知的暴力
2007年11月11日06:19
僕の友達に、小さい頃ニューヨークで一人で住んでいたという変り種がいる。この人は普通に日本人だけど、多分、僕の今まであったことのある、英語を第二言語として話す人のなかで一番英語の発音が本物っぽい。
何か一緒に歩いていると、普通に街で会った黒人といきなり友達の様に話している。 それも(当たり前だけど)あたし英語話せます~みてみて~ みたいな感じじゃなくて、なんと言うか、ノリが近いというか、普通に世間話をしている。 それもあの、テレビとかでよく出てくるような... ヘイ!ヨゥ! ワッツァップ!メーン!みたいなこれ見よがしな黒人ノリじゃなくて、ごく普通のそこらの平凡な黒人が普通に話して普通に普段感じているような事を当たり前のように話している、そんな風情だった。 聞けばその友達、以前はハーレムというところに住んでいたんだそうだ。
そんな人でも、ネイティブじゃないので、英語は一生懸命勉強している。 それで専門技術系の翻訳を今はしているらしい。 日本では、そんなあこがれ・羨望の対象の様な人だが、非常に素直で素朴、えばらなくてとてもいい人だ。 というか、結構天然ボケが入っていて、一緒にいるとドッと疲れがでることも多いが、とにかく、かなり古い友達で昔なじみだ。
この間電話がかかってきていうには、めちゃめちゃ怒っているという。 何があったのか聞いてみた。
この間、仕事中に、同僚から「やっぱりアメリカ英語って発音がバカっぽいわよねー」って言われたというのだった。 一瞬何を言われているのかわからなくて、よく考えて、更によく考えて、どう考えても、悪口を言われているとしか考えられないので、混乱したといっていた。 何でその人はそんなことをいう必要があるのかと嘆いて、何故そんなことを言われるのか... 何か悪い事をしたのだろうか... と悩んでいた。
「バカだな」 僕は言った。
「そんなの相手にするからそうなるんだよ。 そういうのにはね。 似たような事を言い返しておけばいいんだって。」「え?それってどんな?」 「いや、何でもいいんだよ。 例えば、『そうですねー。でもイギリス英語もちゃんと発音しなかったらバカっぽいですけどね~。』とでも言っておけばいいんだって。」「そうか! 考え付かなかった! そういう風に言い返せばいいのか!」 「でも、ちゃんと笑いを取って相手に逃げ道も作ってあげないとダメだよ!」
そんなことを話した。
でも、実際なんでその人はそんな悪口を言うんだろうか。 それは、やっぱり、悔しかったからなんじゃないかと思う。 恐らくその悪口の人は発音にはちょっと自信があったんじゃないかと思う。 でも、その友達の発音のほうが明らかにうまいことをみて、嫉妬したんじゃないかと思う。
だけど、その友達は、いい意味で、そういう他人の嫉妬とか羨望とかに全く無頓着で、そのまんま等身大だ。飾らない。卑下しない。 発音が悪い人をバカにもしないし、発音がうまいことも自慢もしない。 人にはとても親切に教えるし、知らないことはバカ面引っさげて素直に聞く人だ。 だからか、いろいろな事を知ってる。
ところが相手によって、そんな 超イノセンスな態度が通じず、むしろ人の神経を逆なでしてしまうのかもしれないなとそんなことを思った。
◇
昨日、今日と、二日連続で楽器屋さんに行ってしまった。
昨日は、ちょっとした用事があって筑波まで行ってきた。 筑波には秋葉原からつくばエクスプレスを使っていく。 用事が済んで秋葉原に戻ってきた。 折角なので秋葉原でブラブラしようと思い、京浜東北線に乗らずに外に出た。
でも、何か、最近「僕の知りたいことは本屋やパソコン屋にはない」という事に気がついてしまったので、パソコン屋や本屋に行くのが億劫になってしまった...。もちろん、暗号や数学は知らないことだらけなのだけど、必要な本はもう買ってしまった。 それらを読んでじっくり身につけて考える期間に入ってしまった。 そんな本屋であるはずのない答えを探してブラブラしてないで、家にこもって行動するしかないのだ。
じゃぁと思い、お茶の水の楽器屋に行く事にした。 お茶の水にはたくさんの楽器屋さんがある。 そのお茶の水の楽器屋街までは秋葉原から歩けない距離ではなかった。
楽器屋というのは、僕にとって最高の娯楽だ。 あんな楽しい場所はない。 新しいギターが欲しいなぁ。 でも楽器というのは結構あたりはずれが激しいものだし、自分に合ったものが常に店においてあるとは限らない。 よい楽器を手に入れられるかどうかは運の要素によるところが大きいのだ。「よし、買おう!」と思ってから探し始めてもなかなかいいものに出会えない事が多い。 そんなわけで普段からちょこちょこ楽器屋さんに行って、試奏させてもらうのがよいのだ。 というわけで、楽器屋にゴー、とあいなった。
久しぶりに楽器屋に来た。 久しぶりに来たくせに目をつけている楽器は既に合ってパットメセニーが弾いていることで有名な「ES-175」という楽器とIbanezのジョージベンソンモデル、それかウェスモンゴメリーが弾いていた L5という楽器が欲しかった。
有名な×××が弾いている楽器... と一言で言っても作られた年代やモデルによって全然個性が違ったりする。また所有者の経歴によっても随分左右される。 ギターというのは面白いもので、パキパキな硬いジャズが好きな人に使われていると硬い音に、メローなジャズが好きな人に使われているとメローな音になってくるのだ。 だからこそ、色々弾いてみないとわからない。 最初に買った時はそういうことわからなかったし、第一金が無かったしな...。
一軒目。 ベンソンモデルを見つけたので試奏した。 このギターは硬くて歯切れの良い音が持ち味なのだ。 コードを抑えてガツッと弾くとザリっと爆発的に歯切れの良い音がする。 コレだ! それだけでなく、親指で弾くとすごくやわらかく良い音がする。 歯ざわりの良い、古き良きビバップの雰囲気が出てくる。いいなぁ...。
二軒目。 ちょっと変わったES-175を見つけた。 ピックアップという、音を拾う装置が、通常2個のところ1個しか付いていないのだ。 早速試奏してみた。
そうしたら店の人が「アンプ、マーシャルしか無いんですが...」といわれた。 マーシャルアンプというのは、ジミヘンドリックスが使っていたことで有名なアンプだ。 バリバリ歪む音が持ち味のアンプで、こういうジャズギターの演奏には向いていない... とされる。 ちょうど前にちょうどハードロッカーがハデに試奏して行った後でもあった。
だけど、こういうバリバリ歪むアンプにジャズギターをつなぐと、意外ときれいな音が出ることを僕は知っていた。 それはジャズギターの澄んだ音は、実はギターの生の音そのままではなくて、かすかにアンプで歪んだ音だからだ。 ジャズギターを全く歪まないアンプにつないで音を出すとすごく味気ない音になってしまうということを知っていた。
ギターをつないで、バリバリ歪まないようにギリギリまでゲインを下げて弾いてみた。案の定、すごくきれいな音が出た。 ES175独特の澄んだやわらかい低くこもった音だ。 この静かなこもり具合がたまらない。
試奏していると、なんというか、周りの人が聞いているでもなく、全く無関心でもなく、という雰囲気に変わる時がある。 僕はその雰囲気が好きだ。 何故そう感じるのかは僕も定かではないけども、その独特な雰囲気というのは伝わってくる。 そばには、品だしをしている店員さんがいて、黙って仕事をしていて、僕も意識して聞かせるでもなく、音を出していて... というその雰囲気が好きだった。
ES175はお値段若干高くなっておりまして、消費税込みで40万円ぐらいする。 高い! でもその2006年製のES175は、とても良かった。 調子が良かった。 僕のもっているES175は、どうも調子が悪くてあまり気に入っていなかったのだ。(ってか既に一本持ってるのにまた買うのかよ!)
◇
味をしめてしまって今日もなんとなく楽器屋さんに足が向いてしまった。 今度は近所の川崎の楽器屋さんだった。 今日は土曜日という事で店は混んでた。
ベンソンモデルはここには置いてなかった。「ベンソンモデルありますか?」って店員さんに聞いてみた。 そうしたら「いやーあれは山野楽器が輸入を取りやめてから...」 と説明を始めた。 僕はいっている意味が良くわからなくて... えーと ベンソンモデルってIbanez(国産)ですよね? って聞いたら「え!?リュックベンソンモデルじゃないんですか?」っていう。「ギブソンのヤツかと思ってました!」 というか、リュックベンソンって映画監督だし!
でもES175が置いてあったので試奏をお願いした。 実はちょうどそばにロカビリーなおじさんがいて、バキバキとカッティングを弾いていた。 これを見た時、試奏を今すべきか、後ですべきかかなり迷った。 なぜかというと、こういう上級レベルの人と試奏がぶつかること自体が、なんとなくすごく嫌~な予感がしたのだ。 僕のこういうカンはよくあたる。 でも気にしない事にした。
弾き始めたら、もうすぐ嫌になってしまった。 何だかあたりが一面トゲトゲした雰囲気でいっぱいになってしまったからだ。 これって何なんだろう。 誰も何も言わないし、誰も何も合図しないけど、伝わってくる雰囲気。 あの何というか、自分がサッと速いパッセージを弾き終わった後に聞こえる空間の開き方の雰囲気というか...。
実際、そのおじさんは、結構上手だった。 そこらへんのおじさんでは無かった。リズムがきっちりしていて、好感の持てる演奏だった...。 だけど、一緒に音を出すとすぐわかる。 ぜんっっっぜん人の音を聞いてないのだ。 僕はそういう人がそばに居ると、どうしても音が出せなくなってしまう...。
店員の女の子がそのおっさんに「プロじゃないんですか?」とか聞いてる。 聞くまでもなく彼はプロじゃない。 それはすぐにわかる。 でも彼がそう聞かれることにプライドを感じている事はすぐにわかった。「いやーただ弾いているだけなんですよ」「へーもったいないですねー」
僕は僕自身がそういう感覚を持つことは好きではない。でもそれは人の価値観の持ち方だし、僕がその人にとやかく言うことじゃない。 それにそういう気持ちの持ち方がまったく悪いというわけではない。 それは構わないのだ。
しかし、その場の雰囲気から漠然としたコミュニケーションの齟齬を感じ、なんとなくいやーな後味が残った。 これは全て、僕が一方的に感じた事であって、そこに何の会話もコミュニケーションもない。 僕は物理的に何の被害も受けていない。 何の言葉も受け取っていない。 だけど、そう感じてしまったのだ。
僕はこういうことがあると、すごくアメリカが恋しくなる。
前、ボストンに語学留学した時、地下鉄の構内によくストリートミュージシャンがいて演奏してたのを思い出す。 みんな、すごく控えめな音量で、演奏も地味な人が多かった。 でも、すごくなんというか... 音が内向的というか、自分のために音を出しているというか、音の出し方が正直な人が多かったのがとても印象的だった。
ほとんどの人は立ち止まらない。 それでいて、全く興味が無いというわけでもない、そんな付かず離れずの距離感があった。 誰も見ていなかったが、かといって無視もしていなかった。 ミュージシャンは確かにそこにいた。 そしてミュージシャンは聴くことを強制しなかった。
そういう中でも、音を聞いて気に入ったミュージシャンがいると、その前に座ってずーっと聞いている若者がいたりした。 誰も彼も無名で地味なミュージシャンだけど、そういう中にも聴くべきものがあれば聴くというような、現物主義がそこにあるような気がした。 そこにあるものが全てで、そこには肩書きやブランドやキャリアは無かった。 音が全てだった。
◇
僕の演奏は小難しいらしい。 というのも、僕は「知的なサウンド」とよく呼ばれるような音楽が好きなのだ。 少し難解な調性があって、転調が複雑でリズムに複雑さがあるような、奥行きのある音楽が好きだ。
こういう音楽は現代的ジャズとも言われるが、学生時代、この好みがすごく嫌がられた覚えがある。 Dolphin Dance(モード派のジャズピアニスト・ハービーハンコックが作曲したスタンダード曲) やろうよとか言うと、「ま~たモードかよ!辞めようよモードは!」 とかすごく嫌な顔された事をすごく良く覚えている。
そんな中では、Confirmation とか Oleo とかそういうビバップ曲※ばかりが演奏された。 僕は逆にこちらの曲が苦手だった。(※ モードより10年程度さかのぼって1960年前後当時流行した速いテンポで分散和音を多用した曲のつくりの事) そんななかで苦手なビバップの曲を超高速で演奏させられたりするのは、正直かなり辛かった。
僕はただ単に、そういう曲が好きなだけで、別にオレオを演奏したらバカだとか、Confirmationを演奏するヤツがアホだとか、そういう意見を持っているわけではない。 これはただ単に好みの問題だ。
しかし、その後、僕はあちこちで演奏しているうちに、僕の演奏がほとんど誰からも受け入れられない事を知る。
◇
でも、最近、一気に語学が上達したり、異文化交流について深く知るようになったり、落ち着いて考える時間が増えたりして、 色々考えているうちに、音楽って言うのはやっぱり言葉なのかもしれないなぁ ... とよく思うようになってきた。
僕は、僕の演奏が受け入れてもらえないのは、演奏が下手だからだ、と思っていた。それは現実にそうなんだろう。 そう思って必死に精進してきた。 でも、僕は僕の演奏が上手か下手かという以前の問題として、僕の演奏は、ひょっとしたら日本では外国語なんじゃないだろうか。
それは、ひょっとしたら冒頭に挙げた僕の友達と同じようなものなのかもしれない。 僕の友達と同じように、知識が高度になればなるほど、人からは受け入れられなくなっていくのかもしれない。 僕が必死に精進して演奏の完成度が上がればあがるほど、人をトゲトゲしくさせてしまうのかもしれない。 それはある意味、人に劣等感を感じさせているのかもしれない。 この劣等感は、日本人に英語で話しかけると劣等感を感じてそれ以上コミュニケートするのをやめてしまうその劣等感と同じではないか。
◇
周りに音を聴かない人がいると弾けなくなってしまうのは、僕は悪い癖だと思っていた。そう思って、弾けるようになるべく努力をしていたこともある。 要するに、その周りにいる音を聴かない人よりも大きな音で演奏をすればいいのだ。 こうすると、大抵その人も音量を上げる。 僕はその人よりも音量を上げる。 こうして、戦争の様な状態になる。 最終的には、信じられないような巨大な音量に到達する。
でも、僕は思う。 これって、日本人の討論と同じじゃないか。 人の話を聞けない、自分の意見を説明できない、違いを知らない。 そこにコミュニケーションが生まれない。 それと全く同じような気がしてきた。
タイでも色々とミュージシャンを見た。 でも、日本でよく見かけるトゲトゲしたオーラを持っている人にはあまりあわなかった。 そこらへんの三流ミュージシャンであっても音をよく聞いて演奏しているという印象があった。 ある基本線は守っていたように思う。 それは、考えてみれば、日ごろタイ人と話した時の印象とかなり近いものがあるかもしれない。 タイの人は話をよく聞く。
◇
恐らく、日本の芸事っていうのは、レベルに超上級・上級・中級・初級とあるすると、超上級と中級の間 ... 上級が谷の様にになっているのではないかと思う。
物事なんでも、地道にやってくれば普通に初級・中級と進級できるものだ。問題はその後だ。 才能と努力が両方兼ね備えれば上級から超上級に行ける。 ところが、努力があっても才能がないか、才能があっても努力する環境が整わないかすると、超上級にはいけず、上級になる。
ここが鬼畜の坩堝なのだ。 もちろん才能があっても経済的な困難をもつ人もいる。だが、ここにいる人の多くは、プライドは高いが実力は伴わないタイプの人だ。 努力は惜しまないがどうしても最後の一歩を踏み出せないでいるタイプなのだ。 そうすると、どうしても、最後の一歩を踏み出す人の邪魔をしたくなるものらしい。
僕は色々な業界でこういうタイプの人を見た。 翻訳業界、デザイン業界、ジャズ業界...etc.etc... 不思議とスポーツの分野にはこのタイプがいない。 スポーツは足の引っ張り合いが本質であり、勝ち負けがはっきりしているからだと僕は思う。 ルールを決めて正々堂々と足の引っ張り合いをする。 ディフェンスがウィングを執拗にマークし、嫌らしい程にチェックを決める。それが勝負だからだ。しかし、知的行動は勝負ではない。 そこに勝ち負けは定義できないのだ。
そういう場面でよく起こるのが、作業料の価格破壊ではないだろうか。 僕はこういう知的作業を生業とする業界で、こういう価格破壊が起こってしまうケースを繰り返しみてきたような気がする。 知的作業というのは、とても見えない経費がかかるものだけど、そういう経費を作業料にのせようとすると、こういうことをいう人が必ず現れる。
「×××卒のクセにこんな高いギャラを取るわけ?」とか「おい、ペーペーのデザイナーでもこんな一流のギャラ請求すんの~?」とかそういう言葉を言うクライアント。
「こんな高いギャラ取ってるのに○○○も知らないの?話にならないわ」とか「×××ぐらい知ってて当然。 知らない○○さんには仕事はまわせないわ」とかのたまう同業者。 相手にわざと情報を与えなかったりして失敗を誘発させて潰しておいて、自分のところに仕事を回す姑息な同業者。
「え~ ×××さんの出来上がりとあんまり変わらないのに、こんなに高いの? 見た目同じじゃん~(注:中身は大違いなのに)」とのたまう違いのわからないクライアント。
こういう芸事というのは、食料や品物の様なはっきりした値段は付かないものではないだろうか。 だからこそ、きちんとその価値を守る為に、結束して高い価値を演出していかなければいけないのではないだろうか。 ところが、こうやって全員で足を引っ張り合ってしまうので、価格が崩落するのではないかとおもう。
「組合を作ろう!」すると「その前に技術を磨けよ」という現実を知らない世論。
日本でこういう知的労働者が苦しんでしまう原因は色々な要素が複合していると思う。 いずれにしても、こういう知的な行為に対して暴力的な発想が根付いている限り、日本の知的産業はなかなか根付かないような気がする。
◇
でも、そんな日本でいくつか強烈にうまく行っている業界がある。 その中の一つはマンガ業界ではないだろうか。 あとゲーム業界もそうだと思う。 もちろん車業界もそうだと思う。 他にもいくつかある。
なんとなく思うんだけど、こういう業界には、日本の無知な世の中の凶暴な知的暴力から知的生産者を守るような「住み分け」みたいな仕組みが根付いているような気がする。 また、マンガは製作が一人ないしは数人で完結できるという事も無視できないような気がする。
ここから先は僕もまだ良くわからない。
コメント一覧
竹風鈴 2007年11月12日 22:33
面白かったです。
>試奏していると・・・・
>無関心でもなく・・・
>好きだ。
↑
私もここのところすごく好きです。
>試奏していると・・・・
>無関心でもなく・・・
>好きだ。
↑
私もここのところすごく好きです。