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2005年10月28日金曜日

矛盾だらけの優れた理論 (mixi05-u459989-200510281602)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
矛盾だらけの優れた理論
2005年10月28日16:02
14:54 2005/10/28

優れた才能や能力を発揮する人に「何故そんなことが出来るのですか?」と聞いたとき、色々説明してくれるのだがいまいちよく解らない、というか矛盾だらけでそんなこと真似出来るか!という場合が良くある。

例えば、営業の成績がものすごく良い人に、その秘訣を聞いたりすると「じらせ!」「押せ!」「ほっとけ」「おしこめ!」とか、一つ一つを忠実に守っていたら必ず破綻するような説明をしたりする。

優れた才能を持った憧れの人に説明を聞いてみたら、意外とがっかりした、と言うようなことは誰にでも一度はあるのではないだろうか。

また、運よくその人が才能を持っている上に説明も上手だったとしても、複雑すぎてとてもではないが理解できないということもよくある。

これはどういうことなのだろうか。 僕はこの現象を「天才のあとづけでたらめ理論」と呼んでみたい。 僕はこれに外国語の勉強をしている時に気が付いた。

どの言語に限らず文法と言うのは複雑だ。 一つの言葉の変化法則を表すだけなのに、複数の理論が非常に細かい差異によって切り替わったりする。

タイ語の文字を勉強するとその理論の複雑さに面食らう。こんな複雑な理論をよくも大人から子供まで誰でも使いこなせるものだな、と思う。 ロシア語の文法もそうだ。

ようやく一つの理論を理解して「あ!という事はこれはこうなりますよね!」と先生にぶつけると「あーそう思うかもしれないのですが、そこは例外があってこう変化します」という嫌らしい法則が目白押しである。 だが、(当然だが)やはり大人から子供まで苦労なく話している。

だが実は、日本語だって例外ではない。

明日本屋に行く約束をしました。(1)
昨日本屋に行く約束をしました。(2)

この二つの文章は全く同じ配列なのに違う文法構造を持っているのにお気づきだろうか。 (1)の場合本屋に行くのは明日だが、(2)の場合ではいつ行くのか特定できない。

これは日本人であれば無意識のうちに「論理的に」正しい方を取捨選択していることをあらわしている。はっきりと意味を特定したい場合は「本屋に行ったのは昨日です」とか「昨日の約束です」とか、無意識のうちに違う文章として言い換えているのだ。

だが、外国人がこれを見たらどう思うだろうか。 あなたは正しく何故こうなるのか説明できるだろうか。 上手く説明できないかもしれない。上手く説明出来たとしても複雑すぎてとても理解できる説明にはならないだろう。 実はこれは日本語教授法の一番難しい問題だといわれている問題なのだ。

こういう現象というのは一体何故起こるのだろう。 言葉というのは、実は理論ではなく、単に経験的丸暗記だからだ。

あなたが1年間ものあいだ外国語を勉強しているとしても、その語学力は現地に住んでいる子供にすらかなわない。 あなたがネイティブの子供とであったとき、彼はその時点で5年以上勉強しているのだ。 しかも24時間生活の面倒を黙って母親みてもらっている上に、絶えることなく話しかけられている。こうして経験的に得た情報と言うのは印象が深く、気付かぬうちに膨大な量に膨れ上がっているのだ。

そうして得た情報を人間は「なんとなく」感覚的に統計している。これらは極めて感覚的な思考パターンにつながる。例えば 「あぁスーパーに行くとおいしい思いをすることがおおいな」とか「おばあちゃんにあうとなんか買ってくれることがおおいや」とかから始まり、「この組み合わせは何となく嫌な予感がする」とか「こういうときは近寄らない方がいい」とかいった、あいまいな感覚なのである。

こういうあいまいな感覚の集大成を理論的に説明しようとするからこそ、文法の様に例外が多く非常に複雑な理論になるのではないだろうか。

ところで、だがこういうあいまいな感覚も、研ぎ澄まされると非常に精度の高いものになることがある。 そういう「研ぎ澄まされたあいまいな感覚」を持ちえた人が結果として職人技、特殊能力として、認識されるようになるのではないだろうか。

また、そういう研ぎ澄まされた感覚には 受動的あいまい感覚と創造的あいまい感覚の2種類ある。 上記は受動的あいまい感覚だ。 創造的あいまい感覚は次のようなものだ。

長い経験の中で沢山の問題に出会うい、みなそれぞれ自分なりに色々な事を考える。 そうやって導き出した結論が積み重なって、やはり自分なりの「なんとなく」感覚的な統計、あいまいな感覚が育まれていくのではないだろうか。

こうして出来上がったあいまいな感覚を理論的に説明しようとすると、文法の様に沢山の例外であふれ返ってしまい、人の理解できるようなものにはならないのだ。

私がこうやって文章で説明しようとして悪戦苦闘していても、なんだか例外ばかり発生してしまい全然上手く説明できていないという悲しい現実自体が、この理論を逆説的に証明してしまう事に既にお気づきだろう。

こういう問題に対処するためには、理論を理解しようとするのではなく、ひたすらその背後にある「あいまいな感覚」を身に付ける努力をするのが一番良い。

すると、いつの間にか何故その(文法/人/理論)が例外で溢れかえっているのかが理解できるようになるのではないだろうか。
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出展 2005年10月28日16:02 『矛盾だらけの優れた理論』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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