聞くから」 ってよく思います。 こっちは言われたって怒らないですし、受け入れる体制を整えて待ってるんですが、絶対言わないのです。
逆に「不満があるから聞けよ」っていうのもあります。 こっちは別に攻撃するつもりも何にも無いんですが、とにかく問題があるから聞いてもらって解決してもらいたいだけなんです。 だけど、聞いてくれないというか、いう事自体が失礼になってしまうというか。
「俺、嫌いだから、一緒に行かない。 (それが好きだというのは君の自由。) 」
「(君が嫌だというのは、君の自由。) わかった。 行かなくてもいいよ。 」
っていえたら、人間関係どんなにラクチンになることか。
◇
タイの人、日本人よりもっと言わないです。 そういう意味では京都人的です。 でも、日本みたいに疲れないです。 こっちは、もっとわかりやすいシグナルがあるんです。 だから言葉で言わなくても、あらかじめ察することが出来ます。
日本だと... あぁめんどくさい。 考えただけでもめんどくさくなってくる。
ぜんぜんわからないこと、多いです。
これも、僕もそうかもしれないと、常に思って注意しているんですが、いちがいにそうだともいえないケースも多いように感じてます。
僕がよくしっているタイ人とかも、知り合った瞬間マックスまで仲良くなるところありますし、思い返してみれば、韓国人もそういう感じです。 知り合ったその日いきなり飲みに行って人のタバコとかすいまくったりしますし。
また、嫌いなら即ケンカできる自由があるというか、むかついたら文句言える自由があるというか... 何だろう。
タイでもむかつく人なんかいくらでもいます。 居ますが、日本みたいに面倒くさくないというか、いや、ある意味もっと面倒くさいところもあるんです。 だけど、日本みたいに妙に消耗しないというか...何だろうなぁ。
>海外で銃を乱射する子供がいるところを見ると、人間関係が上手な人ばかりとは思えないし。体型や能力や性格で阻害されている人がいるのは、日本と同じ??
おかしい人、ってやっぱりどこにも居ます。 どこの国にも居ます。 それで銃を乱射しちゃうような人っています。 で、こっちは、タイは実は意外ですがかなり少なくて、アメリカとかにはたくさん居るような気がします。 で、日本にもいるけど、アメリカほど多くないところが、日本っぽいんだと思います。 日本はまだ安全弁が生きているというか... これは、漠然と何でだかわかるんですが、これも説明しようと思うと、ものすごく難しいです。 これってひょっとして比較文化論みたいな、ものすごく説明も検証も難しい学問の世界なのかなぁ ひょっとして。
◇
個人的な感想なんですが、僕は「言わずにわかる」っていうのが、面倒で仕方ないです。
「不満があるならいえよ、すぐ聞くから」 ってよく思います。 こっちは言われたって怒らないですし、受け入れる体制を整えて待ってるんですが、絶対言わないのです。
逆に「不満があるから聞けよ」っていうのもあります。 こっちは別に攻撃するつもりも何にも無いんですが、とにかく問題があるから聞いてもらって解決してもらいたいだけなんです。 だけど、聞いてくれないというか、いう事自体が失礼になってしまうというか。
「俺、嫌いだから、一緒に行かない。 (それが好きだというのは君の自由。) 」
「(君が嫌だというのは、君の自由。) わかった。 行かなくてもいいよ。 」
っていえたら、人間関係どんなにラクチンになることか。
◇
タイの人、日本人よりもっと言わないです。 そういう意味では京都人的です。 でも、日本みたいに疲れないです。 こっちは、もっとわかりやすいシグナルがあるんです。 だから言葉で言わなくても、あらかじめ察することが出来ます。
日本だと... あぁめんどくさい。 考えただけでもめんどくさくなってくる。
ぜんぜんわからないこと、多いです。
おかあつ 2009年03月23日 02:13
実は、タイでも、バンコクは結構疲れます。 理屈なら理屈、気持ちなら気持ちで、どちらか片方で済ませたいのですが、混ざっていて、うっとうしいです。 「心の世界と、合理の世界と、中間にある」というところが、問題なんじゃないかと思います。 それが正に「日本的商慣行」って言われているものと近いような気がします。
おかあつ 2009年03月23日 02:18
あと、日本人って、知らない人と絶対挨拶しないですよね。 これがすごく人間関係の流動性を下げています。 知らない土地に行っても、絶対に協力者を得られないので、人間関係がものすごく固定的になりがちです。 学生時代に知り合った友達以外の友達と知り合う機会が極端に少ないと感じます。
これが僕はもっとも息苦しいです。
これが僕はもっとも息苦しいです。
退会したユーザー 2009年03月30日 21:08
>共通理解と和の心を徹底的に洗練??させたのが、京都の社会なんだろうあと想像します。ノーと言わずにノーを伝えるとか・・。とても神経磨り減りそうです。
京都人(この言い方は好きではないですが)の会話は、よくそう捉えられます。京都がそういう風にばかり宣伝されているからです。で、他府県からの旅行者は、京都はそういうものだ、という先入観をもってやって来る。旅行なので、深いところまでわからないで、いい思い出だけを持って帰ります。タイでもどこでもそうだと思いますが、京都人の集団の中で生活しないと、本当のところは絶対にわからないです。
実際の京都人ですが、彼らはそれに慣れているというか、それが沁みついているので、神経磨り減ると感じている人って案外少ないです。(むちゃくちゃ神経遣う地域もありますけど。)
それどころか、そういう風習を良しとして、京都人以外にもそれを誇示します。しかもうわべのところだけです。だから余計に「京都的」イメージが定着します。
私は京都に20年住んでから東京横浜に2年いて、また京都に戻りました。戻ってきて、「京都人」って嫌いだ、と思いました。でも、結局私にも沁みついているので、上手くやっていくことはできます。
タイ人を悪く言う人は多いですが、京都人のことを悪く言う人ってあまりいないと思います。誰か、ボロクソ言ってくれないかな、と思います。
>タイの人、日本人よりもっと言わないです。 そういう意味では京都人的です。 でも、日本みたいに疲れないです。 こっちは、もっとわかりやすいシグナルがあるんです。 だから言葉で言わなくても、あらかじめ察することが出来ます。
「京都人」は、ものっっすごく排他的で、意地悪で粘着質で執念深く、嫉妬心や猜疑心も強い、露地栽培のじめじめした感じだけど、表面的に優しい自分に酔っているんです、全てにおいて、です。「言わなくてもわかる」も意地悪のひとつです。イケズの文化です。
タイ人の「言わなくてもわかる」は意地悪からではないと感じています。まだタイ人を理解できていませんが、今のところはそう思います。
京都人(この言い方は好きではないですが)の会話は、よくそう捉えられます。京都がそういう風にばかり宣伝されているからです。で、他府県からの旅行者は、京都はそういうものだ、という先入観をもってやって来る。旅行なので、深いところまでわからないで、いい思い出だけを持って帰ります。タイでもどこでもそうだと思いますが、京都人の集団の中で生活しないと、本当のところは絶対にわからないです。
実際の京都人ですが、彼らはそれに慣れているというか、それが沁みついているので、神経磨り減ると感じている人って案外少ないです。(むちゃくちゃ神経遣う地域もありますけど。)
それどころか、そういう風習を良しとして、京都人以外にもそれを誇示します。しかもうわべのところだけです。だから余計に「京都的」イメージが定着します。
私は京都に20年住んでから東京横浜に2年いて、また京都に戻りました。戻ってきて、「京都人」って嫌いだ、と思いました。でも、結局私にも沁みついているので、上手くやっていくことはできます。
タイ人を悪く言う人は多いですが、京都人のことを悪く言う人ってあまりいないと思います。誰か、ボロクソ言ってくれないかな、と思います。
>タイの人、日本人よりもっと言わないです。 そういう意味では京都人的です。 でも、日本みたいに疲れないです。 こっちは、もっとわかりやすいシグナルがあるんです。 だから言葉で言わなくても、あらかじめ察することが出来ます。
「京都人」は、ものっっすごく排他的で、意地悪で粘着質で執念深く、嫉妬心や猜疑心も強い、露地栽培のじめじめした感じだけど、表面的に優しい自分に酔っているんです、全てにおいて、です。「言わなくてもわかる」も意地悪のひとつです。イケズの文化です。
タイ人の「言わなくてもわかる」は意地悪からではないと感じています。まだタイ人を理解できていませんが、今のところはそう思います。