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2009年3月7日土曜日

自分のことを100%理解できる人が存在する、ということを仮定する (mixi05-u459989-200903071717)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
自分のことを100%理解できる人が存在する、ということを仮定する
2009年03月07日17:17
ある人のコメントで以下の引用のようなことを書いた。

引用はじめ
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僕は日本から出るようになって久しい。 それでいろいろ思うところある。

「どこかに自分のことを100%理解してくれる人がいることを仮定する」

1. これは僕もある。 しかし僕の場合、ちょっと難しかった。僕の場合、自分が考えていることを100%理解してもらうためには論文程度のきわめてシリアスな文章を書く必要があり、周囲の人間が自分が考えていることが理解できないのは、周囲の人間がバカだからではない、ということに気がつくまでにずいぶん時間がかかった。

2.「理解される」 ≠ 「受け入れられる」

とはいえ僕も、周囲の人間が理解してくれないことについて、たくさんつらい思いをした。でも、今こうして外国にいて思うことにこういうことがある。それは周囲の人間が理解してくれないことに何の変化もないが、まったくつらくなくなった、ということだ。理解してくれてないけど、受け入れてもらってはいるように思う。 「理解してもらう」ということは必要充分条件ではないようだ。理解されることよりも、むしろ「受け入れる」「受け入れられる」ことが大切であるようだ。 というのも、「俺はお前の言う苦しみなど、難しくて理解でけん。だが、お前の苦しみが本物だということぐらい、わかる。」と、いえる能力を持つ人が存在することを知ったからだ。 そういう人は、国によってはたくさん存在する。

3. 日本の中間性

日本人であることは、難しい。 日本って西洋と東洋の中間のようだ。僕がいるタイの様に、すべての中心が「気持ち」であれば、それはそれで、あまり大変じゃないし、逆に、アメリカみたいに、すべての中心が「論理」でさえあれば、それはそれで、あまり大変じゃない。 ところが日本ってそのどちらでもない。日本って、「気持ち中心」で行くと馬鹿にされるし、「論理中心」で行くと、煙たがれるという、二重拘束がある。これが日本の生きづらさの根源じゃないかと思う。


4. 日本人の同質要求性

日本人のコミュニケーション方法って、こうやって改めて外国から眺めてみると、次の点で非常に特殊だと思う。それは、相手に100%自分と同じであることを要求するという点だ。この要求は非常にハードルが高く、場合によっては要求に応答することは不可能ですらある。日本人同士がコミュニケーションを正常に取り交わすためには、 同じ地元、同じ学校、同じ会社、同じ境遇... 何でもいいので同じものが必要になる。また、少しでも違うとコミュニケーションが成立しなくなる。 この点、日本のコミュニケーションは、独特な困難さがある。

普通(日本以外の国)ではそうではない場合がほとんどだ。 相手と自分の出身が違うことなんか当たり前だし、自己紹介しあって、相手に興味を持って知ることで、コミュニケーションは成立する。

5.日本の世代格差と生きづらさ

日本人って今、壊れている。たぶん70年代生まれ、80年代生まれ、90年代生まれと来て、この三者は、もう、日本人にとっては、「外人」って言っていいぐらい違いがある。言葉が違うと言い切れるほど、違う。ところが、日本人のコミュニケーション方法が相変わらず近親相姦的なので、それぞれが完全に近い孤立を生んでおり、どんどん生きづらくなってきていると思う。


また、本当は、孤立することは問題じゃない。 精神的には人はひとりでも生きていける。問題は、孤立している人を阻害するような社会的なシステムがあることだ。孤立していると、銀行振り込みすることが難しかったり、学校に行くことが難しくなったり、両親の面倒を見るのが難しくなったり、子供を育てるのが難しかったり、する。

孤立することが出来ない以上、周囲とコミュニケーションをとり続けなければいけない。 つまり、4で挙げた理由によって、表面的だけでも、相手と同じということをウソでもいいから演じきらなければいけない。 この義務感が極めて強い精神的圧迫感を演出してしまう。

それぞれの世代で生まれる独自の問題を解決するために、問題の要点を違う世代に伝える必要があるのに、 それを伝えるための言葉を日本人は持っていない。

それぞれ、「KY」(80年代生まれ)とか、「親父にも殴られたことがないのに(70年代生まれ)」とか、そういう自閉症的な言葉を振り回して、それぞれわかってくれない、と嘆いている。 また、それぞれの年代が実は他の年代から理解されていない、ということに、実はいまいち気がついていない。

日本は難しいと思う。

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引用終わり

こうかいてはみたものの、これを読んだ人に、まさに、通じてないので、愕然とした。


「どこかに自分のことを100%できる人が存在するということを仮定する」というのは、間違った仮定ではない。 ただ、この前後にふたつ間違いがある。 ひとつは、コミュニケーションの仕方の問題で、もうひとつは、本当に理解してもらうことが必要なわけではない、という問題だ。

この問題を理解するためには、なぜこの言葉が出てくるのか、という背景について考える必要がある。 この言葉が出てくる背景には、日本人が「みな同じである」という風に思っていて、同じでない要素を持っていると、とても生活が難しくなってしまうという現象がある。

たとえば、小学校などで「今日家に帰ってテレビを見たら、今日見た番組の感想文を書いて明日持ってきてください。宿題でーす。」って言われたとき、必ずひとりやふたりは「うち、テレビありません。」って言って「そんなわけ、あるか!」って先生に怒られて、恥ずかしい思いをしたりする人が出る。

たとえば、「おうちのお母さんの似顔絵を描いて持ってきてください!宿題でーす!」って言われても、お母さんがいなかったりする。 ひとりだけお父さんの絵を描いて持ってきて、目だってつらい思いをする。

そういうことがあったとき、誰もが、自分の置かれている状況や、自分がつらいと思うその理由などについて、他人に説明を試みる。 ところが、まったく理解を得られないのが普通だ。 「えー○○ちゃんのいえ、お母さんいないの~? 大変だなぁ~!」とかいわれ、つらい思いをする。 そうやって言われること自体が非常につらいということを説明する難しさに愕然としたりする。 実はお母さんがいないこと自体はそんなに大変じゃない。 そうやって全員から奇異の目で眺められること自体がとてもつらいのだ。 この感覚を知らない人にこの感覚の来る理由を説明するのはとても難しい。

こういう説明をするとき、なぜ相手に思う点が通じないのかといえば、説明を受けた人間が、その説明を聞いて、自分はどう思ったのかリアクションがないからだ。 「えーそうやっていうけど、こういうとき普通こうおもわない?」 普通説明する人は、そういったリアクションを見て「あぁそう言う意味ではないんです、実はこういう意味です」というようなことをいって、伝わり方の修正を行う。

そして、普通、日本人以外の人は、これを当たり前のようにやるのだ。 しかし、日本人だけがこれをやらない。 だから通じないのだ。 日本人だって、これをやりさえすれば、通じるのだが、相手の意見に異論を唱えることは失礼とされているので、ほとんどの場合やらない。

日本人はそういう矛盾と孤独の中で苦しみながら、まるで、いつか王子様が来るということを信じる少女のように、「どこかに自分のことを100%理解できる人がいるに違いない」って思うに至る。

しかし、こっけいなのが、「どこかに自分のことを100%理解できる人がいるに違いない」って思っている人ですら、人の説明を聞いて自分がどう思ったのかリアクションとして反応しない。 だから、その人自身、他人に「理解できない人だ」と感じさせてしまっている。

これは、日本人が持っている、強烈な矛盾だと思う。

これが最初にあげたふたつの間違いの、ひとつめの間違いだ。


ふたつめは、理解してもらうことは必要じゃない、ということだ。 理解されないから苦しくて必死になって理解を求めるわけだけど、この問題の根源は、理解してもらえないことではなく、そもそも「受け入れられてない」ということから来ている。

「親がいねぇ? 孤独? なんだ? 俺はバカで、そんな難しいことはわからん。 だが、とりあえず、飯食ってけ。 そこに味噌汁もあるぞ。 サバの味噌煮作っといたからな。 なんだかわからねぇが、とりあえず腹が減っては何もできねぇからな。 またいつでも来い。」

受け入れられていれば、説明の必要なんかない。

だけど、日本というのは、実にストライクゾーンが狭いというか、ちょっとの違いが受け入れられなくなってしまう原因となる。

ちょっとの違いが原因で、受け入れてもらえない=仕事がなくなったり、敬遠されたり、部屋が見つからなかったり、学校に行けなくなったり、する。

これも日本人の精神構造が持っている極めて難しい問題のひとつだと思う。



僕は、目覚めよ、日本人! ってしょっちゅう思う。
どうにかならんか。
コメント一覧
カオソーイ   2009年03月07日 19:35
日本人は、日本人がすべて同質という誤った神話的前提に未だに立っている気がします。

関東大震災の時に、自警団が(公安の流した朝鮮人が井戸に毒を流しているというデマを信じて)街角で朝鮮人を識別するために「ガギグゲゴ」といって見ろと不審者をチェックしていて、なまりのために「ガギグゲゴ」がうまく言えない東北出身者で朝鮮人と間違えられて虐殺されて人もいたようです。

清水ガレージ   2009年03月07日 23:26
すごくわかります。

僕は、その対象を完全に理解する事よりも、受け入れる事よりも、まずは「勝手に傾きをつけずにそのまま認める、受け入れる努力をする」事を心掛けています。
とても難しい事ですけど。。。

勉強になりました!
矢本   2009年03月08日 00:35
「親がいねぇ? 孤独? なんだ? 俺はバカで、そんな難しいことはわからん。 だが、とりあえず、飯食ってけ。 そこに味噌汁もあるぞ。 サバの味噌煮作っといたからな。 なんだかわからねぇが、とりあえず腹が減っては何もできねぇからな。 またいつでも来い。」

ああ、このセンテンスはいいなあ……。
これに集約されているなあ。

そう、「ここに自分がいることを
ただの事実として受け止めてもらう」だけでは
なぜか満足できない人の
なんと多いことでしょう。


ジャコビ   2009年03月08日 12:03
私と、アメリカ人である私の夫と比べてみてしょっちゅう思う事があります。私の方がおそらく色々な面で上だと思う(二カ国語が喋れるし、順応性も高いし、整理整頓も夫よりは上手)のですが、夫にあって私にない決定的なものがあります。夫には、「自分は自分で、他の何者でもない。間違っている事もあるかもしれないけれど、それは悪い事ではない。気づいたら直せば良い。」という感じの自信というのか、開き直りというのか、あまり日本人には見かけない自己肯定があります。

私も、ニューヨークにこそ住んでいて、他の日本人よりは自我が強いのですが、それでも、
"What do you think of that new movie?" (someone)
"I didn't like it." (me)
"Really? I thought it was fantastic!" (someone)
"Well, it was fantastic, but I wish the movie was too long." (me)
という感じで、自分の意見を言うのをためらい、自分の意見を否定されると、自分が間違っているような錯覚に陥って、自分の意見を説明せずにすぐに引っ込めたり、完全に引っ込めなくても相手の意向に沿うように変えてしまう事がよくありました(最近は、私も年季が入って来たせいか、臆せずに物を言えるようになりましたが)。これは、相手に受け入れられたいという願望なのだろうと思います。でも、自分の思ってもいない事を相手に合わせる為に言ってしまったような時には、後で落ち込みました。

私が思ったのは、子供の育てかたの違いです。日本人の美徳に卑下するというのがあるのですが、日本人の親は他人の前で自分の子供を卑下する習慣があるように思えます。子供は単純なので、親が「ウチの子はもうどうしようもなくて… 全然ダメなんですよ。」といつも他人に言っているのを聞くと、本当に自分はダメなんだと思ってしまいます。少なくとも、私はそうでした。親が私に大して愛情を持って育ててくれた事に何の疑問もないけれど、私は親からかけられた「お前はダメな人間だ」という呪縛から解放されるのに、実に長い年月を費やしました。
おかあつ   2009年03月09日 12:18
# そうだ ... 日本人には「離乳食」が無いんだ...。

コメント、確かにいただきました。 大きなヒントになりました。
頭の中で暖めてみたいと思います。 まとまったら、返事を書かせてください。

コメントありがとうございます。
 
出展 2009年03月07日17:17 『自分のことを100%理解できる人が存在する、ということを仮定する』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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