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2007年6月21日木曜日

(メモ) 「理論物理と水墨画は同じ」 (mixi05-u459989-200706211406)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
(メモ) 「理論物理と水墨画は同じ」
2007年06月21日14:06
この記事イイ。

http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp50810a.htm

甲南大教授 
佐藤 文隆(さとう ふみたか)さん

 1938年、山形県生まれ。京都大理学部卒。京都大基礎物理研究所長、理学部長、日本物理学会長を務めた。現在、甲南大理工学部教授、京都大名誉教授、湯川記念財団理事長。著作は「アインシュタインが考えたこと」「ビッグバン」「科学と幸福」など幅広い。今年はアインシュタインが三つの重要論文を発表した「奇跡の年」から100年を記念した「世界物理年」で、講演に忙しい。



五感で理解しがたい世界 切り口変えて描く

 現代物理学は、私たちの常識的な世界観を揺さぶってきた。今年100年を迎えるアインシュタイン(1879~1955)の相対性理論は、時間や空間が絶対的ではないことを示し、量子力学は、原因から結果が生じるという因果律に揺らぎをもたらした。そんな不可思議な世界像を、理論物理学者の佐藤文隆さんは「人の心をひきつける芸術や宗教と同じ」と言う。人間の体や脳の限界で見えてくる「非日常の世界」。その感触なのかも知れない。

 ノーベル賞候補に取りざたされることもある相対性理論・宇宙論の世界的な研究者だが、美や心の領域にも関心が強い。2002年の国際シンポジウム「科学とこころ」では、科学と芸術の共通性をこう語った。

 たとえば人形浄瑠璃の、実際の人間とはかけ離れたぎくしゃくしたしぐさ。非日常的で見慣れない動きが、奇妙なリアリティーを感じさせる。黒と白だけで描かれる水墨画は、現実とはほど遠い風景だが、その中には確かに世界がある
 人は、美しさとか崇高さにひかれ、エキゾチックなものにハッとする。さらに感じるだけでなく、表現するのが人の心の働き。そうした表現が芸術だったり、宗教だったりする。科学もそういう表現の一つ。水墨画と理論物理が一緒かと聞かれたら、「一緒だ」と言い切りたい

 11歳の時、日本中を沸き立たせた湯川秀樹(1907~81)のノーベル賞受賞。数学が抜群にできたこともあり、湯川のいた京都大理学部へ。73年、アインシュタインの重力方程式からブラックホールの構造を解明する「冨松・佐藤解」を発表し、一躍有名に。すべてをのみ込み、光さえ抜け出せないブラックホール。それが「見える」という新たな可能性を示した。

 ブラックホールはSFでも何でもない。地球上と同じ自然の法則に従う天体です。物体が非常に小さく縮まってできた極端に重力が強い領域で、地球だって直径1センチ足らずに縮めたらブラックホールになる。ただ、そこでは時間と空間のありようが、日常と全く違っている

 宇宙はどのように誕生したかという古来のテーマも、ここ20~30年、探究が進んだ。物質や力の起源をさかのぼると、137億年前のビッグバン(大爆発)にたどりつく。つまり宇宙には「始まり」があり、凝縮した一点から生じ、膨張し続けている。そしてはるか未来に膨張しきって「死」を迎えるらしい。そんな宇宙の将来に我々の運命を重ね、悲観する向きもある。

 大きな進展はあったが、わからないことや結論が逆転することもある。なぜ宇宙が存在するのかという根源的な謎は将来とも、物理学で答えられるものではない。宇宙論は、地上で確立した物理の言葉で宇宙を描いただけ。異なる表現の方法も、いろいろあるでしょう

 もう一つの現代物理の柱「量子力学」は、エレクトロニクスやレーザー技術にもつながり、ハイテク社会を生んだ。しかしその基礎は奇妙な世界観の上に立っている。ある物質を観測するまでは“赤”でも“白”でもなく、観測した瞬間にサイコロを振ったように確率的に決まる。原因と結果が一義的につながらない、同じ原因から、無数の世界が分岐して重なり合っている――という考え方もある。

 原因と結果がきっちりと定まっていると考えられてきた自然が、極微の量子の世界をのぞくことで「それは本当?」となってきた。でも、不思議と思うのは、人間の五感から離れているから。そもそも人間がとらえた世界は、脳で情報処理されたもの。そのソフトウエアを変えると、別の世界が見えるんじゃないか。量子力学は世界を不確かにしたのではなく、五感で理解しがたい世界まで描けるようになった証しだとも言えます

 京都大教授時代の研究室からは比叡山が見えた。定年が近づいたころ、窓から空や雲を見るのが好きになった。

 人間が美しいと思った最初のものは、空だったんじゃないか。特に雲はきれいだ。風に流されて消えていき、夕焼けの光で一瞬に姿を変える。人はもっと雲を見ればいい。きれいだと思うだけでもいい。そこから先、宇宙を学んでもいいし、なぜきれいだと思うのか考えてもいい
文・古川 恭一 写真・里見 研
(2005年08月11日 読売新聞)

コメント一覧
退会したユーザー   2007年06月22日 02:49
話難しいね。でも表面上の違いを越えて考えると、視点と発想を変えたら、きっとこれだけじゃなくていろいろな存在に接点や似通ったものがあるんだろうね。平たく言っちゃえばベートーベンとロックみたいな…意図がちょっと違うか?
さい   2007年06月22日 05:47
私は阿波踊りとヒップホップは同じだと思う。
 それはさておき、今、実際の研究の現場で研究者どうしでこのようなことが語られることはまずないと思う。
今の科学は「細分化」が進んでいる。
それはあまりにも細かすぎて「なぜ」という素朴な疑問までも
こなごなになってしまうくらいだ。
正直「不思議だな」と感じる感情と「どうしてこうなるのか」と冷静に判断する思考は相容れないと思う。
科学の現場では一人一人の感じ方は嫌われる。
みなで共通認識をもち、議論できることが大切だから。
「なぜ」にも合理性が必要とされていると思う。
私には素朴な「なぜ」から科学的探究心まで到達することは、かなり難しいと思える。
おかあつ   2007年06月22日 15:18
>科学の現場では一人一人の感じ方は嫌われる。

ある程度答えの方向性が見えている時代ではそうなるのかもしれないなって思う。

プログラムを組む時も、最初は自由で創造的な発想があって始めるわけだけど、それがある程度固まってしまったら、自由で創造的な発想なんて要らない。 ひたすら量的に数えられる単純な理解を積み重ねるだけになる。

そういうフェーズのときに「これって不思議だよねー」とかそういう事をいっているヤツが来ると、頼むから目を覚ましてくれって思う。

でも、ファインマンみたいに本当に凄い人は、そういうときでも、人知れずあれこれ余計なことを考えている様な気がする。そういう余計な考えをして、それが間違っていることを体験していくのって、最終的には凄く大切だと僕は思う。

だからこそ、みんなが、ああでもないこうでもないと行き詰まっている時に、違う道を選ぶ事ができるんではないかと思う。

僕は、思うんだけど、考えてる対象に集中するのではなくて、考える事自体に集中する事って大切だと思う。 結果じゃなくてその過程に集中する事って大切だと思う。 でも、日本人ってそういう考え方、嫌いだよね。

だから、日本人は、答えの方向性が見えていて結果が量的に測れる物事についての研究しか得意じゃないんだと思う。

(分野にも拠るけど...)

退会したユーザー   2007年06月23日 00:25
教育の違いも大きいんじゃない?「考える事が出来る」っていう事実に気付くより「取りあえずその場に対応」っていうシステムな気がするんだ。だから「考えている人=秀でている存在」みたいなカリスマを求める。そういう人がいると自分は保留に出来て安心だから。私は、元々は人間そのものが一人一人考えることに集中できる要素を持って存在していたと思う。人口が増えたら落差が生まれてしまったね。主観だらけでゴメン。
 
出展 2007年06月21日14:06 『(メモ) 「理論物理と水墨画は同じ」』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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