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2009年3月6日金曜日

バイリンガル、悪いところ取り (mixi05-u459989-200903060102)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
バイリンガル、悪いところ取り
2009年03月06日01:02
バイリンガルはかっこいいと思う。 たぶん、誰にでも多少はそういう憧れがあるのではないかと思う。 僕は特にバイリンガルへの憧れがとても強くて、日本で苦労していた間...いつもいつも「外国に行って外国語を勉強し自由に外国語を操れる人になりたい」と思っていた。 で、今、その願いがある意味微妙に形を変えて実現し、今では僕は三ヶ国語とちょっと話せるようになった。

でも、僕は、今になって考えてみればちょっと特殊なところがあると思う。 僕は自分自身を教育することにわりとまんざらでもないところがあるというか、自分自身に厳しい教育を施すことにかなり強い興味を持っている、人がいやいややるような勉強を進んで、しかも結構楽しんでやってしまうことが出来るからだ。 だからこそ、いつも何かしらの方法でいつも自分を教育しているし、それがなくなるとつまらないと思っている。

僕は、もし万が一、君は一生安泰だ、何も苦労しなくても死ぬまで安心、何もしなくてもいいよ、といわれることがあったとしても、たぶん、何か自分を教育するような何かをやっていると思う。

しかし、そこまでしてやりたい思う人というのは、たぶんだけど、案外稀なのではないだろうか。 普通は、人生のんびりとやりたい、難しいことは避けて、簡単なことだけで済ませたい、難しいことは出来るだけ考えないことに越したことはない、と思って居るものじゃないだろうか。

僕は「十代のころに外国に行き、外国文化&外国語を学び、外国語をまるでネイティブのように話せる」という風になることが夢だった。 いろいろと方法を模索はしたがどれもこれも無理だった。 すべての道は貧乏人には道が閉ざされていた。 貧乏人である僕は、外国に行くことは絶対に無理であり、地に這いつくばって生きていくことを選択する以外なかった。

で、今こうやって、日本で這いつくばった挙句、日本のおじさんになって、結果的にひょんなことからどういうわけか三ヶ国語話せるようになって、形を変えて夢を果たしたのだった。 で、そうなると、「十代のころ外国に行き、外国文化&外国語を学び、外国語をまるでネイティブのように話せる」人と出会うことが多くなった。

僕は彼らをうらやましいと思うだろうか。 それがそうでもないのだ。 なぜか。 彼らを見ていると「二つの国の悪いところ取り」なところが目に付き、いろいろと首を傾げざるを得ないことが多いからだ。 何故そういうおかしなことになってしまうのかと、いろいろなことを考えさせられる。

たとえばどういうことか。

かつて僕がタイでケンカした日本人男性も十代のころからタイにおり三ヶ国語を話せる人だった。 彼がまた「悪いところ取り」だったのだ。 彼は、英語を話す人が当然そうでなければいけないような論理的に物事を説明できる能力も持っていない。 彼は、タイ人が当然そうでなければいけないような心の世界を読み取る心の機微に長けた成熟した人間でもなかった。 彼は、日本人がそうでなければいけないような、深く追求する心、責任の心、気遣いの心も持っていなかった。

僕はそういう彼を見て、実にがっかりしたのだが、でも、最近、彼に限ったことでもないような気がしてきた。 《ある努力を苦にしないという才能を持っていない人が》若いころから外国に出ると、そうなってしまう危険があるのだと思う。

それは、なぜならば、人がきちんと「ある国で」大人になるためには、「その国での」きちんとした厳しい教育が必要だからではないだろうか。 アメリカであれば、小さいころから自立を重んじられ、大学に入ればスピーチからライティングまで、アメリカ人としてのリテラシーをがっちり勉強させられる。 タイもそうだ。 タイでは小さいころから仏門に入門させられて落ち着きの心を学ばさせられる。 人の気持ちを思いやる訓練を受ける。 日本人にもある。 日本人であれば小さいころから今でもどこかに残る武士道の香りを受けつつ、受験勉強をさせられて、大量の情報をまとめて処理する訓練・端から端まですべてを丸暗記する訓練をさせられる。

ところが、外国に行くと、そういった「その国の人らしい良さ」を得るチャンスを失ってしまう。 厳しさを通り越す前に、違う文化を勉強することになってしまうからだ。

もちろん、すべての人がそうなるわけではない。 充分な教育を受けることに恵まれ、きちんとその国らしいよさを身につける人もいるし、教育の不足を努力で補うことで、その国の人らしい能力を身に着ける人もたくさんいる。 だけど、努力する大切さを学んでこなかった人は、外国に行くと「悪いところ取り」という状態になってしまいがちではないかと思う。

外国に行くと、常に「悪いところ取り」の危険が付きまとうのではないかと思う。


というのも、最近、あるタイ人と知り合ったのだけど、この人が、僕がびっくりするほど自然な日本語を話す人で、実にタイ人ぽくなく、実に日本人っぽいのだった。 だけど、この人、日本人過ぎるほど日本人っぽいというか、いかにも最近の日本人にありがちな、無気力あきらめムードをかもし出してしまって、ひきこもりで、覇気がない。 日本人らしいマニアックさとかストイックさは持っておらず、タイ人らしいしなやかさとでもいうか、心の機微に長けているわけでもないのだ。 いろいろと複雑な気持ちになってしまった。 これだとどこの社会にも居場所を見つけることが出来ない。 本当はその問題を解決するための準備期間が今のはずなのだけど、本人はその問題がまだ見えてないので、それも準備できない。


前、ある4ヶ国語を話す先生が「外国語を勉強する、ということは新しい人間として生まれ変わらないといけないのだ」という話をしていたことがあった。 言語に限らず、すべての常識・能力を、すべて最初から学びなおさなければいけないからだ。 これはつまり、子供と同じことを子供と同じように最初から学びなおさなければいけないということでもあるだろう。 話はいうほど簡単ではないのだと思う。

ものごとを「やらされているからしかたなくやっている」という程度の低い自発性だと、どうしても「悪いところ取りバイリンガル」になってしまう。

でも、そういう高い自発性をキープするのは、非常に強靭な精神力を必要とするものだ。 普通はそういうことをすると、精神的に厳しい状況に追い込まれ、幸せだという気持ちをすべて失っていきおいとても不幸になってしまう。

こんなにつらいことをやって「楽しい」と思えるということは、ある意味「体育会系筋トレマニア」的で、みかたによっては病的ですらある。 でも、どうしても、この病的な領域に来ないと、どうしても、ダメダメなバイリンガルになってしまいがちではないか。

バイリンガルって難しい。


なんて。
コメント一覧
ジャコビ   2009年03月06日 02:33
私がアメリカで出会った、バイリンガルとして育てられた人々(そして、本当にバイリンガルになった人々)には、殆ど全てと言って良い程、感心させられました。英語と日本語(敬語も含めて)を正しく使えるという事だけでも凄いのに、彼らはアメリカで育ったのに日本人の細やかな感性を持ち合わせているのです。当然、日本文化にも愛着を感じているし、自分が日本人であるということに本当の意味で誇りを持っているのがわかります。時には、日本で既に失われてしまったような美徳すら、彼らの中に存在するのです。

彼らの共通点は、日本語学習を通じた両親の厳しい躾のようです。その昔、日本人が子供達を厳しくしつけたように、彼らの親も自分の子供にいいわけさせず、殆ど絶対服従で育てたようです。「子供の頃は、嫌でたまらなかったけれど、大人になってからは、日本語と日本の文化を教えてくれた親には深く感謝している。」と皆さん言っています。
おかあつ   2009年03月06日 03:00
ジャコビさん、面白いコメントありがとうございます。

ふたつ思うことがあります。

>彼らの共通点は、日本語学習を通じた両親の厳しい躾のようです。
そうかもしれません。 そう、確かに、僕が知っている彼らは親が厳しくないのかもしれないのです。 「厳しさを知る」って言いますが、厳しさを持ってないのです。 今、日本人には厳しさ(困難を自力で解決させるという意味で)がなく、誰も子供を躾けて育てていないような気がします。

もうひとつは、僕が知っている限りなのですが、僕が尊敬するバイリンガルの人のほぼ全員がハーフだということです。ハーフの人の両親が躾けに厳しいからそうなるのか、それとも複雑な文化背景がそうさせるのか、それとも、もともとそういう能力を持っているのかは、わからないです。 この日記に出てきた四ヶ国語話す先生も実はフランス・イタリアのハーフのアメリカ移民でした。

ハーフじゃない人で、ティーンエージ時代に海外に出て、キチっと話せる人って、いまだにであったことがないです。 僕の少ない経験の中ではありますが...

また、日本人に多いタイプというか、常に問題意識を絶やさない忍者タイプの自助努力家の人は別な気がします。 こちらはこちらで、レベルが高い人って居ます。

ジャコビ   2009年03月06日 03:16
私が知っているバイリンガルの人びとは、全て両親ともに日本人ですが、アメリカで生まれたか、幼いうちに両親ともにに渡米しています。両親が供に日本人だと、外では英語を話すけれども、家庭内ではきちっとした日本語を話す(家庭内に英語は持ちこまない)という習慣を徹底して行えるという強みもあります。ウチは夫が日本語を全く介さないこともあり、子供の日本語教育には四苦八苦しています。それでも、しっかりと子供に日本語を教えている家庭がいくつもあるわけだから、結局私の場合は、日本語教育を怠けているグチなんですけれどね…

土曜日は子供の日本語補習校なので、気持ちを新たにして頑張ります。
おかあつ   2009年03月06日 03:49
>私が知っているバイリンガルの人びとは、全て両親ともに日本人ですが、アメリカで生まれたか、幼いうちに両親ともにに渡米しています。

なるほど... ティーンエイジからじゃなくて、幼少からなんですね...。
(三十路からはじめた僕がこう言うのも変ですが)


僕、こうやって書いてみて気がついたんですが、ティーンエイジ時代に海外に渡った人間にかなり反感というか羨望を持っているというか、いずれにしてもかなり辛口の点数をつけがちなのかもしれないです。 当時の悔しさ=自分ならもっとチャンスを活かせるのに、あいつはせっかくのチャンスを目の前に何をノロマなことをやっているのか、という悔しさがいまだに残っているんだと思います。

いずれにしても、自分なり、他人なり、厳しくしないと、だめなのかもしれないですね...。


僕、相手に通じない言葉を話すことにかなり抵抗を感じる方です。 だから、相手はいつまでたっても言葉を覚えません。 言葉って環境によって覚えるものだと思うのです。 僕は、自分自身が人の作った環境に入っていくのは結構得意ですが、自分自身がある環境を演出するということが、僕は逆に苦手です。 照れくさかったり、面倒くさかったりします。

他人を育てるのって難しいです。
自分に厳しくするのは簡単ですが、人は厳しくすると腐ったり怒ったりしますし...。

植木も水を上げすぎると育たなくなるって言いますが、あげすぎてもダメで、あげなさ過ぎてもダメで...。


日本語の補習、がんばってください。
かつお   2009年03月06日 20:40
おかあつさんの日記を拝見していますが、鋭いところをついてるなぁといつも思います。僕も一応は4ヵ国語を話すことがありますが、大体は仕事や生活で必要だからです。現地の人たちと同じような生活をすることにより、考え方も共有できるかと思います。たしかに、外国語を習得するのは、日本人である自分を忘れる(日本語で考えない)ことが大切でしょうか。
 
出展 2009年03月06日01:02 『バイリンガル、悪いところ取り』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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