鏡とであった反骨精神 (UPDATE6)
2009年03月09日16:57
最近知り合った日本語がベラベラのタイ人と話していると、うまく言葉で言い表せないのだが、まるで自分を見ているような気がする。 なぜだか考えてみた。 それは、タイ人であるその子は重度の日本オタクで、日本に関して知りえるすべてのものを自分のものとして消化しようとしているのだが、そんなところが、日本人である僕が、重度のアメリカオタクで、アメリカに関して知りえるすべてのものを自分のものとして消化しようとしているところと、まったく同じだからだ。 他にもたくさん似ていることがある。
その子は、自分がタイ人であることに強い嫌悪感を持っており、この点も僕と似ている。 僕も、自分自身が日本人であることに非常に強い嫌悪感を持っているからだ。
その子は極めて都会的な子だ。 街の遊びや街の文化が好きなのだ。 アーバンライフの中で生まれ、アーバンライフの中で育っているようなところがある。 ダンスが好きで、オーディションで合格して人前で踊ることを目指している。 僕はジャズを演奏しており、人前で演奏することを目指しており、この点も僕ととても似ている。
そして、ひとたび、やると決めたら最後まで徹底的にやると心に誓うところがある。 この点も僕と極めて似ているのだった。
で、徹底的にやりすぎて、自分の国の平均レベルを大きく逸脱してしまっている。 自国の平均レベルを大きく逸脱してしまうと、自分の国から、受け入れられるどころか、煙たがられてしまうのだが、 その子も、こうして自分の国の居場所をなくしてしまっている。 この点も、とても僕と似ている。
自国から受け入れられない、ということには説明が必要だろう。 つまり、この子の日本語は、非常に自然で、ちょっと日本語がしゃべれるというレベルではないのだ。 普通に自分の言葉としてしゃべっている。 こうなると語学は「一発芸」として成立しなくなってしまうのだ。 たとえばタイに帰ったとき、こういう風に日本語が話せることを自慢したいものだ。 「ちょっと日本語しゃべってみてよ!」 「はーい!こんにちは!」 「(一同)おー!」 ところが、あまりにも日本語がうますぎると、このように他愛もない芸として成立しなくなってしまうのだ。 つまり 「ちょっと日本語しゃべってみてよ!」 「どーもー! ナニワの商人どすぇ! へぇ! てやんでぇ! こちとら江戸っ子でぇ!すしくいねぇ!」 「(一同) ...(まったくワケがわからずひきまくり)」 という風になってしまう。
こういう「やりすぎ」は、僕も経験があり、この点も僕と似ている。
その子のレベルは、はっきりいってものすごく高い。 だが、これだけレベルが高いと自国に帰っても周りがついてこない。 その子は、まるで日本人みたいで、日本人丸出しの日本人がタイに行くと浮きまくりになってしまうのと同じように、タイで浮きまくりになってしまう。 しかもその子は見かけは100%タイ人なので、外人扱いもしてもらえない。 日本人のように不手際を許してもらえないのだ。 これは、相当厳しい状況だ。
この点も、僕とかなり似ている。 僕は考え方が非常に日本人っぽくないところがある。 ところが、僕は見かけは100%日本人であり、外人の様に不手際を許してもらえない。
そして、その子は日本で、あるオーディションを受けようとした。 だけど、そのオーディションには、極めて人種差別的な制約があった。 「○○歳未満の日本国籍を持つ者」と明記されていたのだ。 この制約はかなり差別的ではないかと思う。 だが、そうなっていたんだそうだ。 こうしてその子はダンサーとしての人生をあきらめた。 そのような理由で、その子は、自分がタイ人であることを呪っている。
そして、それは、僕が、僕が言うようなことがアメリカでは常識なのに日本にいる限りまったく受け入れてもらえず、僕が日本人でさえなければこんなに苦労しなかったのに、と考えていることや、僕が、自立を重んじるアメリカに住んでさえいれば自力で大学を卒業できたはずなのに、と考え、自分が日本人であることを呪っている僕と極めて似ていると感じる。
その子は言った。 「タイ人はタイの高くてボロボロの携帯を使って喜んでいる。バカみたいだ。 日本の携帯なんてタイの携帯の10倍以上進んでいる。 それなのに、タイ人は、高いお金を出して、低機能な携帯を使って喜んでいる。」という。 そうだろうか、と僕は思った。 僕は、タイには、日本と違ってまだ精神主義が残っており、日本よりよほどよい、と思っていたからだ。 僕は、物質主義は嫌いだ。 しかし、僕は思った。 もし僕がタイ人だったら、本当に物質主義が嫌いだと断言できるだろうか。
出来ない。
僕はここに、物質主義と精神主義の間の溝を見た。
僕は今日、渋谷に行って、楽器屋に入った。 中華系タイ人が経営するバンコクの楽器屋に慣れてしまった僕には、眩しすぎるほどの素晴らしい品揃えだった。 しかも品揃えが極めて厳選されツボをついており、間違いがない。 タイの見せ掛けだけかっこよいだけの使う人の気持ちをまったく考えていないラインナップとは一線を画しており、しかも値段はタイより安い場合が多い。 しかもタイの楽器屋は、アフターサービスが悪い場合が多く、高額な商品を買う際は常にリスクが伴う。 こういうことはタイには望むべくもない。
僕はこの自分に必要な物を買うことが出来る最高の販売経路にアクセスを持っている。 もし僕がこれにアクセスを持っていなかったら、僕は今の文化活動レベルをきちんと保つことが出来るだろうか。 その子はタイ人であり、タイでは、知的活動に必要な上質な道具を買うことは出来ない。 自分に必要なものを持っておらず、足かせとなっている。
視点を変える。
僕はしばらくアメリカにいたことがある。 僕はアメリカ人の音楽(ジャズ)に対するスタイルが好きだ。 その辺の公園でブラスバンドが演奏している。 そんなアマチュアですら、とてもレベルが高くて、自然な演奏をする。 というか、彼らアメリカ人にとって、ジャズとは日本人のラーメンのように当たり前な存在なのだ。 日本人がカップラーメンを作ろうが家系ラーメンをつくろうが、どれも本物のラーメンとして成立しているのと同じように、彼らアメリカ人は素人が演奏しようが、玄人が演奏しようが、本物のジャズとして成立している。
日本人のジャズというのは、どうしても、中国人が作る寿司のように、がんばって作っている感じがする。 上手でも下手でも寿司は寿司、という貫禄がない。 タイ人が作るとんこつラーメンの様においしくないのだ。
しかし、ここに問題がある。 日本で、本物のジャズを演奏しようとすると、まるで外国語を話しているように聴衆に感情がとどかなくなってしまう。 東京であまりにもリアルすぎるタイ料理屋を開いてしまうとまったく流行らなくなってしまうので、仕方なく和風に味をアレンジしなければならないのと同じように、ジャズも日本人が聞きやすいように毒を抜いてアレンジしないと、いまいち流行らないのだ。
僕はそういう日本が歯がゆくて仕方がない。 僕はそういう日本が足手まといだと感じている。そして、そのタイ人の友達は、まさに、僕が日本人に対して歯がゆいと思っているのと同じように、タイ人が歯がゆいのだ。 タイという国を足手まといに感じているのだ。
僕はその子を否定できるだろうか。 否定できないと感じる。
僕は日本人で、しかも東京育ちであり、たった210円の交通費を払うだけで、最新流行の発祥地であるこの渋谷に行くことが出来た。 だからこそ、僕は小学生のころから渋谷をうろついていたし、だからこそ、小学生のころから、渋谷の最新の楽器を売る楽器屋や最新パソコン屋を売るパソコン屋に入り浸ることが出来たのだ。
僕は欲しいものをすべて手に入れてしまったからこそ、タイにいても不足無く生活することができる。 僕は欲しいものをすべて手に入れてしまったからこそ、物質主義を離れて物を考えることが出来る。 そんな僕には物質主義を否定する権利は無い。
僕はその子を否定できない。
◇
僕は思う。
近代的・西洋的合理と、農業的・東洋的人情の間には、谷がある。
合理と人情の間には、中間が無い。 混ざるといろいろな厄介なことが発生する。
東洋の人間が近代的な合理の世界を取り込もうとすると、たくさんの捨てなければいけないものが発生する。 合理を求めつつ、人情を持ち続けるのは、有害でしかない。 しかし、人情の世界から、合理に完全に移行することは難しく、どうしても中間的な存在のものが残り続ける。 また弊害もたくさん生まれる。
日本は実に精神的な幸せさの少ない国だと僕は思うけど、ある意味、アジアの中で最強であることを選んだ日本の宿命なんじゃないかと思うことがある。 最強であるためにあらゆるものを捨ててきた。 それは家族や、時間的ゆとり、和の心、優しさ、落ち着き、気遣いの心などの、アジア的な文化だったのではないだろうか。 最強であるがために、最強になることに不要なあらゆるものを振り落としてきた。 しかし、そんなアジア最強でアジアの最先端を突き進む日本であっても、いろいろな不合理が残っている。
例えば、競争が働かず能力が低い人が依然として組織の上層に居座りやすくなっていたり、とても不合理な理由で差別されたり、自立した人間が敬遠されがちであったり、人格が無視されがちであったり、正直に思ったことを言うと討論する前に排除されがちであったり、物事を論理的に説明することが悪いこととみなされることが多かったり、思考力よりも知識量を重んじたり、創造性を排除しがちだったり、新しいことにチャレンジすることにまつわる失敗を一切許さなかったりする。
僕は物質主義に染まっておらず精神的な文化が今でも色濃く残っているタイ人が好きだ。 だけど、正直タイ人でもバンコク人はあまり好きでない。 中途半端に都会的で、あまり知的でなく、拝金主義的で、話していて面白くない。 また、非常によそよそしく、日本人が一般的にタイ人に感じているようなタイ人のよさであるフレンドリーさは持ってない。 ある意味、東京人と似てる。
人情と合理の中間は無いのだ。 東京人もバンコク人もこの谷の中にいる。
しかし、少なくとも、東京人はバンコク人よりずっとファッショナブルで、バンコク人よりずっと創造性に富んでいる。 しかし、東京人もまだまだだと思うことがたくさんある。 それは、アメリカが持っているような、自由の精神や多様性に対する包容力であるような気もする。
合理と人情を両立する方法はあるのだろうか。
わからない。
その子は、自分がタイ人であることに強い嫌悪感を持っており、この点も僕と似ている。 僕も、自分自身が日本人であることに非常に強い嫌悪感を持っているからだ。
その子は極めて都会的な子だ。 街の遊びや街の文化が好きなのだ。 アーバンライフの中で生まれ、アーバンライフの中で育っているようなところがある。 ダンスが好きで、オーディションで合格して人前で踊ることを目指している。 僕はジャズを演奏しており、人前で演奏することを目指しており、この点も僕ととても似ている。
そして、ひとたび、やると決めたら最後まで徹底的にやると心に誓うところがある。 この点も僕と極めて似ているのだった。
で、徹底的にやりすぎて、自分の国の平均レベルを大きく逸脱してしまっている。 自国の平均レベルを大きく逸脱してしまうと、自分の国から、受け入れられるどころか、煙たがられてしまうのだが、 その子も、こうして自分の国の居場所をなくしてしまっている。 この点も、とても僕と似ている。
自国から受け入れられない、ということには説明が必要だろう。 つまり、この子の日本語は、非常に自然で、ちょっと日本語がしゃべれるというレベルではないのだ。 普通に自分の言葉としてしゃべっている。 こうなると語学は「一発芸」として成立しなくなってしまうのだ。 たとえばタイに帰ったとき、こういう風に日本語が話せることを自慢したいものだ。 「ちょっと日本語しゃべってみてよ!」 「はーい!こんにちは!」 「(一同)おー!」 ところが、あまりにも日本語がうますぎると、このように他愛もない芸として成立しなくなってしまうのだ。 つまり 「ちょっと日本語しゃべってみてよ!」 「どーもー! ナニワの商人どすぇ! へぇ! てやんでぇ! こちとら江戸っ子でぇ!すしくいねぇ!」 「(一同) ...(まったくワケがわからずひきまくり)」 という風になってしまう。
こういう「やりすぎ」は、僕も経験があり、この点も僕と似ている。
その子のレベルは、はっきりいってものすごく高い。 だが、これだけレベルが高いと自国に帰っても周りがついてこない。 その子は、まるで日本人みたいで、日本人丸出しの日本人がタイに行くと浮きまくりになってしまうのと同じように、タイで浮きまくりになってしまう。 しかもその子は見かけは100%タイ人なので、外人扱いもしてもらえない。 日本人のように不手際を許してもらえないのだ。 これは、相当厳しい状況だ。
この点も、僕とかなり似ている。 僕は考え方が非常に日本人っぽくないところがある。 ところが、僕は見かけは100%日本人であり、外人の様に不手際を許してもらえない。
そして、その子は日本で、あるオーディションを受けようとした。 だけど、そのオーディションには、極めて人種差別的な制約があった。 「○○歳未満の日本国籍を持つ者」と明記されていたのだ。 この制約はかなり差別的ではないかと思う。 だが、そうなっていたんだそうだ。 こうしてその子はダンサーとしての人生をあきらめた。 そのような理由で、その子は、自分がタイ人であることを呪っている。
そして、それは、僕が、僕が言うようなことがアメリカでは常識なのに日本にいる限りまったく受け入れてもらえず、僕が日本人でさえなければこんなに苦労しなかったのに、と考えていることや、僕が、自立を重んじるアメリカに住んでさえいれば自力で大学を卒業できたはずなのに、と考え、自分が日本人であることを呪っている僕と極めて似ていると感じる。
その子は言った。 「タイ人はタイの高くてボロボロの携帯を使って喜んでいる。バカみたいだ。 日本の携帯なんてタイの携帯の10倍以上進んでいる。 それなのに、タイ人は、高いお金を出して、低機能な携帯を使って喜んでいる。」という。 そうだろうか、と僕は思った。 僕は、タイには、日本と違ってまだ精神主義が残っており、日本よりよほどよい、と思っていたからだ。 僕は、物質主義は嫌いだ。 しかし、僕は思った。 もし僕がタイ人だったら、本当に物質主義が嫌いだと断言できるだろうか。
出来ない。
僕はここに、物質主義と精神主義の間の溝を見た。
僕は今日、渋谷に行って、楽器屋に入った。 中華系タイ人が経営するバンコクの楽器屋に慣れてしまった僕には、眩しすぎるほどの素晴らしい品揃えだった。 しかも品揃えが極めて厳選されツボをついており、間違いがない。 タイの見せ掛けだけかっこよいだけの使う人の気持ちをまったく考えていないラインナップとは一線を画しており、しかも値段はタイより安い場合が多い。 しかもタイの楽器屋は、アフターサービスが悪い場合が多く、高額な商品を買う際は常にリスクが伴う。 こういうことはタイには望むべくもない。
僕はこの自分に必要な物を買うことが出来る最高の販売経路にアクセスを持っている。 もし僕がこれにアクセスを持っていなかったら、僕は今の文化活動レベルをきちんと保つことが出来るだろうか。 その子はタイ人であり、タイでは、知的活動に必要な上質な道具を買うことは出来ない。 自分に必要なものを持っておらず、足かせとなっている。
視点を変える。
僕はしばらくアメリカにいたことがある。 僕はアメリカ人の音楽(ジャズ)に対するスタイルが好きだ。 その辺の公園でブラスバンドが演奏している。 そんなアマチュアですら、とてもレベルが高くて、自然な演奏をする。 というか、彼らアメリカ人にとって、ジャズとは日本人のラーメンのように当たり前な存在なのだ。 日本人がカップラーメンを作ろうが家系ラーメンをつくろうが、どれも本物のラーメンとして成立しているのと同じように、彼らアメリカ人は素人が演奏しようが、玄人が演奏しようが、本物のジャズとして成立している。
日本人のジャズというのは、どうしても、中国人が作る寿司のように、がんばって作っている感じがする。 上手でも下手でも寿司は寿司、という貫禄がない。 タイ人が作るとんこつラーメンの様においしくないのだ。
しかし、ここに問題がある。 日本で、本物のジャズを演奏しようとすると、まるで外国語を話しているように聴衆に感情がとどかなくなってしまう。 東京であまりにもリアルすぎるタイ料理屋を開いてしまうとまったく流行らなくなってしまうので、仕方なく和風に味をアレンジしなければならないのと同じように、ジャズも日本人が聞きやすいように毒を抜いてアレンジしないと、いまいち流行らないのだ。
僕はそういう日本が歯がゆくて仕方がない。 僕はそういう日本が足手まといだと感じている。そして、そのタイ人の友達は、まさに、僕が日本人に対して歯がゆいと思っているのと同じように、タイ人が歯がゆいのだ。 タイという国を足手まといに感じているのだ。
僕はその子を否定できるだろうか。 否定できないと感じる。
僕は日本人で、しかも東京育ちであり、たった210円の交通費を払うだけで、最新流行の発祥地であるこの渋谷に行くことが出来た。 だからこそ、僕は小学生のころから渋谷をうろついていたし、だからこそ、小学生のころから、渋谷の最新の楽器を売る楽器屋や最新パソコン屋を売るパソコン屋に入り浸ることが出来たのだ。
僕は欲しいものをすべて手に入れてしまったからこそ、タイにいても不足無く生活することができる。 僕は欲しいものをすべて手に入れてしまったからこそ、物質主義を離れて物を考えることが出来る。 そんな僕には物質主義を否定する権利は無い。
僕はその子を否定できない。
◇
僕は思う。
近代的・西洋的合理と、農業的・東洋的人情の間には、谷がある。
合理と人情の間には、中間が無い。 混ざるといろいろな厄介なことが発生する。
東洋の人間が近代的な合理の世界を取り込もうとすると、たくさんの捨てなければいけないものが発生する。 合理を求めつつ、人情を持ち続けるのは、有害でしかない。 しかし、人情の世界から、合理に完全に移行することは難しく、どうしても中間的な存在のものが残り続ける。 また弊害もたくさん生まれる。
日本は実に精神的な幸せさの少ない国だと僕は思うけど、ある意味、アジアの中で最強であることを選んだ日本の宿命なんじゃないかと思うことがある。 最強であるためにあらゆるものを捨ててきた。 それは家族や、時間的ゆとり、和の心、優しさ、落ち着き、気遣いの心などの、アジア的な文化だったのではないだろうか。 最強であるがために、最強になることに不要なあらゆるものを振り落としてきた。 しかし、そんなアジア最強でアジアの最先端を突き進む日本であっても、いろいろな不合理が残っている。
例えば、競争が働かず能力が低い人が依然として組織の上層に居座りやすくなっていたり、とても不合理な理由で差別されたり、自立した人間が敬遠されがちであったり、人格が無視されがちであったり、正直に思ったことを言うと討論する前に排除されがちであったり、物事を論理的に説明することが悪いこととみなされることが多かったり、思考力よりも知識量を重んじたり、創造性を排除しがちだったり、新しいことにチャレンジすることにまつわる失敗を一切許さなかったりする。
僕は物質主義に染まっておらず精神的な文化が今でも色濃く残っているタイ人が好きだ。 だけど、正直タイ人でもバンコク人はあまり好きでない。 中途半端に都会的で、あまり知的でなく、拝金主義的で、話していて面白くない。 また、非常によそよそしく、日本人が一般的にタイ人に感じているようなタイ人のよさであるフレンドリーさは持ってない。 ある意味、東京人と似てる。
人情と合理の中間は無いのだ。 東京人もバンコク人もこの谷の中にいる。
しかし、少なくとも、東京人はバンコク人よりずっとファッショナブルで、バンコク人よりずっと創造性に富んでいる。 しかし、東京人もまだまだだと思うことがたくさんある。 それは、アメリカが持っているような、自由の精神や多様性に対する包容力であるような気もする。
合理と人情を両立する方法はあるのだろうか。
わからない。
コメント一覧
クレ 2009年03月09日 22:31
私は普通の日本人ですが、変な人が好きなのでw、おかあつさんがおもしろいですけれどねえ。リアルおかあつさんを知りませんので、ほんとのことはわかりませんが。まあ、帰国子女で日本的感覚を完全にもっていない人の中には、日本人に疎まれやすいタイプがいるのはわかります。
おかあつ 2009年03月09日 22:47
>変な人が好きなのでw
変な人は、変な人が好きなものです
変な人は、変な人が好きなものです