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2016年1月15日金曜日

天才の自己認識 (oka01-gvrwyrrazkfkbgwd)

昔の日記を整理していて、ひとつだけ思ったことがあった。それは僕はひょっとしたら天才だったのかも知れない、という事だ。


他人が見たら僕が狂人になってしまったのではないか、と思うだろうが、実際のところ、僕は、僕が天才であるかどうかに、興味がない。

天才だとお金がもらえるだろうか。
→否。

天才だと人より偉いのだろうか。
→否。

天才だと人生がより楽しくなるだろうか。
→否。

天才は裕福だろうか ─── 否。大抵の天才は極めて貧乏だ。特定のことに病的なまでに強い情熱を示し、お金に興味を持たないからだ。 

天才は人より偉いだろうか ─── 否。天才は大抵、自分の興味対象以外はどうでもよい、と考えている。よってひと目を気にしない。服装や生活風習がめちゃくちゃで、大抵の人からは変人扱いを受けている。

天才は人生が楽しいだろうか ─── 否。天才は大抵、自分の興味の対象の事を考えることに取り憑かれ、もはや辞めることすらできないという、麻薬中毒患者のような面がある。生活に必要な衣食住を得ることにすら興味がなく、生活が破綻しがちで苦しんでいる場合が多い様に思う。

天才は、むしろ災害だ。

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色々な人を見ていると、自分自身の姿を自分の周辺の人に映しだしている、としか思えない様な行為をしばしば見掛ける。

例を挙げると『狂人のまわりは狂人だらけ』ということがある。その人自身が狂人であればあるほど、他者を狂人だと錯覚する。 特定の人につきまとって、泣き叫ぶわ、怒り狂うわ、暴力を振るうわ、狂気の沙汰を繰り広げる狂人に限って、大抵、その攻撃している相手のことを「狂人」だと思っている。

これは、自分自身の狂気を直視出来ず、自分の狂気の攻撃相手に自分自身の姿を投影させているからだ。

このような人はしばしば、彼の周辺が「狂人だらけ」になる。 彼は、彼のまわりの人間全員に自分自身の姿を投影することで狂人と認識する。そして狂人を罰する為に攻撃を加える。怒った彼のまわりの人間から反撃受けることにより、被害妄想の幻想は、遂に現実となる。 こうして彼の認知上、彼の周囲には狂人だらけになってしまい、周囲の人間を無差別に攻撃するようになってしまう。 

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狂人と同じ現象は「良い人」にも起こる。良い人を見ているとしばしば、『良い人のまわりは良い人だらけ』という現象が起こる。

その人の人柄が良く、感じよく誰に対しても尊敬がある人に限って、彼の認知上、彼のまわりは「良い人」で一杯になる。それは彼が、彼の認知上、彼自身の姿を彼の周辺の人間に投影しているからではないだろうか。

当たり前だが、自分の事を「良い人だ」と考えるのは決して褒められたことではない。よって彼は自分の「善人さ」を直視できなくなる。すると彼は、自分の「良い人」の姿を他人に投影し、彼の認知上、彼のまわりには良い人ばかりになる。

実際には彼のまわりには悪意のある人もいる。怠惰で不義理な人間もいる。だが「良い人」である彼が、そのような悪人を「良い人」として信頼して扱っている限り、悪人の悪性は抑圧される。悪人の行動を、可能な限り「良かれと思ってしたことだから」と良い方へ、良い方へと解釈し続けることで、悪人に対して善人として振る舞う様、無言の圧力が掛かる。

本当に良い人はしばしば、こういう投影機制的な傾向も持っているのではないだろうか。

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それと同じ現象が、ひょっとしたら僕にも起こっているのではないか:僕は恐らくだが、周辺の人よりも小賢しく頭が回るタイプだ。難しい技術を学習したり、難しい概念を研究したりすることは、苦手ではない。

僕は基本的に貧民街育ちであり、育ちが非常に悪いので、周辺にはそんな小難しいことに興味を持つ人間は皆無だった。

子供の頃は、クラスメート全員を頭の悪い人間として見下していたこともあったが、当然人間関係のなかでそのような傲慢さは去勢され、平凡な普通の人間として育ってきている。

そういう中で僕は、僕自身の「天才性」を直視できなくなっていたのではないだろうか。

何故かというと、僕の認知上では、僕の周囲には隠れた「天才」が多いと感じるからだ。

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繰り返すが、実際に僕が、天才であるか、天才でないかは、本質的な問題ではない。僕は、その事自体にもはや興味がない。どちらでもよい。天才であったにせよ、天才でないにせよ、僕は、僕にとって必要なことを地道にコツコツと順番に片付けていくだけだ。必要な事を遂行するにあたって、僕が天才であるか、天才でないかをはっきりさせる必要は、一切ない。

だが僕にとって一つだけ問題となることがある。

僕のまわりは「天才だらけ」だ、ということだ。これは恐らく、僕が僕自身の姿を彼らに投影してしまっている、その結果である可能性がある。

そういう中で僕はしばしば、僕が出会った『天才』に対して、過度な期待をして様々なことをやらせて、彼の器の大きさ以上の物事を投げかけて、彼を潰してしまい、大きな失敗を招くことがある、ということだ。

僕が彼を天才として扱い、敬意を払い、尊敬することにより、彼の平凡さが抑圧され、彼の隠れた才能が目覚め始め、本当に天才的な働きを見せることも、もちろんある。だがこれをやりすぎてしまうところが、僕にはある。

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苦労人の実業家が経済的な成功を収めた後で、無名の貧乏人を拾って過度な期待をして大役を負わせた結果、失敗を連発、彼の失敗の尻拭いに並走させられた部下が愚痴をこぼすという良くある構図がある。

僕にも、近い気質があるかも知れない。

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世の中、頭の良い人間などいくらでもいる。 才能あふれる人間も、いくらでもいる。そういう中で、自分の事を天才だと過信し、他人を見下してばかりいたら、命がいくつあっても足りない。

だが僕は今、東京のエリート街道をひた走る優秀な秀才の数々を相手に勝負をしている訳ではない。

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狂人のまわりの人間が、狂人扱いされる ─── 狂人扱いされた方はたまったものではない。大迷惑だ。

一方で、「良い人」のまわりの人間が、「良い人」扱いされる ─── 「良い人」扱いされたほうも実は、あまり嬉しくないものだ。

人間、色々と下心や怠け心があるものだ。適度に悪人扱いして放って置いて欲しい。だが「良い人」が来て自分を良い人として扱い、自分に「良い人」として振る舞うことを強制してくる。それもなかなか、鬱陶しいものだ。


さて、「天才」のまわりの人間が、「天才」扱いされる ─── 「天才」扱いされた方は、嬉しいだろうか... とんでもない、大迷惑である。

人間離れした努力は求められるわ、超人的な集中力の維持時間を当然の様に求められるわ、大役は担わされるわ、失敗した責任は勝手に第三者になすりつけられるわ、人生を棒に振る勢いである。


─── 自分自身のことは、それ以上でもなく、それ以下でもなく、ほどほどに認識しなければいけない。

さて他人のことは...。








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更新記録
- 公開 (Fri, 15 Jan 2016 18:59:43 +0700)
- タイトルを『天才の覚醒』から『天才の自己認識』へ変更した。(Sat, 16 Jan 2016 21:15:53 +0700)
- 編集ミス「天才扱いとして」を「天才として扱い」と修正した。(Mon, 01 Aug 2016 00:16:53 +0700)


著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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