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2012年8月8日水曜日

認知の海の向こうにあるもの (oka01-fyzliortdufdxiqw)

日本人は、外国語を学習する時、極端に文字に偏重する傾向がある。日本に住んでいるとこの事に全く気が付かないのだが、外国に行って外国の人と話すと、徐々にこの事に気がつくものである。 ───否、外国に行って外国の人と触れ合って何十年も経っているのに気が付かない人も多いのだが ───  日本人以外の人たちは、日本人ほど文字に拘わらない物だ。日本人で日本語を話し日本人しか見たことがないとなかなか気が付かないものだが、日本人の文字に対する強い興味は奇妙だ。何故だろうか。


何故だろうか。それは日本は海に囲まれた島国だからではないだろうか、と筆者は思う。 日本は、文字・哲学・宗教の多くを外国の文化を輸入する事で発展させてきた。 外国の文化は、必ず文字を通じて入ってくる。日本人は外国で生まれた文化や思想を、文字として読んで、文字として理解する。

往々にして外国の文化とは、死活問題に繋がる深刻な問題を解決する為の実践的な理論として生まれる。例えば、歴史的な理由から、ある民族とある民族が同じ地域に住むと、言語・文化・風習の違いから、各民族が顔を見る度に喧嘩をするという様な状況に陥る。 異なる民族は、何故理解し合えないのか。一体本質的に何が違うのか。そういう根本的な問題を解決する為に、比較言語学や、比較文化学などの思想/技術が生まれたのではないだろうか。

島国に住む日本人は、この様な抜き差しならない状況を知らない。日本語でしばしば「民族の衝突」と実に生活感の無い表現を使うが、具体的に「民族の衝突」がどういうものであるのか───それが如何に不愉快で腹立たしく田舎臭く馬鹿らしい問題なのか───を実生活上の経験として知らない。


こうして、実践的な経緯を持って生まれた思想が、文字となって日本に入ってくると、その元々持っていた抜き差しならない文脈がなくなってしまうところがあるのではないだろうか。 実践的な技術として生まれた思想が、文字として日本に輸入されると同時に、日本の有閑貴族の知的な遊びとして玩具化する。

「知っている」と「理解している」の間には、信じられない開きがある。 「知っているが、理解していない」ということはつまり、ペーパードライバーの様な物だ。本で読んで「これはハンドルです」「これがブレーキです」と言う様な事をいくら知っていても、実際に運転できるとは限らない。 もし勉強熱心な人が「これはMOMOのハンドルです」「これはレアルのハンドルです」とハンドルの知識を更に増やしても、運転が出来無いという点に違いはない。だが、殊に語学の世界では、無数のハンドルの名称を覚えている天才や、無数のブレーキの名称を覚えている秀才が、若干多過ぎやしないか。本来車の運転技術を磨くためには、どんな無知でも構わないので、実際に車に触れて走らせてあちこちにぶつけて実践を積む事が大切だ。理解に当たって知識は必ずしも必要はない。だが、実際に車を走らせる必要もない・走らせる場所も無いという島国日本で、知識は形骸化してゆく。

何故こうしたことが起こるのだろうか。以下で考えてみる。

横文字の現実

筆者は、タイ語が話せる。タイ文字も読み書きできる。 タイ語を学ぶ中で筆者が最初に思ったことがある。それは、タイ語は、日常生活上の発音を知らないと、読み書きが出来無いという事だ。

タイ語は基本的に英語のアルファベットと同じ表音文字なのだ。だが、英語がそうであるように、外来語の元々のスペルを温存する目的や、短くスマートに見せる目的で、複雑な規則を使って省略した書き方をする事もある。 この時、日常生活上で発音を見聞きしたことがないと、正しい規則を選択できないのだ。以下で実例を示す。

ขนมจิน  これはカノムチンというタイ料理で、日本のそうめんと同じ食べ物だ。このカノムチンだが、筆者はこの文字を初めて見た時「コンマチン」と判読し、何のことだかわからず小一時間悩んだ覚えがある。「カノムチン」という発音を知っていれば読めるのだが、知らないと読み方に複数の方法があるので、どれが正しい読み方だか判別しない。

แมลง  これはマレーンと読み、昆虫のことだ。だが全く同じスペルで「メロン」と読むことも出来る。幸運にもタイ語には「マレーン」と発音する単語はあるが「メロン」と発音する単語はない。よって「マレーン」という単語に聞き覚えがあれば「マレーン」と判別することが出来る。

この様に、元々どうやって発音するのかを聞いたことが無いと文字が読めない。

だがこの様に言うと「そんなことはないだろう!きちんと学習すれば音を知らなくてもタイ語の読み書きは出来る!」と日本人は必ず言う。それは確かに間違ってはない。 このサイトを見て欲しい。 ここに ขนมと同じ法則で読み書きする単語の一覧が出ている。例えば、これらの一覧を全て暗記する事で、元々の音声を知らずとも、タイ語を正しく読むことは可能だ。

実は筆者は、正直を言うと、大変な面倒くさがりなので、そういう勉強を一切したことがない。当然知識もない。だが日常生活上耳にする発音があるので、その発音からの類推でこの様な単語を読むことが出来る。それで充分事足りている。 恐らく99.99%のタイ人は、この様に実際の発音からの類推を持って正しい読み方を判別しているはずである。 であれば僕もそれに従うだけである。



筆者がここで強調したいのは、アルファベットを使う西洋人も同じ感覚でタイ語を学んでいるらしいことだ。 タイ語は発音が難しいので、なかなか話せるようにはならないのだが、読み書きに関しては深い理解を見せることが多い。それは恐らくタイ文字の読み書きにアルファベットに似た要素があるからではないだろうか。

Reference Information and Tables - thai-language.com
タイ語 ドットコム 参考資料


これは西洋の方が作ったタイ語の読み書きに関するサイトである。タイ文字の不読文字に関して非常に深い考察があるサイトである。 文字が発音に基づいており、その中でも読まない文字があり、その読まない文字の現れ方には一定の法則があり、その法則は歴史的な理由によって定まる…というような点に、タイ文字と英語のアルファベットの共通点があるのではないだろうかと、筆者は感じた。

西洋人がタイ文字の事をしばしば「タイ・アルファベット」と呼ぶのはそういう理由からではないだろうか。タイ文字はアルファベットと同じような読み方をする「表音文字」なのだ。恐らくだが、元々の発音を知っていれば類推から読むことが出来る、という点は、英語も同じなのではないか。

綴りの変化

ラオ語の方言を研究していると、音声ではなく文字として伝わった単語の読み違いが元で、方言が生まれるのではないか、と思われる例を見かける。これは筆者の単なる推論ではあるのだが、以下の様な例を知っている。

จริง チン (jing0) 「本当に」というタイ語の単語がある。これは頻出語であり、頻出語にありがちな、不規則な読み方をする。元々の読み方を知らないと絶対に読めないパターンだ。恐らくバーリ語が語源だと考えられる。

タイ語の方言の関係にあるラオ語には จริง チン という単語がない。 その代わりに ອີ່ຫຼີ / ອີ່ຫລີ イリー という言い方がある。

筆者はこれを見てこういうことを思う。 อ と จ は似ているので、よく書き間違えたり読み間違えたりする。 字が汚いお坊さんが、これを何度も書き写し、伝言ゲームの様に伝えていく内に、จริง だった物が徐々に傾き、อิรง に代わり、อิรี に変わってしまい伝わったのではないか。

元々จริงという単語は「チン」という元の発音を知らないと読めない単語である。書き写したモノを見たお坊さんが「あぁまたあの坊さんが書き間違えたな… なんだこれは…なんて読むんだ? これはきっとイリーか? きっとイリーという物があるのだろう。イリーと書いたものが曲がってこういう形になったのだろう。直しておこう。」という風に書き換えたのではないか。 (何故かは知らないが、ラオ語とタイ語を比べると、文字が右向きに傾いていく現象がある。いやラオ語が先で、タイ語に移転する間に文字が左に傾いたのかも知れないが。)

ラオ語文字が制定されたのは極めて最近で1970年代に入ってからだ。(タイ語とラオ語は基本的に同じ文字を使うが、多少形や読み方に違いがある。)ラオ語の発音は、R音のL化が進みつつある中にあるのだが、近年Rと書いてもLとして発音する単語が非常に多い。そこでラオ文字が制定された時に、近代Lと読まれているRを、最初からLとして綴る様に標準化した単語が多い。その統一作業の中で、元々 อิรี と書かれていた物が อิลี に変更された、ということは有りそうな事だと筆者には思える。

元々ラオ語には、同じ意味の ແທ້ ( thae: テー)という言い方があるので、恐らく อิหลี/ອີ່ຫຼີ の方が新しい言い方なのではないか、と筆者は推測しているのだが、筆者は歴史にあまり興味がないので調べていない。筆者はタイとラオの中間に住んでいるのだが、この地域の古文章を調べればこの事の真偽を調べる事が出来るはずだ。だが、実はこの地域の古文章は1892年の戦争の後に焚書があり、燃やされてしまって残っていないので、調べようもない。

実際のところはどうだかわからない。だが、書き間違え・読み間違えで違った発音として伝わったものが音声として定着したり、生活の中で音声が変化した結果として文字の読み方ルールに変更が加わる、或いは綴り自体が変更される…と言う様に、音声と文字が影響されたり影響を受けたりしながら言葉が変質していくという事がしばしば起こる点だけは、押さえておきたい。恐らくだが、この点に於いては、英語も同じなのだ。

発音の変化

ここで発音の変化にも触れておきたい。

おかあつ日記 : 『ラオ語の方言の声調について』
おかあつ日記 : 『ラオ語田舎弁の子音・母音の発音変化まとめ』

発音は、地域時代家族個人によって変化する。ある特定の発音変化が大きくなり、それが一般的になり、あまりにも綴りとの乖離が激しくなりすぎると、綴りの方が近代の発音に合わせて修正される事もある。 ラオ語の と L/ລ と R/ຮ の例が良い例である。詳しくは上記のリンク先を参照されたい。

読み方の変化

横文字を使う言語では、方言の違いが「綴りは一緒で読み方だけが異なる」という形で現れる事が多い。以下で実例を示す。

タイ語に アイ:ai という二重母音を表す文字は ไ と ใ の 二種類ある。 ほとんどの単語で ไ を使って綴るのだが、特定の20の単語だけは、ใ を使って綴る約束になっている。覚えるのが大変で、タイの小学生はこれを覚え歌等を使い、苦労して覚える。

ใ (マイムワン)を使う 20の単語
ใกล้  ใคร  ใคร่  ใจ  ใช่
ใช้  ใด  ใต้ ( ต้าย) 
ใน  ใบ  ใบ้   ใฝ่  สะใภ้  ใย (ยองใย, เยื่อใย, ใยบัว, ห่วงใย)
ใส ใส่  ให้  ใหญ่   ใหม่  ใหล (หลงใหล, หลับใหล, ใหลตาย)
ไม้ม้วน - วิกิพีเดีย

このマイムワンは、ラオ語の各方言…ビエンチャン語・イサーン語・タイ語共に、アイと発音するのだが、実はラオ北部の古都ルワンパバーンでは、ใ をアイではなくアウと発音する。つまり、ルワンパバーンの人は、ไとใを覚える苦労がない。話している通りに書けば良いのである。

筆者が見たことがあるのは、ルワンパバーン方言だけなのだが、他にも黒タイ族も同様な発音をすると聞く。恐らくだが、ルワンパバーンや黒タイ族の方言は、タイ語のより古い発音を残しているのではないだろうか。 より新しい方言である、ビエンチャン語・イサーン語・タイ語では、アイとアウの違いが退化してしまい、同じ発音に変化してしまっているのではないか。

この様に、それぞれ方言の関係にある、ビエンチャン語・ルワンパバーン語・ラオ南部語・タイ東北弁イサーン語・タイ語は、大抵の場合、文字にすると同じスペルになり、読み方だけが異なる場合が多い。発音と同じにならない部分は、ラオス語の様にスペルのほうが修正される場合もあり、バンコク語の様に古いスペルを優先する場合もある。

何故そうなるのか、筆者は知らない。だがこれは、表音文字を使う言語の特徴ではないだろうか、と筆者は感じている。

この文字と発音の相互影響は、英語にも起こるらしい。 筆者は表音文字のタイ語とラオ語を学ぶなかで、それが案外と英語と似ている事をしばしば思わされた。 その類似とは音声の存在だ。表音文字をつかう言語では、音声が文字に影響を与えたり、文字が音声に影響を与えたりする。

だが日本人が英語・タイ語・ラオ語を学ぶと、音声は完全に無視した状態で、文字だけに執着して研究する傾向がありはしないだろうか。文字しか見ていないということは、言語の半分しか見ていないことにならないだろうか。

漢字の現実

筆者が中国語を学ぼうと決心した時、筆者は中国語が一言も話せなかった。どうせ中国語など発音はタイ語と殆ど同じだし、字は日本語と同じだし、楽勝だろうと思った。 だが、筆者のその考えは甘かったのだ。三ヶ月間の雲南省にある華僑向け補習学校での中国語の特訓は、そんな自分の考えの甘さを思い知らされた経験だった。

実際に中国に入って中国語を学んでみて思った事は、中国語の漢字と、日本語の漢字は、全く別物だということだった。否、別物だという事以上の違いがあった。

筆者が昆明を訪れた当初、昆明の人の字を知らない事には心底うんざりさせられた。日本でもよく使われている様な熟語を見せても、知らないばかりか、字が読めない事も多い。日本と意味が違うことも稀でなかった。という訳で筆談は、殆ど使えなかった。

雲南省の人は「雲南語」と言われる言葉を主に話しており、北京語と発音が全く違う。しばらく滞在する内に、どうも彼らは元々漢字を使う人で無いような気がしてきた。 ─── ひょっとしたら彼ら独自の文字を持っているのではないだろうか ───

これは雲南省だけの問題ではない、という事を聞いて更に愕然とした。中国人は、学校で普通語を習わなければ決して普通語を話せるようにはならず、往々にして習っても話せるようにならず、中国人で普通語を正しく話せる人はむしろ稀で、中国人の為の普通語検定というものすら存在するという事を聞いて愕然とした。 普通語検定など、外人だけのものだと思い込んでいた筆者は、この話を聞いて大変なショックを受けた。

事実、現地の学校で普通語を習うに当たって、普通語が上達すればするほど通じなくなっていくジレンマがあった。普通語が上達するにつれてイジメられる事も多くなり、激しいジレンマを感じた。まるで普通語など習うな、と言わんばかりの状況だった。

「中国人」だから「中国語」を話すと思ったら、大間違いなのである。

中国語の漢字は、表意文字と言われているが、日本人が思うよりもずっと表音文字的な意味合いが強い。 中国語の漢字は、基本1文字につき1つの発音が割り当てられている。 稀に1文字に2つの発音が割り当てられていることもあるが、発音が変わる時は意味も変わる事になっている。(中国語も同音異義語が無数にあるので、発音を聞いただけでは意味がわからない。だが熟語になれば同音異義語はぐっと減るので、大抵の場合、熟語として二文字以上連続して言えば、どの文字か特定できる。)  よってひとつの漢字に無数の発音を割り当てている日本人から見ると、中国語の漢字は表音文字的な意味合いが強いと言えるのではないだろうか。

日本語の漢字は単独では意味がわからない。 日本人が会話上単語の意味がわかるのは、文脈からの類推が働くからだ。 もしも単発で「しょうこう」と書かれたら。それが田中商工会の「しょうこう」ことなのか、踏み台昇降の「しょうこう」のことなのか、麻原彰晃の「しょうこう」の事なのか、判別する事が出来無い。 中国語では、大抵発音が分かれているので判別が付く。

僕は日本人なので、中国人が日本人と同じように、文字に従属した言葉を話すのだろうと思っていたのだが、これはどうも違うらしいという事を漠然と感じた。 中国人も、タイ語やラオ語や英語と同じように、音声によって言葉が変化していき、それにあわせて文字を変更する、という事が行われているらしいことを知った。つまり、アルファベットを使う言語… 英語・タイ語・ラオ語と同様に、文字だけでなく、発音も知らないと意味がわからないという面が、中国語にもある。

漢字が読めない中国人も居るのだ。

非音声言語・日本語

筆者はこうした言語を学んだあと、日本語を振り返って思うのだが、日本語とは言葉が音声から遊離してしまった、文字にのみ従属した言語なのではないだろうか。

日本語は、他の言語と比べて、読み書きに必要な知識量が圧倒的に多い。もし日本語も英語やタイ語と同じように、音声に基づいて言語が整理されていたならば、日本語も読み書きに必要な知識量は少なかったのではないだろうか。

日本語では、イントネーションを文字に表す事が出来無い。だが会話上、単語の意味はイントネーションによって変わる。例えば、橋と箸は、東京では 橋はと後ろにアクセントをおいて読む。箸はと前にアクセントをおいて読む。 タイ語にはこのアクセントの違いを表す為の文字がある。これを声調記号という。 タイ語には漢字がないが、この様に声調記号の位置によって発音を区別し、発音の区別から意味を判別する決まりになっている。日本語にもタイ語と同じような声調記号を導入し、タイ語と同じように音声に基づいて単語を整理していても良かったはずなのだ。もしそうしたならば、日本語は漢字を使う必要がなく、日本語の読み書きはもっと簡単だったはずだ。
                    
日本語は、表音文字としてみると、非常に弱い言語と言えるのではないだろうか。 音声も表す事ができるが、日本語が持っているイントネーションまでは表すことが出来ず、読者のイマジネーションに委ねられている面が大きい。つまり表音文字を持ってはいるが表音文字だけでは不完全なのだ。



日本語は、表音文字の不完全性を補うため、漢字を導入した。漢字の導入により、日本語の表音文字としての曖昧さは解決されたが、同時に理解する為に必要な知識量が爆発的に増えたのではないだろうか。

英語・タイ語・ラオ語などは表音文字(アルファベット)の文化である。つまり、もしも知らない単語と出くわしても、その文字に書かれていることを、まるで楽譜を読むように、書かれているとおりに発音すれば、最低限読むことは可能だ。読んでみたら、聞いたことのある知っている単語かも知れない。つまり読むことに対して必要とする知識が少ない。全ては英語で26種類の文字・タイ語であれば42種類・ラオ語で27種類の文字の組み合わせで表現できる。ところが日本語の場合、知らない単語は読むことすら出来無い。日本語の文字を読むためには、必ず知識が必要で、読むことが出来なければ、意味も理解出来無い。

日本語では、読むという行為に対して要求する知識の量が多い。英語・タイ語・ラオ語は、読み方に対する簡単な理解を元に、無知識で全てを解読する事が出来るが、日本人は知らない単語は絶対に読むことが出来ず、解読には知識量を要求する。

人は言葉を覚える時、必ず音から覚える。いぬを指さし「いぬ」という音を発音し「いぬ」という言葉を覚える。「ねこ」を指さし「ねこ」と発音し「ねこ」という言葉を覚える。これは世界の言語に於いて、必ず共通の事である。しかし文字は、言語によって状況が異なる。

表音文字のひらがなではどうだろう。「い」が「い」という発音であることを覚える。そして「ぬ」が「ぬ」という発音であることを覚える。だから「いぬ」と 書いてあるものを目にした場合、それをひとつひとつ音声として発音することで「いぬ」という単語を再現出来る。その再現した自分の声を聞けば、かつて「いぬ」という並びを見たことがなくても、それが「いぬ」の事なのだ、ということを理解する事が出来るであろう。同様にして、かつて「ねこ」という並びをみたことがなくても「ねこ」を理解することが出来る。

ところが表意文字の漢字はそうではない。 もしも初めて「犬」という字を目にしたとする。これは音声に置き換える事が出来無い。よって何と読むかもわからない。よって、意味もわからない。 もしも初めて「猫」という字を目にしたとする。これも同様にして意味を理解する事は出来無い。「犬」が「いぬ」の事なのだ、「猫」が「ねこ」の事なのだ、 と理解するためには、予めこの字の読み方と意味を別な場所で学んでいる必要がある

表音文字と表意文字の違いは、学習プロセスに大きな違いを与える。

表音文字を使う言語では、全てを体験から学習する事が可能だ。その言語を話す中で、実際に身の回りで起こったことや、人と出会って体験したことが、音声と 結びつくことにより、単語とその意味を学習する事が出来る。そして後に本を読むことで、音声として覚えた単語を文字として再確認する事が可能だ。

だが表意文字を使う文化では、この実体験に基づく単語学習プロセスが使えない。表意文字の言語も、その言葉を話す中で実際に身の回りで起こったことや、人と出会って体験したことを音声として結びつける事で学習するという点に於いては、全く同じである。 だが、机の前で予め別途学習しない限り、音声として覚えた単語と、本に記されている文字は結びつかない。 理解するためには必ず全ての文字が既知である必要があり、文字は必ずその読み方と意味を別途学習する必要がある。

表音文字を使う言語では、言語の全てを経験から学ぶことが出来るが、表意文字を使う言語では、言語の全てを経験から学ぶことが出来無い。表意文字を使う言 語では、文字と音声が結びつける為に経験だけでは不充分であり、必ず知識が必要となる。よって知識を得る為に必ず実生活上の経験だけでなく机上ワークが必要になる。

日本語は、言葉を学ぶ時に、簡単な法則を理解することよりも、全てを知り尽くす事がより重要となるのではないだろうか。そしてこの性質が、日本人に理解よ りも知識量に重点をを置く傾向をもたせるのではないだろうか。 知識量が重要な日本語をネイティブの言語として話す日本人は、知識量よりも法則の理解が大切な外国語を学ぶ時であっても、無意識の内に理解力を使わずに全 てを知識量だけで解決しようとしてしまうところがあるのではないか。

本を読んで知らない字を見たとする。それを電話で友達に聞いて教えてもらう、という事が出来無い。漢字は、必ず実践とは別な所で学ぶ必要がある。日本語の文章を読む時は全ての文字が既知であることを前提としている。勿論他の言語にも読むことに知識を要求する場合もあるが、日本語はこの傾向が非常に強い。

日本語は解釈に必要な知識量が非常に多い。一説によると、日本語で最大の辞書は、英語で最大の辞書の紙量の倍以上あるという。 日本最大の権威的辞書と言われる 日本国語大辞典第二版 の公式ホームページによると、実に全20巻・収録語彙数は60万語という。一方、英語最大の権威的辞書である OED(Oxford English Dictionary) の公式ホームページによると、全10巻・収録語数は約252,200との事である。この様に、分厚さだけでも2倍・収録語彙数で2倍以上の違いが存在する。そして、英語辞書の中身の数割は派生語(接頭辞や接尾辞などを付けるこ とにより自動的に導き出される単語)であるという。この点だけを見ても、日本語が前提として要求している知識量の多さを感じさせないだろうか。


日本語の良さ

逆に考えることも可能だ。横文字表音文字の言語では、文字を見た時、それが何と発音するかわかっても、その意味がわからない。その言葉を耳にしたことがなければいけない。 この様に読み方は知っていても意味のわからない単語が増える。よって込み入った文章を読む時は、知らない単語を辞書で調べて、その意味を調べることが大切になってくる。

日本語は、その点奇妙である。日本語にはしばしば意味はわかっても読み方がわからない単語というものにしばしば出会う。文章を読んでいる時に知らない単語と出くわしても、知っている漢字からの類推で意味を察する事が可能だ。だがそこには発音が書いていないので、何と読むかわからない。

極端な話、今この場で、筆者が勝手に単語を作っても、漢字で書かれている限り読者はその意味を知ることが出来る。これは英語では難しい芸当だ。 今ここで「この性質を未知単語推測可能性と呼ぶことにしよう」と言ったとする。恐らく未知単語推測可能性という言葉をこれ迄に使った人は居ないだろうが、漢字を使っている限り、読者はこの意味を理解する事が出来る。


この様な時、英語ではしばしば アクロニム・acronym と言って頭文字を使った略語を使う。DDE OLE DLL COM 等々、技術的な設計書などは、複雑な技術を簡潔に表すため、文章中に無数のアクロニムが踊ることになる。 これらは漢字と違って、それだけでは意味を理解する事が不可能なので、大抵の場合は巻末付録によく使われるアクロニムとその意味の一覧が添付される。

英語の文章ではしばしば巻末にglossary・グロッサリーといって、その本の中で使われるあまり一般的でない専門用語などの意味を説明する付録が用意される。日本語の本では英語の本ほどにグロッサリーを見かけないような気がするのは筆者だけであろうか。それは漢字が意味を持っているので、特に説明しなくとも意味が伝わるからではないだろうか。

だがこの日本語の良い特徴も、ある程度の数の漢字を予め知っている、という事を大前提としている。日本語ではどうしても机の上で文字を学ぶ時間が必要だ。 英語やタイ語などの横文字言語の様に、まず体験から学び、それを文字でまとめるという順番で学ぶ事が難しい言語ではないだろうか。

逆に考えると、日本人はどうしても、横文字言語を学ぶ時、体験よりも文字を優先して学ぶクセが出てしまうのではないだろうか。 これまでに述べてきたように、横文字言語では、文字が音声と密接に結びついており、机上の学習よりも、体験によって学ぶ必要性が強い。にも関わらず、日本人は体験よりも文字を優先して学習しようとするところがあるのではないだろうか。

終わりに

…ここまで書いたが、結局日本語のどこが特殊なのか、説明することは出来なかった様に思う。日本語はあらゆる面から見て非常に特殊で、他国の人と言語に対する認識が全く異なる。だからどうしても日本人は外国語が苦手で、ひいては他国の人と感覚を共有する事が苦手だ。この日本語の特殊性を知ることは、国際社会を生きる日本人にとって非常に大切なことのはずだ。

だが恐らく日本人は、いくら説明しても日本語が特殊だという事を絶対に納得しないだろう。日本人は日本を比較する対象となる視点を一切持たないため、日本語が特殊だという点について、いくらでも現実的でない自由な視点を設定し、好きなように反論が出来てしまう。 そして、最終的に日本語だけが特殊だということがあろうはずがない、という点に落ち着いてしまう。わからないのだが、恐らく、日本語を使い日本語で考えている以上、日本語が特殊であるという事を説明する事は不可能なのではないだろうか。

日本人が外国語を学ぶ時、絶対に必要なことがある。 それは日本語で話す事を止めることだ。出来れば日本語で考えることも止める方が望ましい。ブラジル人やメキシコ人が英語を学ぶと、彼らの言語からの類推で英語を話し、訛っているかも知れないが、それはそれで英語圏の人から理解可能な状態まで行きつける。だが日本人は、日本語からの類推で英語を学ぶと、英語圏の人が理解可能な状態まで行き着けない。 何故日本語を止める必要があるのか。この問題と向き合うことで初めて、初めて日本語の特殊さを認知する事が出来る。

禅の言葉に「悟りとは知識ではなく、飽くまでも実践である」という言葉があるが、日本語の限界を知る方法は、それに近いところがあるのではないだろうか。

だが日本人は、禅に関してもひたすら「これはモモのステアリング」「これはテインのサスペンション」と知識をひたすら収集するばかりで、実際に運転したことは一度もない、という人が多くないか。

タイでは、言語のバーリ語・サンスクリット語から直接仏教を学ぶので、日本の仏教ほど複雑化しておらず、難解でないという事も大きいだろうが… 何も考えずひたすら禅を実践するタイ人を見ていると、知ることばかりに執着し何の実践もないままの日本人を筆者は恥ずかしく思うのである。



更新記録:
・語尾の間違い等を修正した。 (Wed, 04 Mar 2015 11:41:46 +0700)
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 00:36:15 +0700)
・hタグ前のhrタグを削除した。(Wed, 27 Jan 2016 00:38:09 +0700)


著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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