世界感 (おかあつ)
2007年05月10日 08:43
これも昨日の個人的な日記なのですが、公開します。
◇
...
A:『わかった』って言わないでね!
B:わかった。
A:わかってねーじゃん!
B:だから、わかったわよ。
A:だから、それが正にわかってねー証拠だっつってんの! だから、『わかった』って言うな!って言ってるんだから言うなよ!
B:だからわかったわよ。
A:お前いつもわかったわかったって言うけど、全然わかってねーじゃん。 わかった!って言ったら、普通もうそれはしねーだろが。
B:だから、わかったからもうして無いでしょ?
A:今、正にしてるじゃねーかよ。
B:だからわかったって言ってるじゃない。
A:お前、何でいつもそーなんだよ、この間も、○○に居る時にもわかったって言ってただろ!
B:それはもう終わった事なんだから、いちいち蒸し返すの辞めてくれない?イライラするから。
A:おめーな。 過去の事を反省するから、次にもうしないんだろが。 おめー、わかってねーから何度でもおなじことしてるじゃん。
B:それは、もう終わったことなんだから、今は今の話をすればいいでしょ?
A:つーか今正にやってるじゃネーかよ。 終わってねーんだよ。 だって、今、正にやってるじゃねーかよ。
B:あーもう、イラつく。 なんでそうやってしつこいわけ?一緒に居るだけでもイラつくわ。
A:そりゃ、お前がわかってネーからいってるんじゃねーかよ。 いいか、お前はな、例えて言うならば、「えー、山岡太郎さん。 お名前は?」って言っているようなもんなんだよ!
B:なんでいちいちそうやって説明するわけ ... だから、わかったって言ってるじゃない。
A:わかったよ。
(続く)
───────────────────────────
これはもう、どう考えても、極端なたとえなんだけど、ほとんどこれと似たようなやり取りになる。
A:「あ、それ、食べないでね!(^-^)」
B:「もちわかってるよ!(^o^) ムシャムシャ。」
A:「(-_-)」
なんでこういうことになるんだろうか。
タイ人って「わかった」っていう言葉の定義が違うんだろうか。
普通、わかった、って言ったら、もうしないものだけど、正に次の瞬間、同じ事をやってる。 過去の事は振り返らない。 それは過ぎた事だからだ。 そして、飽きることなく同じ事を繰り返す。 それはそのときに気をつければいいことなのだ。
反省する事がそんなに屈辱なんだろうか。
「ゴメン。わかった。もうしない。」って言う事がそんなに困難な事なんだろうか。
僕は、謝るのが大好きだ。 問題を解決する一番簡単な方法だからだ。 謝らないで頑張っちゃうから問題が大きくなるわけで、謝ってしまって「次からこうします」って考えれば、問題は、絶対起こらない。
そう、タイ人の口からは絶対に「次からこうします」って言う言葉が出てこない。 だから、言われた側としては、「わかった」って言われても、全然納得できない。
だから、わかったならその理由を言えよ!っていうことになるんだけど、ポカンとしてる。 それで、「あなたは、何にでも理由をつける人なのね」となる。
なんというか、因果関係に関して、天と地がひっくり返るような哲学感の違いを感じる。
人間、全ての考え方は世界観でしかないと思う。 「科学や論理」とかも例外ではなく、沢山ある世界観の中のある一つの世界なのではないだろうか。
ただ、「科学」「論理」という世界観は特殊で、現実をうまく思い通りにコントロールする事が出来る場合がある、ちょっと変った世界感なのではないか。
だけど、「科学」「論理」というのは、とても冷たく厳しい世界ではないか。 論理というのは、例えるならば、全く偏りや特色のない色の無い無彩色だけで出来上がった世界なのではないだろうか。 しかし、それは、動物にとっては死の世界の様なものなだ。 動物には、もっと偏った汚いものが必要なのだ。
論理が世界感である、ということは、 例えるならば、宇宙空間の、真空マイナス200℃というような死の世界にありながら、そこで自由に動き回る強靭さを持ち、それだけでは飽き足らず「宇宙は美しい」と言い放てる気持ちのゆとりさえも持っている、というような、常人ではとても耐え切れないような過酷な世界で生きることを意味するのではないかと思う。
人というのは、普通そういうところを、きれいだとは知っていても、わざわざ住み着こうと思ったりはしないものだ。
「近所にどぶ川が流れて、汚いゴミ捨て場があって、うす汚い公園の臭いトイレがある。そういう中にも、歴史を感じさせるような年季の入った木造の古い建物が立ち並び、裸電球が煌々とすりガラスを照らしている様が不思議な美しさを醸し出しているのだった。その向かいにあるラーメン屋で380円のしょうゆラーメンをすするのが僕のひそかな贅沢だった。」というような、多少、汚い世界に人は好んで住むものだ。
根っからの論理好きという人は居ないものだ。普通は、物心ついたときぐらいから「お金持ちになりたい」とか「xxxで成功したい」とかいうような、『汚い』きっかけが出てきて、そこで、何とかしようと思って人は論理を持ち出すようになる。 しかし、そこで、人は、論理の冷たさや、つまらなさを知る。 そこには、パチンコ屋も、吉野家もない、荒涼とした空間しかない。 そこには、心地よさは見当たらないのだ。
人は、多少、その中で、妥協して、自分が踏み込める範囲まで入ってそれ以上は深入りしない。
ところが、そういう人がめったに寄り付かない荒野のど真ん中で、涼しげにスッと立ち、周囲を美しさを堪能しながら眺めているという人がいる。 そういう人こそが、天才や秀才と呼ばれる人なのでは無いだろうか。
この、「どこまで論理に踏み込めるか」というのは、一つのポイントだと思う。
ところが...
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A:『わかった』って言わないでね!
B:わかった。
A:わかってねーじゃん!
B:だから、わかったわよ。
A:だから、それが正にわかってねー証拠だっつってんの! だから、『わかった』って言うな!って言ってるんだから言うなよ!
B:だからわかったわよ。
A:お前いつもわかったわかったって言うけど、全然わかってねーじゃん。 わかった!って言ったら、普通もうそれはしねーだろが。
B:だから、わかったからもうして無いでしょ?
A:今、正にしてるじゃねーかよ。
B:だからわかったって言ってるじゃない。
A:お前、何でいつもそーなんだよ、この間も、○○に居る時にもわかったって言ってただろ!
B:それはもう終わった事なんだから、いちいち蒸し返すの辞めてくれない?イライラするから。
A:おめーな。 過去の事を反省するから、次にもうしないんだろが。 おめー、わかってねーから何度でもおなじことしてるじゃん。
B:それは、もう終わったことなんだから、今は今の話をすればいいでしょ?
A:つーか今正にやってるじゃネーかよ。 終わってねーんだよ。 だって、今、正にやってるじゃねーかよ。
B:あーもう、イラつく。 なんでそうやってしつこいわけ?一緒に居るだけでもイラつくわ。
A:そりゃ、お前がわかってネーからいってるんじゃねーかよ。 いいか、お前はな、例えて言うならば、「えー、山岡太郎さん。 お名前は?」って言っているようなもんなんだよ!
B:なんでいちいちそうやって説明するわけ ... だから、わかったって言ってるじゃない。
A:わかったよ。
(続く)
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これはもう、どう考えても、極端なたとえなんだけど、ほとんどこれと似たようなやり取りになる。
A:「あ、それ、食べないでね!(^-^)」
B:「もちわかってるよ!(^o^) ムシャムシャ。」
A:「(-_-)」
なんでこういうことになるんだろうか。
タイ人って「わかった」っていう言葉の定義が違うんだろうか。
普通、わかった、って言ったら、もうしないものだけど、正に次の瞬間、同じ事をやってる。 過去の事は振り返らない。 それは過ぎた事だからだ。 そして、飽きることなく同じ事を繰り返す。 それはそのときに気をつければいいことなのだ。
反省する事がそんなに屈辱なんだろうか。
「ゴメン。わかった。もうしない。」って言う事がそんなに困難な事なんだろうか。
僕は、謝るのが大好きだ。 問題を解決する一番簡単な方法だからだ。 謝らないで頑張っちゃうから問題が大きくなるわけで、謝ってしまって「次からこうします」って考えれば、問題は、絶対起こらない。
そう、タイ人の口からは絶対に「次からこうします」って言う言葉が出てこない。 だから、言われた側としては、「わかった」って言われても、全然納得できない。
だから、わかったならその理由を言えよ!っていうことになるんだけど、ポカンとしてる。 それで、「あなたは、何にでも理由をつける人なのね」となる。
なんというか、因果関係に関して、天と地がひっくり返るような哲学感の違いを感じる。
人間、全ての考え方は世界観でしかないと思う。 「科学や論理」とかも例外ではなく、沢山ある世界観の中のある一つの世界なのではないだろうか。
ただ、「科学」「論理」という世界観は特殊で、現実をうまく思い通りにコントロールする事が出来る場合がある、ちょっと変った世界感なのではないか。
だけど、「科学」「論理」というのは、とても冷たく厳しい世界ではないか。 論理というのは、例えるならば、全く偏りや特色のない色の無い無彩色だけで出来上がった世界なのではないだろうか。 しかし、それは、動物にとっては死の世界の様なものなだ。 動物には、もっと偏った汚いものが必要なのだ。
論理が世界感である、ということは、 例えるならば、宇宙空間の、真空マイナス200℃というような死の世界にありながら、そこで自由に動き回る強靭さを持ち、それだけでは飽き足らず「宇宙は美しい」と言い放てる気持ちのゆとりさえも持っている、というような、常人ではとても耐え切れないような過酷な世界で生きることを意味するのではないかと思う。
人というのは、普通そういうところを、きれいだとは知っていても、わざわざ住み着こうと思ったりはしないものだ。
「近所にどぶ川が流れて、汚いゴミ捨て場があって、うす汚い公園の臭いトイレがある。そういう中にも、歴史を感じさせるような年季の入った木造の古い建物が立ち並び、裸電球が煌々とすりガラスを照らしている様が不思議な美しさを醸し出しているのだった。その向かいにあるラーメン屋で380円のしょうゆラーメンをすするのが僕のひそかな贅沢だった。」というような、多少、汚い世界に人は好んで住むものだ。
根っからの論理好きという人は居ないものだ。普通は、物心ついたときぐらいから「お金持ちになりたい」とか「xxxで成功したい」とかいうような、『汚い』きっかけが出てきて、そこで、何とかしようと思って人は論理を持ち出すようになる。 しかし、そこで、人は、論理の冷たさや、つまらなさを知る。 そこには、パチンコ屋も、吉野家もない、荒涼とした空間しかない。 そこには、心地よさは見当たらないのだ。
人は、多少、その中で、妥協して、自分が踏み込める範囲まで入ってそれ以上は深入りしない。
ところが、そういう人がめったに寄り付かない荒野のど真ん中で、涼しげにスッと立ち、周囲を美しさを堪能しながら眺めているという人がいる。 そういう人こそが、天才や秀才と呼ばれる人なのでは無いだろうか。
この、「どこまで論理に踏み込めるか」というのは、一つのポイントだと思う。
ところが...
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