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2007年5月23日水曜日

頭の中の三人 (isaan05-c987254-200705231741)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
頭の中の三人 (おかあつ)
2007年05月23日 17:41
以下の文章は、僕がミクシィ日記で書いた文章の転載で、正直、誰もが「あぁそうそう」とうなずくような文章では決して無いですし ... 広くイサーンに限った話でもないのですが ... 記事の水増しという事で公開してしまいます。
(^-^;


◇  ◇  ◇

2007年05月19日 03:31 頭の中の三人

... 今日は午前中プログラムを組んでいた。 コーディングは佳境に入ってきていて、やるべきテーマが沢山見えてきている。 それらをバリバリかたづけていく。

それがパパッと済んで気分良く、今度はホテルの事をやろうと思って部屋から出てきたら、大喧嘩になった。今度は、ホテルの従業員全員を敵に回してしまった。

だって。

やらないといけない事は、やらないといつまでたってもよくならない。 それに、別にやって無意味だとわかっていてもやったって損は無い。 何のことかってビラ広告のことなんだけど、やろうとするともったいないからだとか、そんなことをしているやつはいないとか、何かしら理由を探してやらない。

別に、やりたくないならおっけー。 でも、仕事無くなるよ。それでもいいの? っていうことなのだ。 勢い落ち目になりかかっているわがホテルなわけで、確かに僕らが入って少し上向いてはいるけど、何もしなければ赤字になるのは見えているのだ。

別に広告をばら撒いたってバチは当たるまい。 メニューを百冊程度刷って置いたって、コストは5000円程度。 非常にリーズナブルだ。

だが、彼らは口をそろえて反対する。 もったいないという。 わかった。 5000円がもったいないというのか。 でもその5000円を節約する事で、50000円のビジネス機会を失っているかもしれないのだが、それでもいいのか。

心をこめて理屈を説明するのだが、ま っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っっっ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っっっ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ っ たく理解しない。 挙句の果てには、考えすぎだとか、別に今問題が起こってないんだからいいじゃない、とか、まぁゆっくりやろうよ、とか、何でそんな細かい問題に躍起になるのか、とか狂ってるとか、そんなことを言うのはお前だけだとか、そういうことを言い出す始末だ。

そうか。
俺はバカか。
バカで結構。
じゃ日本に帰る。
あなた方は勝手に死になさい。
                            

だが、色々話しているうちに、やっぱり僕のタイ語があまり具合がよくないということも浮き彫りになってきた。

今日一番印象に残った事は、「プロモーション」という言葉。

これは「レスリングのプロモーター」とか プロモートするというのは、基本的に販売促進を意味する言葉だと思う。 というかそれが正しい。 ところが、タイではそうじゃない。

タイに住んでいて、プロモーションというとすぐに思い出すことは携帯電話のプロモーションだ。 たいがい、今月いっぱいに申し込みをすると300バーツで話したい放題とかそういう類の事を指す。 KFCに行って、フライドチキン3つ頼むとコーラがついてくるとか、そういう類の事も「プロモーション」と呼ぶ。

タイ人にとってプロモーションというのは、値下げの事なのだ。

はい、そこ! 「だから、タイ人の英語はおかしいんだ」 とか思っている人は、手をあげて! その考え、間違っているからね! 日本のほうがグッと創造的趣向を凝らされたへんな英語が氾濫してます。 タイの方がグッと少ない。 そういう君は、明日から「ミクシーやろうぜ」と発言する事を禁止します。 明日から「メクセイやろーぜ、メクセイ」と言わなければなりません。 (参照 : http://engrish.com/ )


とにかく、知っている言葉と微妙に意味が違うことがあって、こういうことがものすごく積み重なって、ものすごい誤解を生み出すことがある。



とにかく、それを謝るにしても、何を誤るのか...。
このまま放置するわけには、絶対に行かない。



タイに住んでいると、この軋轢は、非常に厳しいものがある。ただ遊んでいるだけなら非常によいのだが、 仕事がからむと、タイ人独特の必殺超能天気がうらめにでてしまう。 目の前に無い危険のことなど知らぬ、になってしまう。 あんた、これだけのことをやるのに、何日かけてるの。になってしまう。 別にやったって損は無いでしょう! やろうよ!と怒鳴りたくなってしまう。

僕は、ボロボロだけど、一応英語も話すことが出来る。

今日は、爆発して、あんまりにも激しく腹が立ったし、誰も理解してくれないし、タイ人一同、みんな口をそろえて、「あんな酷い事を言うから、イギリス出身のシェフも怒っている」というようなことをいうし、だから、イギリス人のシェフ担当の人に、今日起こったことを説明することにした。

そうしたら...


あっさりわかってくれた。 あっさりすぎて、拍子抜けするぐらいだった。 あら、というかんじだった。 そんなの、毎日だよ! ということだった。

彼は、僕よりタイ歴が3年以上長くて、初めてタイにきたのも11年前だと言っていた。 もうそんなことは、とっくの昔にぶつかっていたのか... と思うと同時に、イギリス人と日本人の方が似ていることがあるのか、と強く感じた。

僕は普段、タイ人と日本人は似ており、ヨーロッパであるイギリスとアジアの島国日本の二つよりも、ずっと似ているだろう、と思っていた。 だけど、この瞬間、日本はアジアの中で、アジア的でない要素を同時に持っている国だったのか、という事をはっきり意識した。

僕にいわせれば、アジアの国は多かれ少なかれ、タイと似ている。 論理的じゃなくて、説明が下手くそで、というか説明が嫌いで、一緒の経験をした人どうし(例えば、小学校が同じとか)でしか会話が成立しなくて、一人では何も出来なくて ... もちろん、僕はタイしか知らないのだけど ... そういう傾向は、アジア人みんなにある。



僕は、アメリカに長く居たおばの影響なのか、僕がちょっとだけアメリカに居た事がある影響なのか、僕の中には、アメリカ人の要素もちょっとある。

クロスカルチャー=異文化交流的・ハイブリッド混血主義というか異種格闘技なものが好きで、自分のバックグラウンドを説明する事を好み、人のバックグラウンドを尊重する。 討論を好み、その中の論理の妥当性を戦わせる。 自分の論理が正しくない事を悟れば、あっさりかぶとを脱ぐ。 自分の否を認める事は良い事だ。 そういう姿勢を持つ人を賞賛する。 アダプティブシンキングとも呼ばれるらしいけど、状況を良く観察して、仮説を立てて研究し、その中の抽象的な概念を探す。 それを見つけたら、それに基づいて、実際に行動してみる。 うまく行くかどうかを見て、論理を修正する。

これが本当にアメリカの影響なのかはわからないけども、論理に基づいた考え方である事は間違いなく、これは、うまく働く。

ひょっとしたら、僕が小さい頃からプログラムを組むのが好きだったこととも関係しているかもしれない。 小さい時からこういう具体的な問題を解決する事を積み重ねてきたし、 論理好きな人が陥りがちな「論理の迷路」に入って出てこれなくなる、という事態を回避する勘を、小さい時からつちかってきたのかもしれない。 ところで「論理の迷路」を抜け出すのは簡単だ。コンピューターでモデルを作ってみればいい。論理が間違っていれば絶対動かないので一発でわかる。

プログラムを組むという作業は、自分が作った論理を現実の世界で実際に検証する非常に良い方法だ。数学で証明の技術を学んだりしたのでなければ、(時としては証明の技術を持っていたとしても)多くの場合良い方法だ。 多くの人は、折角自分で理論を組み立てても、検証する術を持たないので、往々にして間違った論理の中で夢の中の様な快楽を感じてさまよっているだけということがおおくないだろうか。

また視点を変えると、プログラミングは、実は、古い西洋哲学や西洋の数学の考え方を深く受け継いでいる文化なので、そういうことも影響しているかもしれない。

まぁ、ともかく、論理的な考え方だ。



とにかく、この考え方は、複雑な問題を解決する時に有効な考え方だし、実際これがあるからタイ語が話せると言っても過言ではないわけなのだけど、この考え方は、同時に、タイ人と非常にそりが悪い。 非常に矛盾するのだけど、タイ人はこういう適合的な考え方は、出来ないようだ。

当然、タイ人の話に「それ、論理的に間違ってるよ」なんていってもなんの意味が無い。 バカ扱いされて終わりだ。


アジア人一般を見ると、こういう論理的な思考というのは、ほとんど持っていないような気がするけど、日本は、完全ではないのだけど、多少討論の文化を持っている。 「朝まで生テレビ」なんて番組もあった。 他のアジアの国と比べると、完全ではないけど、論理的に考える習慣が強いといえるのではないかと思う。

それに、古くからの武士道や禅の考え方が、今でも根強く残っていて、21世紀を迎えた現在でも、仕事を「気合で」頑張る人や、「間合い」を計りながら営業する人や、落ちそうな客を「駄目押し」する人、経営の「気を捕らえる」人など、武士道をビジネスに生かそうとする人は枚挙に暇が無い。 これだけ武士道や禅の言葉※をムチャムチャ駆使しているのにも関わらず「いや~そんな武士道なんて興味ないな~」という日本人は実に面白い。

(※ 例の一部相撲だけど広く武士道と考える)

もっとも、これは、論理と違うような気もする。だけど、これはいうなれば、日本独自の「感覚的な論理」である様な気がする。 これは、結構大切な様な気がする。



僕は、ジャズギターを弾くけど、何かいつも、禅と関係が有る様な気がしてしかたがなかった。 ほら。 ギターがうまい人のことを「ギター仙人」とかふざけて呼んだりする事がある。 そういうなんというか「なんだか悟っちゃった系」のギタリストって... なんかいる。 そういう ... 「境地」という言葉を使ってしまうけど、ギターをものすごく沢山練習すると、何か「極める」とでもいうべき状況に達する。

この点は、僕は、「西洋」と「東洋」の接点なんじゃないかという気がする。

これは、東洋から見ても接点だと思うし、実際西洋の人からみても近い印象を持たれているような気がする。




ともかく、今日は、そのイギリス人のシェフの人と色々な話をした。

僕の英語はボロボロなので、なかなかうまいように話せないのだけど、クリケットの話しをしたり、レストランのメニューの話をしたりした。

思ったのだけど、タイ人と話していて感じる、あのイライライライラする感覚は、イギリス人と話しているときは、無かった。

シェフはイングランドアクセントで喋るので、僕が勉強したアメリカンアクセントとかなり違う。 レストランに来る人のうち何人かは「カクニック」とか「マンクーニアン」とかそういう、凄い強いアクセントで話す人たちで、なに言っているかさっぱりワケワカだった。

でもそんな状況でも、気分良く話せることがあるのか、と感じた僕は、今日凄く驚いた。


実は、今日、店でもう一個トラブルがあって、それは(イングランド・又は・ジャパニーズルールで行けば) 明らかに従業員に非があった。 確認せずにお客さん適当な約束をしてしまって、それが実行不可能ということになって、お客さんは怒ってしまってもめてしまったのだった。

それで「責任者呼んで来い」ということになって僕が行くことになったのだけど、僕のまずい英語では明らかに事態が複雑になるだけなので、シェフに「俺オーナーだから」って嘘ついてもらって出て話してもらった。

このとき、シェフの苛立ちというのは、結構激しかった。いわく「なんでウチの従業員はそんな出来ない事約束すんだよ!いつもいつも!」ということで、僕的には実に良くわかることだった。

だけど、なんといえばよいか... 僕は、苛立つと言っても、そこまで苛立っていないというか ... それぐらいは許してあげてもいいかという日本人的なことも、片方で思っていたりしたのだった。

僕はヨーロッパ人・イギリス人じゃないのだ。

この経験というのは、日本に居たら絶対にすることが無い経験だと思った。



そういう中で、イギリスを見る... 。 イギリスはクリケットが盛んみたいで、日本人がいっつも相撲を見るようにいっつもクリケットを見ている。

ところが、このクリケットは、単純そうに見えるのだけど、ものすごく複雑なルールがあるみたいで、なかなか理解できなかった。

思い切って、クリケットについて色々たずねてみたら、ものすごく快く教えてくれた... 。 クリケットというのは一種イギリスの国技みたいなものであるようで、外国人が日本に来て相撲についてたずねるもらうと嬉しい、という類の快さで教えてくれた。

これで思ったのだけど、アメリカとイギリスというのは、同じ言葉を話しても、全然違う国なんだなと思った。 なんというか、イギリス人は、細かいというか、結構日本人と似ている。

日本人が外国に行くと、必ず「米はxxx産で... ウドンはxxxで」と凄く日本食にうるさくなる様な気がする。 食に拘る。 分量・味・香り・バランス、 事細かに指定する。

イギリス人が、これと全く同じで、「俺に言わせれば、飯っつーのは、イモとソーセージだ。 これさえうまければ全てオッケー」という話から始まって、イモの種類や、ソーセージの肉の配分について、何時間も話したりする。 日本人が米に拘るのと近いノリでソーセージの話をする。

ともあれ、イギリスというのも、とても独特な文化を持つ国で、積極的に興味を持って尊敬を持って勉強しようと思った。



とにかく、今日の大喧嘩で、僕はかなり反省して、謝ることにした。 タイでは、怒ってしまうというのは、何にもまして避けるべき行動なのだ。 気持ちを大切にする、それが問題を解決する事よりも優先する国なのだ。 それが、タイを何物にも代えがたく魅力的な国にしているわけで、それは絶対に尊重すべきなのだ。

しかし、ムカツク!

僕は、この瞬間、これ以上無い解決策を見つけた。

それは、出家する事なのだ。タイでの出家は1日から出来る。 タイでの修行は、怒りを納める事が一つの修行の目的なのだそうだ。 これは、僕が今直面している問題に対する、これ以上無い解決策じゃないか!



僕は、この瞬間、同時に ... そういえば... と思った。 そういえば、僕のうちは、禅宗、曹洞宗の家がらなのだ。 おばあちゃんはいつも、禅の作法にのっとってご飯を食べていたし、お華の先生でもあった。

でも、僕は、ほとんど意識した事もそれを大切にした事もなかった。

次日本に帰ったら、絶対お寺に座禅を組みに行こうと思った。





というわけで、僕は思った。

僕の中には、タイ人・日本人・アメリカ人、の三人の人間が住んでいる。この三人は、実に分かり合わない。 全く違う考え方をしていて、実にそりが合わない。

でも僕は、この三人をまとめて、分かり合えるようにしなければいけないのだ、と思った。

僕は、どうしても、日本語が一番長く話している言葉だし一番うまく話せる。 多少ズレているけど日本のことはある程度詳しい。 だから、日本語であれば、どうにかこうにか日本の文化と比較比喩をつくることで、タイの文化を説明したり、アメリカの文化を説明したりする事が出来る。

でも、それだけでは、僕はダメで、きちんと、「英語で日本の文化を説明する」「英語でタイの文化を説明する」「タイ語で日本語の文化を説明する」「タイ語で英語の文化を説明する」ということが、全部こなせなければならないのだ。

これは、メッチャムズイ。

でも、これをやるしかない。

そうしないと、いつも混乱した対応になってしまう。

何故そんなことをするのかって。別に逃げ出したって構わないわけだけど...。

僕は日本人なので、「まぁ多少努力しても、別に減るわけじゃないし」という風な考え方をしているのだ。
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出展 2007年05月23日 17:41 『頭の中の三人』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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