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2008年9月7日日曜日

読み過ぎと聞き過ぎ (isaan05-c987254-200809072233)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
読み過ぎと聞き過ぎ (おかあつ)
2008年09月07日 22:33
最近管理人が書いたきわめて個人的な日記なのですし、考え方もまとまっていないメモ書きのような文章ですが、カッティングエッヂっていうことで公開しちゃいます(^^;

最近インターネットにつないだんですが開通後一日で利用不能になったので(^^;; 書いている内容も若干タイムラグがあることをご了承ください。

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7:37 AM 9/7/2008

読み過ぎと聞き過ぎ

○ 読み過ぎ

マイミクの「まはヴぃーら」さんは、僕が好きな人の1人だ。 タイ字の読み書きに強くてタイ事情に明るい。 歴史に詳しく博学で知的な話の出来る頭のよい人だ。

ただ日本の頭の良い人の多分にもれず、格差や差別を理解できない。 僕は格差や差別が理解できない人が嫌いだ。 だけど、格差や差別を理解できない人を嫌い始めると世の中の99.99%以上の人は僕の嫌いな人になってしまう。それどころか、僕が尊敬している人のほとんどがこの格差や差別を理解できない。 だからいちいち嫌って避けるわけには行かない。 僕はこのことで随分悩んでいる。

僕は、自分が持っているタイのイサーン文化研究コミュニティーでどうしてもこの差別の話が関わってくることが多く、この差別に対する認識の落差で悩むことは少なくない。 差別を正しく認識できない人はクビだ、という風にするとメンバー数は多分今の0.1%くらいになってしまうだろう。 共存は避けて通れず、同様に説明責任も避けては通れない。

ところが、体験に頼らず文章のみで、差別が何なのか何故差別はよくないことなのかを説明するのは、極めて難しい。 ましてや被差別グループの心情を差別グループに文章だけで伝えることはほぼ不可能だ。 厳密に言えば不可能ではないのだけど、明らかに相手を不愉快にしてしまうので、現実的に難しいのだと思う。 要するに、どうしても「あの、すみません、今あなた僕の足を踏んづけてること気がついてないみたいですが、どけてくれません?」という話になってしまうので、ケンカになってしまうのだと思う。

特に、日本だと自分に不利な話を素直に聞く風習がないので、こういう話をするのはとても難しいと感じる。 何故だろうか。 このことを考えるとき、いつもあるアメリカ女性のことを思い出す。

前、アメリカに居たとき、非常に混雑している電車の中で座席に横を向いて体育座りしている女の人を見たことがあったのだ。 1人で2人分の座席を使って非常に迷惑だった。日本だったら「なめとんのかゴルァ」という感じの人だった。 で、どうするのかなと思ってみていたら、サラリーマン風の人が近づいてきて、あっさり「すみません、そこすわってもいいですか?」と聞いたのでびっくりした。 日本だったらケンカに成り兼ねないシチュエーションだと思う。 ところが、女の人はあっさり「あ!すみません!」といって座りなおしたので、二度びっくりした。 自分に不利な意見でも合理性があれば素直に聞く風習があるのだな、と変に感銘を受けたことを覚えている。

日本にはこういう風習がなく、相手に合理性があるときでも素直に謝ることは少ない。 なぜなら素直に謝ると相手に攻撃する隙を与えてしまう危険性もあるからだ。 素直に間違いを認めることが出来る為には、素直に間違いを認めた人をそれ以上不要に追撃しない土壌が必要だ。 間違いを認めたということは彼が合理性に基づいて行動している証拠である、彼は合理的であるという、間違ったことに低い評価を与えるのではない、むしろ反省できる能力に高い評価を下す懐の深い一般常識が必要だ。

ところが、日本では合理性ではなく懲罰に基づいた行動をとるため、素直に間違いを認めると、懲罰の対象として捕えられてしまう可能性がある。 だからこそ、合理的に見て間違っていてもそれを認めることが難しい。 だからこそ、相手に不利な話をするのが難しいのだと思う。



また、日本人は、極めて知識に偏重した民族だと思う。 あらゆる物事を物凄くよく知っているが理解はしていない。

読み書きというのは、比較的、量的なスキルではないかと思う。 経験によらず量をこなせばこなすほど確実に上達する。 ところが、説明力・理解力というものは質的なものではないだろうかと思う。 つまり、量をこなしても決して身につかないが、いろいろな経験を通じあがきもがくうち、ある瞬間が来ると瞬間的に身につく。 その「ある瞬間」とは練習を始めてすぐに到来することもあれば、練習を始めてから長い年月を経て到来することもある。このスキルを身につけるのは一筋縄ではいかない。

これはいってみれば運転免許みたいなものではないかと思う。 勉強家で法規も運転のセオリーもバッチリ覚えたからといって、運転が上手く出来るかと言えばそうは行かないのと似ているように思う。 運転は運転で慣れが必要でいくら机上で勉強したとしてもそればかりは身につかない。 危険を冒してあちこちに車をぶつけて痛い目にあうなかで上達していくように思う。

こういう日本人の知識偏重の傾向は僕も多分にもれない。 前、アメリカで語学留学していた時、ドイツ人ばかりのクラスに紛れ込んでしまったことがあった。 この人たちは実に会話が達者でベラベラひたすら喋りまくるので、僕はまったくついていけず辟易していたのだけど、文法テストをすると、意外や意外、僕の方が点数が高いのだ。

これは、日本が海に囲まれた国であるということと非常に大きな関係があるように感じる。 日本は海に囲まれた国で、外国人は必ず船や飛行機を使って入国する必要がある。 これは日本に居れば実に当たり前なことだけど、これは世界的に見るとかなり特殊な環境ではないだろうか。 普通の国は外国と陸続きで国境も当然陸の上だ。 外国人は高価な飛行機や時間のかかる船など使わず、歩いてどんどんやってくる。 その点、日本は海によって平和が守られているともいえる。

しかし逆に見れば日本人はおいそれと簡単に海外に出ることが出来ないともいえる。日本人は外国に行くためには高価な飛行機や時間のかかる船を使っていく必要がある。 だから、日本人は外国での出来事を文章を通じて知ることが多い。 出来事を実体験として知ることは少ない。

ところが、実際には文章になる物事というのは、現実のごく一部だ。 殊にそこに住む人が当たり前だと感じていることは文章になりづらいものだ。 あるいは文章にしたくないものは文章にならないだろうし、文章にしたいものは美化された現実かもしれない。 人間である以上、そういう偏りはあらわれるのだと思う。

本来であれば、出来事を実体験として知っていれば、当然、文章に書かれていることが間違っていることはすぐにわかる。 その文章に書かれていることを直接実体験として知っていなくとも、関連する出来事の実体験を通じて推測しながら感じることも出来る。

ところが日本人であるとその実体験を得ることがとても難しくなるのではないかと思う。つまり文章に書かれていることに極端に依存しすぎ理解が現実から解離してしまいがちな傾向があるのだと思う。

この知識に偏重し易い傾向は、日本人の非常に大きな特徴のひとつだと思う。

僕は最近日本のニュースや日本人が書くあらゆる記事が気持ち悪くて仕方が無い。 僕が普段体験していることと比べると、あまりにも極端にかけ離れすぎている。 彼らは実体験に基かず読んだものを基いて考えているのだと思う。 彼らは「読み過ぎ」なのだ。

僕は日本人である以上、そういう「読み過ぎ」の危険というものが常に存在するのではないかと思う。

日本人は理解力を軽視し知識量のみを競う傾向が強い。 自分の論理の正当性を知識量で証明しようとする傾向がある。 討論する時も、具体的な合理性を検討することをせずに「君はそんなことも知らないのか」的な不毛な知識量戦争になりがちではないかと思う。

書かれた物が全てではない。だから書かれた物を全て知ってその矛盾点を挙げていくことに意義は少ない。むしろ自分自身の手によってまだかかれていないことを調べ、自分で考えて自分の手で書いていくことが大切ではないだろうか。

僕はそういう読み過ぎな人たちがもどかしくて仕方が無い。

でも以前こういうことがあった。 (このコミュにも参加していただいているポンラン楽団・ケーン吹きの)ムリさんとお会いした時の話だ。 僕は思っていることをムリさんに話してみた。 ムリさんは一言「知ろうとしているだけマシ」と言った。 それでハッとしたのだけど、普通の人はそれに気がつくどころか、知ろうとすらしないものだ。 僕がしているのは断崖絶壁を素手で登ってくる志あるツワモノを北斗の拳のラオウ、よろしく「甘いわ!」と一蹴して奈落のそこに落としているようなものなのかもしれない。

ただ、このことは多くの人が書かないことだと思う。 書いても相手にその事実を理解させることは不可能で、更にはあらゆる人を不愉快にするからだ。 でも、僕はそこを敢えて、あるグループが感じていることを、事実ありのままに書きたいと思う。



○ 聞き過ぎ

今日ブラブラと歩いていてふと思いついた。 それと同時に「聞き過ぎ」という問題もあるのではないか。 世の中のほとんどの人は、自分が何を感じて何を考えたからそれ言っているのか、気がついていない。 だから人の話をききすぎてはいけない。

僕は読書家では無いので読みすぎの危険はあまりなさそうだけど、人の話はものすごくよく聞くので「聞き過ぎ」はありそうだ。 僕の場合、相手がイライラしているときなど、相手が言っていることをいちいち真に受けすぎて、相手に合わせて反応しすぎて逆に状況が悪化することは少なく無いように思う。

相手が興奮してベラベラといろいろ話し始めた時こそ、ちょっと間をおいて、遠めに見回して、その人が本当は何が言いたいのか本当は何を考えているのか、本当は何がしたいのか、その人が言葉にできなくてもがいていることを洞察力を使って察してあげることが必要なんじゃないかと思った。

9:12 AM 9/7/2008


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出展 2008年09月07日 22:33 『読み過ぎと聞き過ぎ』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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