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2007年12月10日月曜日

精神的ハッキング (mixi05-u459989-200712100022)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
精神的ハッキング
2007年12月10日00:22
気付かなかった自分の関心に気付く方法
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0712/07/news134.html

これ見て思ったんだけど、というか最近つくづく思うんだけど、ある意味、自分の内面の深いところを外部の商業目的の会社にすっかり知られてしまっているわけで、これは良く考えてみるととても不気味な事だと思う。 商業を目的とした会社が、個人のあらゆる情報... メールでどういうことを話しているのか、誰と交友があるのか、食べ物は何がすきなのか、何に興味を持っているのか... 果ては異性の好みや、人に言えない性的嗜好まで知りえてしまっているわけで、これがどういうものかはわからないけど、何かしらの不利益につながるだろうことは、予想に難くない。 しかも、これは実際に起こりはじめている。

ある程度年齢が行った長い間コンピューターに関わっている人間であれば、そうすぐには新しい技術に飛びついたりはしない。 便利になることで、失う事も多いということを良く知っているからだ。 だけど、今若い子はそうじゃない。 そういうソフトウェア技術の負の面を知らずに、目新しくてキャッチーなソフトウェア技術に飛びついてしまうと思う。 この危険性って、声を大にしていいすぎということはないと思う。



僕が最近行くととても気分が悪くなる場所のひとつに、コンピューター書籍コーナーがある。居ると気分が悪くなる。 みるもの全てが違和感だらけで頭の中が反論だらけになり、考えられる最大の量をいとも簡単に超えてしまうからだ。 いっこいっこ、全部批評していきたい気分になる。 僕も本を書いて何が間違っているのか明らかにしたい気分になる。

でもある意味仕方が無いのかな... と思う。 これらの本で「データマイニング」とか「マッシュアップ」とか、そういう言葉が飛び交っているが、それらのほとんどの本が、XMLのスキーマを説明する事でいっぱいいっぱい、それどころか、XMLというもの自体を理解できているかすら危ないようなプログラマではない人が書いているわけで、間違っているとはいわないけども、どの本も全て具体性に欠けてはいる。 僕は、そういう本を読んでいると不安になってくる。 「こいつ、こんな事が出来るってさも簡単に言っているけど ... これを実現するためには ○○○と×××を実装しないといけない。 これがどれくらい難しい事だかわかっていってるのだろうか ... それとも僕の知らない秘密の技術があるんだろうか... 」 僕の知らない何かがあるのかもしれないと思うと、不安になって、子一時間色々と調べてみることになる。 果たしてやっぱりそれはないのだ。

みんなデータマイニングって簡単に言う。 それが技術的に可能なのは良く知っている。 コンピューターを使っている以上、そういうことが出来るのは当然なのだ。 だけど、それは実現していない。 これはとても不思議な事だ。 それを実現するに当たって、何がボトルネックになっているのかまで考えている本というのは、どこにもない。 これは全て、実は、技術の話ではなくて、規格化の話なのだ。 そこまで踏み込んでいる本を僕は見たことがない。



プログラムを書かない人は、何も言う資格がない。 「俺プログラマじゃないし、何も言っちゃいけないのかよ!」 そう。 言っちゃいけないのだ。 なんだこいつはと思われると思う。だけど、 これは、ある事実を言い表している。

プログラムを一回でも書いた事があればすぐに知る事だけども、プログラムを一度も動かさずに、一発で正しいプログラムを書き上げるのは、極めて困難だ。 人間が考えた事というのは、いつもどこかに勘違いがあったり、思い違いがあったりする。 これは避けようがない。 どんなに慎重に組んでも、何度確認しても、間違いを0にするのは、ほぼ不可能と言ってよい。 完全に感情も同情も何もない無色な論理の世界に人間はとてもついていけないのだ。

でも、間違っているとすぐにわかる。 プログラムが動かないからだ。 人間の考えの間違いは、プログラムの誤動作という目に見える形になって、人間の目の前に現れる。 だから、プログラマというのは、ある意味楽なのだ。 間違いが全く許されないからだ。

間違いが全く許されないから楽ってどういう意味だろうか。 間違いが許されるから大変な世界があると僕は思う。 哲学書とかそういう本が多いような気がする。 よく思うんだけど、哲学書って一度も動かさないで一発で書いたプログラムの様なものじゃないだろうか。 プログラムであれば、動かせばその間違いが明らかになる。 こんなに楽なものはない。 だけど、哲学は間違っているか検証する方法がない。 たとえ、それが間違っていて、正しく働かない論理であっても、読者がそれで納得してそれを支持すれば、本の売り上げが立つ。 それで、間違った哲学はどんどんと一人で歩いていく。

物理学や数学はそういうことがない。 物理学であれば考えた理論は実験で検証できる。 数学であれば厳密に証明できる。 そこには、何のごまかしもない。 プログラミングにもない。 プログラムは非情にも動かないから。

でも哲学書にはそういうことがある。 技術書にも、そういうことがありそうだ。 特にプログラマじゃない人が書いた本はそのケがある。 社会批判の本にもそういうことがありそうな気がする。



なんというか人を相手に闘うのって大変だ。 人というのは間違ったりするものだし、間違った理由で批判したりすることもある。 間違った理由を信じて、反論をききいれなかったりもする。 正論を押し切ると感情的にこじれて逆効果になったり、詭弁であっても「まーまー」で放置しておけば解決したりする事もある。 色々とややこしいものだ。

だけど、現実は簡単だ。 間違っていれば失敗する。 正しければ成功する。 単純だ。 例えば、語学だったら、現地に居て行動する中で、考えた事が間違っていれば手痛いしっぺ返しにあうし、正しければびっくりするような面白い事に出会ったりする。 こういう冷たさに触れているのが、僕は好きだ。 というか、こういう冷たさが生活に無いとつまらない。 飽きてしまう。

そういう風にリアルな現実問題と闘っている人の書く本は、何かが違う。 僕が好きな、ファインマンの本とか岡本太郎の本とかキースジャレットの本とか吉田 脩二の本とか...。 もちろん、僕が出会ったのはそういう本だったというだけで、他にもいっぱいあるはずだ。



今日は実は八重洲ブックセンターに行ったのだけど、なんというか、僕が知りたい事はここに並んでいる本には書かれていないのだ、世界中どこを探してもそんなことが書かれている本がないのだ、という事をうすうす思うようになってきた。 どの本を読んでも何だか子供っぽくて嫌になってしまう。

でも、こういう本を書いたり読んだりしている人 ─── 目の前にある技術でいっぱいいっぱいになっており、取り敢えず技術を覚えて仕事につながればいいや程度の低温度の人たちに、じゃぁそこにどういう視点が欠けていて、どういう問題が起こっており、どうすればその問題が解決できるのかを優しく一から説明するにはどうすればいいのか、それがまさに僕の問題で、それが僕の中で解決しない限りは、ずっとこの気持ち悪さの中から脱出できないのだと思う。 しかも、もとより論理の正しさを理解できない人に説くわけで、どんなに論理的にそれが正しいかを説明しても絶対に理解しない人である。 多分、どんなに説明しても理解できないんだろうと思う。 彼らは、 動く結果、それも、それが動いて金を生み出す結果を見れば、論理がどんなに間違っていてもそれを理解するんだろう。

僕はそういう人と同時に、きちんと論理的な正しさを理解できる仲間も探さなければいけない...。



最近、人と会っていない。 関係者の皆様、ごめんなさい。 とにかく、ひたすら、集中して作業をしています。 僕の頭は、車重が重い三菱のラリーカーみたいなもので、一度止まると、加速して最高速になるまで、とても時間がかかってしまうような感じです。 もちろん止まるまでに長大な制動距離も必要なのです。 だから、電話がかかってきても出ない事が最近多いです。 電話に出ない時は大抵プログラムを組んでいます。 電話に出ると何を考えていたか忘れてしまうのです。 悪気は無いんです。



人と会わないと、どうしても、自己満足の危険が付きまとって、だんだんと世の中がみんなアホに見えてくるのは、そんな自己満足の病気が精神を蝕み始めている証拠でもあるのだと思う。 誇大妄想的で、どうしてもその病気の雰囲気が文章ににじみ出てくる。 そんなときは謙虚に人の意見に耳を傾けることが大切だと思う。 だけど、やはりそれはそこに納得のいく満足の出来る答えは存在し無いわけで、どうしても、自己尊大的な気持ちが大きくなりがちになってしまう。

ある意味、すごい人や先輩がそばに居て自分を虐めてくれるというのは、実にありがたい事だ。 間違った方向に行きそうなときに、すかさず、心にグサリとくるきっつーい嫌味を言ってくれるおかげで、多大なる時間の短縮が出来るわけで、これは実にありがたいことだおともう。

でもそういう嫌味を言う人が自分のそばにおらず、また、そういう嫌味をありがたがって聞いてくれる後輩もおらずという状況は、実に寂しい。 そういうことを思いながら今日もプログラムを組む。



そういえば、最近、ハバロフスクにホームステイ 語学学校通学込みで20万円ぐらいという、すごく興味深いプログラムがあることを知った。実に現実的で、こういうことをやって、もっと面白いスキルを身につけたいな... と思うけども、せめてプログラムが動き始めない事には、気になって気になって何も手が付かないんだろうな...と思うので、思いとどまっている。

また、こうやって雑音に悩まされずに作業に集中できる生活環境を維持出来るというのは、とても貴重でもあり、こういう生活環境が無限に続くわけでもなく、やっぱり出来る時にやっておくしかないわけで、いくら自分が好きでやっていることとはいえ、我慢は必要で、ストレスがたまってくる。

北京語も勉強してみたいけど、ニューヨークでしばらく生活してみたいという夢もある。 でもバルト三国に行って見たいという気持ちもあるし、中部ロシアにも興味がある。 いずれにしても語学がキーワードになっていて、体力も気合が必要だ。 プログラミングと同時には無理だろうな...。


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出展 2007年12月10日00:22 『精神的ハッキング』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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