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2009年1月7日水曜日

鈍感力 (mixi05-u459989-200901070552)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
鈍感力
2009年01月07日05:52
なんかの記事で鈍感力を身につけよ、とかそんなことが書かれていたのを見たことがある。 ビジネス誌か何かだったように思う。 これは要するに社会を生きるうえで、人間関係で発生する細かなトラブルに一喜一憂していると疲れてうまく行かない、ということがいいたいのだと思う。 世の中にはいろいろな人が居る。 だから、他人が怒ったり他人が不愉快に思ったりすることをいっこいっこ気にしていてはきりがない、ということだろう。 ビジネスで成功するためには、ある程度鈍感でなければいけない、という結論なのではないかと思う。

で、僕は思うんだけど、鈍感なほうがいいなんて、なんて狂った世の中なんだろうか。 感性は敏感なほうがいいに決まってる。 痛みを感じたり苦しんだりするのは、危機を察知したり、見えない価値を察知したりするために大切なことで、生きるために必要なことだ。 感覚を鋭く保つことは大切だ。 それをマヒさせて通り過ぎたほうがいいなんて、なんて変な価値観なんだろう、と僕は思う。



でも、まぁそんなものなのかなぁ、とも思う。 特に海外に居る日本人と話すとそう思うことって少なくない。 もちろん全員じゃないが、海外に居る日本人にはある決まった傾向があるように思える。 要するに、コミュニケーションがものすごいヘタクソなのだ。 自分の考えをきちんと説明したり、他人の考えをきちんと理解したりすることが、異様なほどにヘタクソだからだ。

ああ、そんなこと、いわなければいいのになぁ、ということをいってしまって人を不愉快にしたり、そんな強情張らなくてもいいのになぁという点で強情を張ったりする。 いや、強情はるのもいいんだけど、その強情をはる理由というか論点をはっきりさせるだけの日本語力をもってないので、何をいっているのかさっぱりわからない、ということも多い。

そういう中では鈍感にならないとやってられない。



タイ人やイサーン人を見ていると凄くよく思うんだけど、いつもよく人を観察してる。 見てないようで見ている。 「人の顔をうかがう」といういいかたがあるけど、特に理由がなくてもいつも人の顔をうかがっている。 こうやって観察するなかで、その人の好みとか習慣とかを探っているんだと思う。 だからか、コミュニケーションが物凄くスムーズだ。 出合って言葉を発した瞬間には、既にコミュニケーションの大半が完了している。 店の店員に「これください」っていわなくても「これ」 ぐらいいった時点ですでに伝わりおわってる。

タクシーの運転手とか極端にそういう傾向がある。 「どこどこ行ってください」って言っても返事もしない。 目も見ない。 失礼だなぁという印象すら与えるほどだ。 だけど走り始める。 でもきちんと行きたい場所につく。 そんなタクシーの運転手だけど、実は見てないようでチラッチラッとバックミラーで客の顔を見ている。 多分そうやって顔色をうかがいながら運転することで方向を伺ってるんじゃないかって思う。

ただ、こちらにもそれが要求されるということもある。 顔をよく見ていると、実はその運転手、その行き先を知らないな、とか、勘で走ってるな、とかそういうのがわかる。 そういう時は、すかさず、「あ、そこ、よくみんな間違えるんですが、ホントはこっちですよ!」 とかそういういいかたをすると、運転手の顔がパッと明るくなる。



で、そういう生活をしていて、日本人とあうと、「なんて不器用なんだろうか」と愕然とする事がある。

そういうお前はどうなんだ、と思われるかもしれない。 僕はなんというか、中卒なので、普通の日本人がやるようなことを全くしてきていないし、普通の日本人が受けるような教育をまったくまともに受けていないので、ある意味、普通の日本人とぜんぜんかけ離れてるような気がする。

それに、10代の頃から非常に厳しいジャズの先生に習っていろいろな難しい訓練を受けていたので、そういう時に得た経験と比較してしまうことが多い。 ジャズと国際コミュニケーションには通じるところがある様な気がする。 例えば、ジャズっていうのは、即興演奏なので、相手の演奏をよく聞いてすばやく反応しないといけないのだけど、これなどは国際コミュニケーションとすごく似ているところではないだろうか。

タイ人の演奏する音楽はよくいえばストレート悪くいえばとても単純なので、多くの日本のミュージシャンはタイ人をすごくバカにするのだけど、反応の速さを見ると、はっきりいって日本人はノロい。 というかそれ以前の問題として、人の音をまったく聴いていないというタイプが多い。 多くの日本人ミュージシャンは自分の音しか聞いてない。 だから反応できない。 この点、タイ人はずば抜けて優れているように思う。 とにかく反応が速い。

こういうところにも、日本人のコミュニケーション下手が出ている様な気がする。



で、たまに日本人とあうと、すごく疲れる。 なんでだろうか。

なんとなく思うんだけど、日本っていうのは、「村社会が破綻してしまった文化」なんじゃないかと思う。

僕は、村人っぽく気を使うなら、気を使っていたい。 僕はそれはそれで心地よく過ごすことができる。 気持を尊重し、相手を敬い、和を大切にする。 これはとてもよいことだ。

だけど、昨今の都市化して国際化して複雑化した社会では、なかなかそれが通用しないことが多い。みんなが主に生活しているなかで見ている世界観が「いわなくてもわかる」という範囲を大きく超えて違うものになってしまっている。 多様化してしまった世界で、みんなが「いわなくてもわかる」と思っていると、コミュニケーションは悲惨なほどにうまくいかない。

泣いても笑っても真実はひとつしかない。 それを直視するかしないか、問題はそれだけだ。 相手の気持を気遣っても真実は変わらない。 その真実を直視しない限り永遠に苦しみから解脱できない。そういう場面では、私情・情念を捨てて論理や現実に対して忠実に行動しなければいけない。 相手を気遣うことなく、本当のことだけを話さなければいけない。 相手を気遣うことなく本当のことを話す人を責めずに言葉を受け入れなければいけない。 泣いても笑っても真実はひとつしかない。 それを直視するかしないか、問題はそれだけだ。

で、僕は、それはそれで、結構楽しく愉快にストイックに徹することもできる。



で、日本人と話す時、どちらに行けばいいのか凄く迷う。 僕は正直どっちでもいい。どっちでもいいんだけど、気持を尊重して和の心に徹することにすると、いろいろなコミュニケーションの取りこぼしや矛盾があらわれてくる。 でも、それを厳密に言語化して説明しようとすると煩がられたり、失礼になったりする。




僕は、ジャズの訓練を受けていた。 この世界はとてもきびしくて、自分が自信をもってこれだ!と提示したものがもろくもくずれさっておおはじをかいたりする事なんて日常茶飯事だ。 自分の欠点と常に向き合っていかなければいけない。 そういう世界では、多少はじをかいても挫折しないような「じょうぶな自信」が必要だ。 「じょうぶな自信」があれば、自分の欠点を受けいれて、先に進むことができる。 これがいちばんたいせつなことじゃないだろうか。 こういう自信を「国際人」や「ジャズミュージシャン」は、もっていて当たり前じゃないだろうか。

でも、僕はなんとなく思うのだけど、日本人は、この「丈夫な自信」をもってない人の方が圧倒的に多い様な気がする。

西洋人はどうかというと、西洋人は「自分を知っている人」が多い様な気がする。確かに「丈夫な自信」はもってない人が多いかもしれないが、「僕、これは得意。」 「あたし、これは苦手。」 というものをはっきり知っていて、勝ち目がないものでわざわざ勝負したりしない。 それにくらべて、日本人は、こういうような自分に対する知識をもっていない人が多い。 それで、自分が苦手なジャンルで勝負を賭けたりする。 負けるとそれを受けいれることができなくて、ひたすら敵にまとわりついたりする。




なんというか、日本人は「人生を知る」という時期が来るのがとても遅い様な気がする。 他の国の人が成人するまでに知ることを、日本人は50歳とか60歳になってから知る。 他の国の人と比べると妙に幼いのだ。これは相当変なことだ。

僕が人生にまつわるシリアスなことをタイ人の20歳の子に話すとあんがい理解できたりするのに、日本人の40歳の人に話してもチンプンカンで理解されなかったりする。 ところが60歳ぐらいになればさすがに理解できたりする。

で、日本人が、こういうシリアスなことを10代後半で学んでしまったりすると、本当はこちらのほうがずっと素晴らしいことであるにもかかわらず、変人扱いされてえらい苦労させられてしまったりする。



終わり。 まとまらん。
コメント一覧
みにまゆ   2009年01月07日 14:11
明けましておめでとうございまーす!

「じょうぶな自信」、難しいところですね。
自分の意見や感情を「じょうぶな自信」によって表現するのって
特に日本社会では相手を傷つけたり不快な思いにさせてしまうことが多いので、だいたい「相手の顔色を見て」から自分の意見をちょっとずつ塗り替える。そんな作業を長年していると、自分の意見より、周りとの調和ばかり考えはじめて、コミュニケーションが気持ちよくいかなくなると、自分の主張なんてどうでもいいや、と投げやりになります。
おかあつ   2009年01月07日 14:54
あけましておめでとうございます(^-^)

>自分の主張なんてどうでもいいや、と投げやりになります。

最近、僕は自分の主張なんてどうでもいい、って思うの。

ただ、これだけはいわないと!っていうことをいわないで通過しようとする人には目を覚まして欲しいの。 最低限、挨拶が出来て、きちんと自己紹介が出来て、必要なことをいえるようになってほしい。 最低限、これだけはできないと、コミュニケーションがなりたたない。 それこそ「ハイパー和の心」だと思うのね。

「おかさんは主張が強いからなぁ」ってよく言われるけど、これだけは僕個人的な主張じゃなくて、逆立ちしても絶対にかわらない現実だとおもうの。
みにまゆ   2009年01月07日 16:56
おかあつさん主張が強いって言われるんですか?
そんな風にはまったく思わなかったけど。
主張が強いって言っている本人のほうがよほど主張が強かったりして・・ってことよくありますからね。
退会したユーザー   2009年01月07日 19:04
・否定されることは恐い。
・だから否定しない。否定される隙をつくらない。
・他人の言動に鈍感になろう(聞かないでおこう)。
・意思疎通は、ほどほどにしておこう。

これは、個人の防御本能を考えると、自然の成り行きでしょう。でも長期的にみて、社会に不利益をもたらすやり方だと思います。「自分には関係ない」と、周囲の人の多くはいいます。「でもこういう不利益を被りますよ」というと、「それは恐いね。また考えよう」(といって考えない)タイプの人や、「あなたに言われる筋合いはない」といって個人の問題にしてしまう人も。自他共にかかわる深刻な問題。そこで「私は迷惑しています」と言うと、「公私混同しないでほしい」と返される。私とて社会の構成員。譲れない。(←これは少し我が強いかな...)

個人と社会の境目って分かりにくいです。それが漠然としているから、
意見交換も成り立たないのかな、と思います。
 
出展 2009年01月07日05:52 『鈍感力』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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