僕の周りには才能のある人がたくさんいる。だけどよく見ていると皆、全く同じ危うさがある様な気がする。「強烈な個性」のようなものを発揮する人はほとんどいなくて、それは「白紙」のような感じで何色にも染まってしまう。 ─── そこにたまたまあった絵の具の色に染まっていく。
ジャズには芸術と言語の二面性がある。芸術として見ればそこにどんな表現があってもよい。だけど言語として見るとそこには非常にはっきりした文法がある。文法が間違っていると通じなくなる「何か」がそこにはある。
華道では、並べる花は何であってもよいが、花を並べた時に美しくみえる配置にははっきりした規則がある。ジャズの芸術性と言語性の関係はそれに似ている。
日本のジャズ界には、ジャズの言語性と芸術性を混同している人が大勢いる。彼らは言語性の揺れを芸術性の多様性と倒錯し、言語性を失った他人に通じない自閉症的状態に芸術性を置いていることを自覚できず、自分の芸術が理解されない理由を「芸術の多様性と孤高」に安易に求めてしまう。
『白紙』の人はそういう言語性/芸術性の混同に頓着がなく、混同している人にも混同していない人にも心を開いてついていってしまう ─── 僕は見ていてそれがとても怖い。折角高い才能があっても善悪の頓着がない彼らは、言語性芸術性倒錯も屈託なく受け入れていってしまう。
ジャズを教えるに当たっては、絶対に自分の思想や芸術性を押し付けるようなことがあってはならない。だけど言語の模範を示す(幼稚園の)教諭のような存在は必要だと思う。