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2018年9月14日金曜日

東京人と大阪人の違い (oka01-thwqpqflepvfkqnz)

飽くまでも僕の個人的な意見だが、大阪人は東京人と似ていると思う。 そんなことは絶対にない!と思われるだろうか。


僕は、いちおうネイティブ東京人だが、大阪人に知人友人は多い。それでネットを検索すると『東京人と大阪人はここが違う』的なブログ記事がたくさん見つかるのだが、どれを読んでも非常に強い違和感がある。彼らのブログを読んでいると、東京について激しく勘違いしている点がたくさん見つかるので、以下でどこがおかしいのか、すこし書いてみた。

東京人

『東京人』といえばどんなことを思われるだろうか ─── おしゃれ・ハイセンス・頭がいい・格好つけ・仕事ができる・金を持っている・美味しいものを食べてばかりいる・・・等々、思われているかも知れない。

違うのだ。

単刀直入に言ってしまうと、これは飽くまでも『東京にいる関西人』の傾向だ。ネイティブ東京人は全くこういう一連の好ましい特徴を持っていない。むしろ真逆だ。僕は、 ネイティブ東京人だが、半分程度は関西人なので、実際に東京で育って、東京地元人に激しい苛立ちと怒りを感じながら育った。その結果、東京に集まる『優れた人』というのは、みな外部から来た人だ…と思い知った。

僕に言わせてもらえば、『東京人』といえば、ダサい・頭が悪い・暴力的・気が短い・計画性がない・貧相なものばかり好んで食べる・地味・ケチ・貧乏性・頑固・傲慢・・・ 等々、ろくな印象がない。

ネットで見つけたこの記事を読んで、愕然とした。
『関東のルーツは高貴な武家と下町の職人さんです』
http://kansaijinntokanntoujinn.com/
全く東京のことをわかっていない、と言わざるを得ない。  東京を買いかぶり過ぎだ。

東京というのは、ほぼ全員が上京者で、ほんとうの東京地元人というのは1%もいない。特に山手線圏内にはほとんど住んでいない。住んでいるとしたら、東京の片隅(不便であまり人がいない海沿いや、再開発地域の隙間にある不便な谷間など)に実家があり、稀にそういう辺境から街に這い出してくる。

僕の知っている山手線圏内出身人の多くは、再開発に伴って実家を売却し、郊外に引っ越した。引っ越した理由には色々な事情があるだろうが、少なくともひとついえるのは、大都心のどまんなかというのは、実際に住んでみると生活必需品が手に入りにくく、意外に不便なことが多いことだ。発展に伴って住みにくくなり、長年住み慣れた家を売って地元を離れる …と言う面があるように僕には思える。

或いは、都内下町などでは、例えそこに昔から地元に住んでいても、そこに無数の余所者が移住してきて、地元人は地元にいるのにマイノリティーとして生活しなければならない。移住者は全く感覚が違い、話は全く合わない。あまり地元人の意見を強く押し付けると衝突が先鋭化してトラブルになりかねず、肩身の狭い思いをしている。 余所者はトラブルを起こしてもいずれ街を出て行く身だ。だがそこに定住している地元者は、起こしたトラブルを延々と引き摺ることになる。

僕の知っている東京人は、東京人になって3代目程度の人が多い。本当に古くから東京に住んでいる人達(江戸時代に、今東京になっている地域を切り拓いて街を作った人達)は、とても少ない。

子供の頃から、ありとあらゆる地域の人に囲まれて育った『東京人』は、しばしば複雑な家庭環境に揉まれ、しばしば超複雑な学校の人間関係の中で揉まれ、虐められ、苦労人として育っている人が多い。

東京人は、自分が東京出身であることを人に明かすこともあまりない。 東京出身であることを明かすのは、自ら虐められる原因を人に教えるようなものだからだ。 飽くまでも、権威や社会地位などに頼らず、その場にあることだけでコミュニケーションする。

東京人のなかにいる『ネイティブ東京人』は、とても少ない。

 ─── いわゆる『東京人』とは、余所者の集まりなのだ。


大阪人

僕は、あまり多くはないが、何人かネイティブ大阪人を知っている。彼らを見ていて思うのだが、大阪人は、いわゆる『大阪』っぽくない。「面白くなければいけない」「落ちがなければいけない」「ずうずうしい(いわゆる大阪のオバチャン的に)」という要素をあまり持っていない様に見えるのだ。

ネイティブ東京人がいわゆる「東京」っぽくないのと同じように、ネイティブ大阪人もいわゆる「大阪」っぽくない・・・ということがあるのではないか。

僕はある大阪人から、「人前では大阪弁は話さない」と聞いて、少し思うことがあった。 とても東京人と似ていると感じた。東京人は、ふつう自分の家族以外に東京弁を話さない。ネイティブ東京弁は、(もちろん地域にもよるが)基本的に乱暴な言語で、余所者にはわかりにくいので、人前ではあまり使わない。

東京弁も、基本的に方言だ。いきなり知らない人に「ネイティブ方言」を出したりはしない。 大きな街に住んでいると、近隣に常に色々な人が入り乱れている。そういう中でいきなりネイティブの自分を出してしまうと、相手の期待する対応から著しく離れてしまい、いきなり怒りはじめる人がいる。どんなに気を使っていても、一定の割合で「いきなり怒りはじめる」人と出会ってしまう。

色々なトラブルに揉まれているので、できるだけ無難に済ませようとする癖が身に沁みついている。当然だが、人間の主義主張の違いにいちいち目くじらを立てたりするようなことはない。色々な考えの人と、近すぎず、遠すぎず、適度な距離を保ちつつ付き合いを続けていく必要があるからだ。

これらはネイティブ東京人が人知れずやっていることだが、これと同じことをネイティブ大阪人はやっている様に僕には思えた。 古くからある大都市である大阪に住むネイティブ大阪人は、東京と同じように複雑さを経験し、同じように複雑さに対処していたのではないか・・・。

大阪人のなかにいる『ネイティブ大阪人』は、とても少ない。

 ─── いわゆる『大阪人』というのも、余所者の集まりなのだ。

西から来て東に去る

僕は「人は西からやってきて東に去っていく」という言葉を誰からともなく耳にしたことがある。西日本から東京に上京する人は、まず大阪に上京して都会ぐらしに慣れてから、東京に上京する人が多いので、そういう言葉が生まれたのではないか。この説が正しいかは、誰にもわからないことだが、ありそうな話だ。

大阪で練習してから東京に来るというのは、現実的にみて、良い方法だ。感情的な粗相に寛容で、多少の失敗は大目に見る度量がある大阪のほうが、適応がずっと易しい。生活コストが高く、何をするのにも責任が伴う東京は、ちょっとした失敗も厳しく問責されることが多く、適応が難しい。

そういう『都会人研修中』の人達をネイティブの大阪人から見ると「人は西からやってきて東に去っていく」と見えるのではないだろうか。

この話を視点を変えて見てみると、つまり、いわゆる「関西人」の大半は、大阪人ではないということでもあるだろう。

こうして大阪で肩慣らしをしてから東京にやってきた彼らを『関西人』と呼んでも良いのだろうか。彼らは果たして本当に、大阪の常識を身につけてから東京にやってきたのか。大阪のおおらかさに依存しているだけで、自分から余所者を受け容れる大阪的なおおらかさを全く身に着けていないのではないか。

空気を読まない関東人

僕は関東人(東日本人)が空気を読まない、という意見には全く同意できない。関東人は、見ていないようで、実に細かいところまでよく観察している。ただ関西人と若干違うのは、人混みなど人の多い場所で往来の人を観察したりすることは少ない…という点だろうか。 定期的に同じ人と遭う場所では非常によく見ている。

だが関東人( 東日本人)は、自己評価が非常に低く、自分自身について「社会性が低い」という評価を持っている人が多い。だから「お前は社会性が低い」「空気が読めない」「独りで強情を張っている」と糾弾すると、比較的容易に態度が軟化してしまう。こちらの傲慢を押し通しやすくなる。

西日本人にとって、これは有効な戦術だ。東日本人とやりあっているときに、自分の論拠が弱くなって劣勢になると、「何でお前はそうやって強情なのだ」とゴリ押しを掛けることで、東日本人を退け、比較的安定的に面子を保つことができる。

だがこれは、西日本系の関東人として言わせてもらえれば『反則技』なのではないか、と思う。トランプのジョーカーの様に出せば、切り札として非常に強い力を発揮する『空気よめ攻撃』。

だがこの攻撃には、最大の欠点がある。

空気を読む人の弱点

僕が思うに、東日本人はほとんど『空気読め攻撃』をしない。何故かというと、東日本人は、いわゆる「社会性が低い」人が多いので、社会性が低いことで他人を糾弾したりすることが、ほとんどないからだ。 ─── つまり「空気読めよ」攻撃をしているだけで、西日本人だということが暴露してしまうことになる。

この事実に気付いてしまうと、これはジョーカーを超える核爆弾的な切り札になってしまう。いくら100人に囲まれて「空気読めよ」でゴリ押しされても、 「君ら出身どこなの?」と一言言うだけで、一気に形勢逆転が図れる。図れてしまうのである。

だがこの切り札の破壊力は壮絶であり、その場にいる無関係な人まで、殺傷する能力を持っている。それまで関西人であることを隠して関東人として生活していた隠れ関西人まで、その西日本人という本性を暴かれて殺傷されてしまう。

この死の光線が関東人に当たる。命に別状ない筈なのだが、何故か中には死んでしまう人もいるのだ  ─── 実は『隠れ関西人』だったのだ。関東人の様に振舞っているが、実は関西出身だったのだ。「えっ!? さっきまで関西は嫌いと言っていたのに!」その通り。演技だったのだ。

何故かその場にいる全員が死亡してしまうことすらある。何故なのか理解に苦しむ  ─── いささか受け入れがたい結論ではあるが、その場にいる人全員が関西人だった、ということなのだろう。さっきまで全員「関東出身」と言っていた筈なのだが…。

この爆弾は、破壊力が高すぎるため、『条約によって使用が禁止』されている様だ。この条約が守れない人は「空気が読めない」と言われる ─── つまり、恐らく僕の知らないところで集まって共同戦線をはって条約を決めているのだろう。


「東京もんは嫌いや!」

正直を言うと、東京者の僕も、『東京もん』は大嫌いだ。格好つけで中身が薄く、嘘を言ったり人を騙したり、真面目な人に迷惑を掛けてのさばる人ばかり。

だがしかし、今まで東京の関西人を見て来て漠然と思うのだが、そのムカツク『東京もん』のなかに、どれくらいの『エセ東京者』が混じっているのだろうか。若干興味のあるところだ。

普通という暴力

「普通」という言葉は、暴力だ。「そんなのは普通じゃない」「空気読めよ」 ─── だがこの言葉の不幸なところは、しばしば自分が普通ではないことを隠すために、先制攻撃的に「お前は普通ではない」「お前は空気が読めない」と弾幕を張るために使われることが多いことではないだろうか。

僕が東京に集まってくる無数の『田舎者』を見ていて思うのは、みんな多種多様でみんなそれぞれ違う、ということだ ─── これらのどこにも『普通』など存在しない。

強いて言えば、僕のような東京者が日本でいちばん『普通』の筈なのだが、僕が『普通』と言ったことをみんな素直に聞くだろうか ─── とんでもない。どんな正論だろうが、意地でも聞かないのが通例だ。

だが最低でもこれだけは言える。

─── 『普通』という言葉は、暴力であり差別なのだ。

基本的に、大勢の人が特定の個人を狙って『空気読めよ』と糾弾することで、無理矢理に自分らの意見を飲ませるというのは、端的に言って、暴力であり、差別であり、虐めである。都会に来て他人を蹴落とすのは、都会者の宿命の様なものだが、飽くまでも正々堂々と闘って勝ち上がるべきだ。他人に暴力を振るってはいけない。他人を差別してもいけない。他人を虐めてはいけない。

最低限、そこだけは守らなければいけない。

守らなければ次は、自分が斬った刀で、自分が虐められ、暴力的に差別されることになる。

それが街のルールだ。


著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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