今日の出来事 サブウェイ編
2009年02月04日07:21
前、みゃうさんとムリさんでバンコク都内のナナ駅にあるサブウェイというサンドイッチ屋に行ったことがあった。 ちょうどタイ東北地方の音楽であるモーラムという音楽の有名な楽器・ケーンを吹くムリさんと、モーラムマニアであるみゃうさんがであったということで、モーラムの話をずっとしていた。
◇
僕は正直、モーラムは好きだけど、決して詳しくない。 だけど、僕はそれを恥じていないし、むしろ知らないほうが自然だと思う。 東北人だってそんなに詳しくないし、詳しくないほうが自然だ。 だけど、これが面白いのだけど、みんな詳しくなくても歌うことぐらいはできるのだ。
この「詳しくなくても歌うことぐらいはできる」ということ、これがまさに「ソウル音楽」の特徴だ。
こういう音楽というのはうまいへたというのは、関係ない。 その音楽を理解するひとであれば誰でも歌える。 誰が歌っても「本物」の音楽になる。 おばあちゃんが歌っても子供が歌っても、金持ちが歌ってもこじきが歌っても、同じ音楽になる。 じょうずへたの違いはあれ、かならず本物の響きがする。 音程が狂ったり、間違えたりすることはあっても、必ず「本物」と同じ響きがする。
黒人音楽のソウルやジャズが黒人の民族音楽のひとつの形態であるのと同じように、モーラムも東北地方にある民族音楽のひとつの形態だ。 こういう民族音楽は、必ずある本質を持っていて、それが西洋音楽に影響を受けようがロックに影響を受けようが楽器が変わろうが変わるまいがまったく無関係に、必ず「本物」の音楽の響きがする。
僕は、ゴスペルもラップもジャズもソウルも好きだけど、これらの音楽の基本は同じだ。 形は違えども、基本にあるのは常に黒人音楽で、この響きがあれば常にあの不思議なスイング感とでもいうような、黒人音楽の独特なスリルを与える。 この感覚がもっとも大切なことで、この感覚さえあれば、あとは何でもいいのだ。
僕は以前、アメリカの黒人街でバスに乗ったときの出来ごとが忘れられない。 それは、そこらへんの子供だった。 そこらへんの子供がバスの後ろに乗って二人でラップを歌ってる。 片方がドラム役で片方がボーカル役。 口で「ブン・チッブンブブンチッ」って言っているだけなのに、黒人音楽の響きがする。 それにボーカルが乗ってフローしている。 人に見せるためでもなく誰に聞かせるでもなく子供がふざけて遊んでいるだけなのに、きちんとサウンドしている。 これが本物の音楽だ。 それはうまいかへたか、難しいか簡単かという問題とは関係なく、その感覚を理解しているかいないかの問題なのだ。
むしろこの感覚をいかにしてつかむのかが大切だと僕は思う。 じっさい、この感覚はとても実用的ですらある。 少しでもその感覚をつかむと、その音楽をしている人と出会ったとき、パッと何かが「通じる」感じがする。 その感覚を持っている人同士がであうと、同じ言葉を話す同士が出会ったとき言葉が通じるのと同じように、何かが通じる。
僕が日本で音楽をやっていていつも気が狂いそうになるのが、日本人って常に人に見せるために音楽をやっていることだ。 本当は音楽とはそういうものであるべきではない。 あるべきでないはずなのに、日本人は人に見せる意識が欠けた音楽を拒否する。 人に見せるためにやるような媚びた音楽は面白くないのだ。 ところが日本人は媚びられることに慣れているので、みんな喜んで媚びさせる。 そんな甘口な音楽に慣れすぎている。
音楽って本当はもっと辛口なものだ。
◇
前置きが長くなったけど、ここで話を元に戻す。 ムリさんとみゃうさんとサブウェイにしけこんだあと、延々とモーラムのウンチク話が尽きなくて、僕は正直実を言うと結構飽きていた。 それで、この「飽き」の原因がどこから来るのかをどうやって説明したらいいか、考えあぐねていた。 というのも、実は、この「音楽のウンチク話」っていうものは、実は本業でミュージシャンをやっている人にとっては、苛立たしい物のナンバーワンでもある。 何故苛立たしいのか。 それはうまくいえない。 うまくいえないが、ミュージシャンと関わったことがある人ならば、ウンチクがミュージシャンをいらだたせるということは、多かれ少なかれ常識的に知っている。 (ジャズの世界だけかもしれないが) 僕はこういうウンチク話のせいで何度も怒鳴られたことがあるし、自分が怒鳴ったことすら何度もある。 なんともいえない不愉快な物なのだ。 だけど、ふたりとも本業でミュージシャンをやったことがあるわけではないので、そういう言い方をしても絶対に理解できない。 理解することを期待するのはちょっと酷だと思った。
で、ふと見たら、そこのサブウェイの店員さんがサンドイッチを作りながらモーラムを口ずさんでいるのが聞こえたのだ。 これだ。 これがまさに、本物の音楽なのだ。 その辺の店員さんですら、こうやってモーラムを歌うことができる。 そして、さりげなく、小さい声でありながら、本物だけが持つ濃い雰囲気を放っている。 これが本物の音楽の証なのだ。 うまいかへたくそかは関係ないのだ。
で、ふとおもいついて、みゃうさんに「たとえば、そこにいる店員さんが今モーラム歌っていたことに気がつきました?」っていってみたのだ。 続けて「こうやってあたりのあんちゃんですらモーラムを歌うことができる、モーラムっていうのはどこにでもあるものなんです。 うまいへたの違いはあれ、誰が歌ってもモーラムなんです。 モーラムをたくさん知ることよりも、そのことを理解することが大切なんです。」って言ってみたのだ。
====================================
実は、このサブウェイは行きつけなので、僕はしょっちゅう行く。 行くたび、例のモーラムを口ずさんでいた店員を見かける。 見る回数を重ねるにつれ、この店員が只者でないことを徐々に確信していった。 なんというか、妙にリズムがいい。 仕事をしながら、机をたたいてそれを伴奏にしながら歌を歌ったりする。 そのリズムが妙にスイングしているのだ。 ほかにも歌の覚えが妙に早いところとか、ギャグを言うタイミングが絶妙に面白いところとか、これは只者じゃないな、という印象を強めていた。
今日もまた行ってきたのだけど、なんか驚くことに、今日いきなりその店員が話しかけてきたのだ。 いつも来てこの席座ってますよねーとか言われて、タイ語がうまい! グッドグッドーとか言われて、想像通り、ノリがいい人だった。
しばらく世間話をしたあとで、ちょっと思い切って僕の予想が正しかったかどうか聞いてみた。 「ひょっとして音楽やってませんか?」 そうしたら、「何でわかったんですか?」って聞きかえされた。 そこで、「その机のたたき方が普通とぜんぜん違う」って言った。
そうしたら、その店員さん、「俺、ドラマーなんですよ。」といった。 しばらく本職で活動していたらしい。 道理で音がいいはずだ。 競演したことがあるミュージシャンをいろいろ教えてもらった。 ちょっとビビったのが、あのタイの有名バンド「ローソー」と一緒に演奏してた、という話だ。 これはちょっと尋常じゃない。 やっぱり只者じゃなかった。
でも、なかなか食えなくて、こうやってサブウェイでバイトをしているんだそうだ。 今じゃ、なかなか演奏する機会がない、という話で、なんとももったいないことだ、と思った。
ずいぶん長い間世間話をして帰ってきた。
帰り、また夜行バスで帰ってきた。 夜行バスはちょっと使うのが難しくて、前回そばにいるおばさんに話を聞いて教えてもらって、帰ってきたのだった。 だからまたバスで帰ろうかなと思ったのだった。 バス停に行ったらびっくりすることに、前回話をしたおばさんとまた出くわした。
バンコクって世間が狭い。
◇
僕は正直、モーラムは好きだけど、決して詳しくない。 だけど、僕はそれを恥じていないし、むしろ知らないほうが自然だと思う。 東北人だってそんなに詳しくないし、詳しくないほうが自然だ。 だけど、これが面白いのだけど、みんな詳しくなくても歌うことぐらいはできるのだ。
この「詳しくなくても歌うことぐらいはできる」ということ、これがまさに「ソウル音楽」の特徴だ。
こういう音楽というのはうまいへたというのは、関係ない。 その音楽を理解するひとであれば誰でも歌える。 誰が歌っても「本物」の音楽になる。 おばあちゃんが歌っても子供が歌っても、金持ちが歌ってもこじきが歌っても、同じ音楽になる。 じょうずへたの違いはあれ、かならず本物の響きがする。 音程が狂ったり、間違えたりすることはあっても、必ず「本物」と同じ響きがする。
黒人音楽のソウルやジャズが黒人の民族音楽のひとつの形態であるのと同じように、モーラムも東北地方にある民族音楽のひとつの形態だ。 こういう民族音楽は、必ずある本質を持っていて、それが西洋音楽に影響を受けようがロックに影響を受けようが楽器が変わろうが変わるまいがまったく無関係に、必ず「本物」の音楽の響きがする。
僕は、ゴスペルもラップもジャズもソウルも好きだけど、これらの音楽の基本は同じだ。 形は違えども、基本にあるのは常に黒人音楽で、この響きがあれば常にあの不思議なスイング感とでもいうような、黒人音楽の独特なスリルを与える。 この感覚がもっとも大切なことで、この感覚さえあれば、あとは何でもいいのだ。
僕は以前、アメリカの黒人街でバスに乗ったときの出来ごとが忘れられない。 それは、そこらへんの子供だった。 そこらへんの子供がバスの後ろに乗って二人でラップを歌ってる。 片方がドラム役で片方がボーカル役。 口で「ブン・チッブンブブンチッ」って言っているだけなのに、黒人音楽の響きがする。 それにボーカルが乗ってフローしている。 人に見せるためでもなく誰に聞かせるでもなく子供がふざけて遊んでいるだけなのに、きちんとサウンドしている。 これが本物の音楽だ。 それはうまいかへたか、難しいか簡単かという問題とは関係なく、その感覚を理解しているかいないかの問題なのだ。
むしろこの感覚をいかにしてつかむのかが大切だと僕は思う。 じっさい、この感覚はとても実用的ですらある。 少しでもその感覚をつかむと、その音楽をしている人と出会ったとき、パッと何かが「通じる」感じがする。 その感覚を持っている人同士がであうと、同じ言葉を話す同士が出会ったとき言葉が通じるのと同じように、何かが通じる。
僕が日本で音楽をやっていていつも気が狂いそうになるのが、日本人って常に人に見せるために音楽をやっていることだ。 本当は音楽とはそういうものであるべきではない。 あるべきでないはずなのに、日本人は人に見せる意識が欠けた音楽を拒否する。 人に見せるためにやるような媚びた音楽は面白くないのだ。 ところが日本人は媚びられることに慣れているので、みんな喜んで媚びさせる。 そんな甘口な音楽に慣れすぎている。
音楽って本当はもっと辛口なものだ。
◇
前置きが長くなったけど、ここで話を元に戻す。 ムリさんとみゃうさんとサブウェイにしけこんだあと、延々とモーラムのウンチク話が尽きなくて、僕は正直実を言うと結構飽きていた。 それで、この「飽き」の原因がどこから来るのかをどうやって説明したらいいか、考えあぐねていた。 というのも、実は、この「音楽のウンチク話」っていうものは、実は本業でミュージシャンをやっている人にとっては、苛立たしい物のナンバーワンでもある。 何故苛立たしいのか。 それはうまくいえない。 うまくいえないが、ミュージシャンと関わったことがある人ならば、ウンチクがミュージシャンをいらだたせるということは、多かれ少なかれ常識的に知っている。 (ジャズの世界だけかもしれないが) 僕はこういうウンチク話のせいで何度も怒鳴られたことがあるし、自分が怒鳴ったことすら何度もある。 なんともいえない不愉快な物なのだ。 だけど、ふたりとも本業でミュージシャンをやったことがあるわけではないので、そういう言い方をしても絶対に理解できない。 理解することを期待するのはちょっと酷だと思った。
で、ふと見たら、そこのサブウェイの店員さんがサンドイッチを作りながらモーラムを口ずさんでいるのが聞こえたのだ。 これだ。 これがまさに、本物の音楽なのだ。 その辺の店員さんですら、こうやってモーラムを歌うことができる。 そして、さりげなく、小さい声でありながら、本物だけが持つ濃い雰囲気を放っている。 これが本物の音楽の証なのだ。 うまいかへたくそかは関係ないのだ。
で、ふとおもいついて、みゃうさんに「たとえば、そこにいる店員さんが今モーラム歌っていたことに気がつきました?」っていってみたのだ。 続けて「こうやってあたりのあんちゃんですらモーラムを歌うことができる、モーラムっていうのはどこにでもあるものなんです。 うまいへたの違いはあれ、誰が歌ってもモーラムなんです。 モーラムをたくさん知ることよりも、そのことを理解することが大切なんです。」って言ってみたのだ。
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実は、このサブウェイは行きつけなので、僕はしょっちゅう行く。 行くたび、例のモーラムを口ずさんでいた店員を見かける。 見る回数を重ねるにつれ、この店員が只者でないことを徐々に確信していった。 なんというか、妙にリズムがいい。 仕事をしながら、机をたたいてそれを伴奏にしながら歌を歌ったりする。 そのリズムが妙にスイングしているのだ。 ほかにも歌の覚えが妙に早いところとか、ギャグを言うタイミングが絶妙に面白いところとか、これは只者じゃないな、という印象を強めていた。
今日もまた行ってきたのだけど、なんか驚くことに、今日いきなりその店員が話しかけてきたのだ。 いつも来てこの席座ってますよねーとか言われて、タイ語がうまい! グッドグッドーとか言われて、想像通り、ノリがいい人だった。
しばらく世間話をしたあとで、ちょっと思い切って僕の予想が正しかったかどうか聞いてみた。 「ひょっとして音楽やってませんか?」 そうしたら、「何でわかったんですか?」って聞きかえされた。 そこで、「その机のたたき方が普通とぜんぜん違う」って言った。
そうしたら、その店員さん、「俺、ドラマーなんですよ。」といった。 しばらく本職で活動していたらしい。 道理で音がいいはずだ。 競演したことがあるミュージシャンをいろいろ教えてもらった。 ちょっとビビったのが、あのタイの有名バンド「ローソー」と一緒に演奏してた、という話だ。 これはちょっと尋常じゃない。 やっぱり只者じゃなかった。
でも、なかなか食えなくて、こうやってサブウェイでバイトをしているんだそうだ。 今じゃ、なかなか演奏する機会がない、という話で、なんとももったいないことだ、と思った。
ずいぶん長い間世間話をして帰ってきた。
帰り、また夜行バスで帰ってきた。 夜行バスはちょっと使うのが難しくて、前回そばにいるおばさんに話を聞いて教えてもらって、帰ってきたのだった。 だからまたバスで帰ろうかなと思ったのだった。 バス停に行ったらびっくりすることに、前回話をしたおばさんとまた出くわした。
バンコクって世間が狭い。
コメント一覧
みゃう 2009年02月04日 12:22
ん?
薀蓄と聞こえたのなら失礼しました。
(でも「モーラムマニア呼ばわり」はご遠慮頂きたく。
そんなタグmixiでつけられたらうざイです。)
複数での初対面同士の会話仕切りの「日本的な気配り」
が欠けてたんでしょうね。
あの時はただローカルな話題で盛り上がってだけ?と
思いますが・・・なんつうか、常日頃ローカルにモーラムと
関わってるので。それに仕事柄、本当の薀蓄はみだりに公開
しないことにしてます(笑)
↓すいません、あの日このくだり極度に眠たかったせいか
全然覚えてません、それに一度も席をたたなかったので
その店員を見かける機会も無かったので・・・
ふーん、それならあの店今度行ってみよう、サブウェイ好きだし。
そもそも私は24時間音楽の中にいる生活が(というか生活の中に音楽がある)
一番しやわせということから音楽に出会って、そういうところにずっと留まって
モーラム体験してるし。最近カラシンでもそんな感じで、
どっぷり体験して、軽くヤバ目のハイになってます。
>>「たとえば、そこにいる店員さんが今モーラム歌っていたことに
気がつきました?」・・・
ま、つまるところ、二つのMは単なるおかあつ音楽論のツマですよね(笑)
私は演奏する人(音楽に限ったことではないですが)ではないけど、
ずっと目撃者としてありたい、評論とか薀蓄の側には決してたたないように
誠意細心でやってきたので(営業上もね)。
以上そこのところ、軽く私の立ち場を記してみました。
ちなみにジャズもブラック(音楽)も、というか私的には両者は
一体なんですが、あっちのほうも件の店員さんみたいに「音楽家」
だけど日々の飯の種は別にという人はたくさんいます、っていうか
そんな人たちずっと傍で見てきました。
薀蓄と聞こえたのなら失礼しました。
(でも「モーラムマニア呼ばわり」はご遠慮頂きたく。
そんなタグmixiでつけられたらうざイです。)
複数での初対面同士の会話仕切りの「日本的な気配り」
が欠けてたんでしょうね。
あの時はただローカルな話題で盛り上がってだけ?と
思いますが・・・なんつうか、常日頃ローカルにモーラムと
関わってるので。それに仕事柄、本当の薀蓄はみだりに公開
しないことにしてます(笑)
↓すいません、あの日このくだり極度に眠たかったせいか
全然覚えてません、それに一度も席をたたなかったので
その店員を見かける機会も無かったので・・・
ふーん、それならあの店今度行ってみよう、サブウェイ好きだし。
そもそも私は24時間音楽の中にいる生活が(というか生活の中に音楽がある)
一番しやわせということから音楽に出会って、そういうところにずっと留まって
モーラム体験してるし。最近カラシンでもそんな感じで、
どっぷり体験して、軽くヤバ目のハイになってます。
>>「たとえば、そこにいる店員さんが今モーラム歌っていたことに
気がつきました?」・・・
ま、つまるところ、二つのMは単なるおかあつ音楽論のツマですよね(笑)
私は演奏する人(音楽に限ったことではないですが)ではないけど、
ずっと目撃者としてありたい、評論とか薀蓄の側には決してたたないように
誠意細心でやってきたので(営業上もね)。
以上そこのところ、軽く私の立ち場を記してみました。
ちなみにジャズもブラック(音楽)も、というか私的には両者は
一体なんですが、あっちのほうも件の店員さんみたいに「音楽家」
だけど日々の飯の種は別にという人はたくさんいます、っていうか
そんな人たちずっと傍で見てきました。