筆者おかあつが現在住んでいる場所は、タイの東北に位置するウドンタニーという県である。ここは国としてはタイであるが、隣国ラオスの首都ビエンチャンまで50kmしか離れておらず、文化的にはラオスである。文化的にはラオスだが、タイ国という建前上、学校ではタイ語を学び、タイの文字を学び、タイ語のテレビを見る。だがタイ語は飽くまでもよそ行き・建前上の言語であり、普段は100%ラオス語を使って生活している。僕はこのラオス語(タイ東北方言・イサーン語)を勉強している。
ラオス語は基本的に中央のない言葉だ。もちろんラオスという国家の標準語としてのラオス語は、きちんと制定されている。この標準語はラオスのビエンチャンに住む人が話すビエンチャン方言を元にして作られた、とされている。だが、ビエンチャン方言をネイティブで話す人自体が非常に少数派であるばかりか、そもそも誰が本物のビエンチャン人なのか不明だ。一説によるとビエンチャン人は19世紀の戦争の時、他の地域に移り住んでしまったとも言われる。一説によるとベトナム戦争時にその殆どがアメリカに移り住んでしまったとも言われる。実際の所は誰もわからない。そんな「自称ビエンチャン人」が話すビエンチャン語にはかなり大きな振れがある。
ビエンチャンから国境のメコン河を超えてタイ側のノンカイ県・ウドンタニー県に入ると、更に混乱を極める。ラオス語は飽くまでもタイ語の方言であるとされ、東北弁=イサーン語と呼ばれる。方言であるがゆえに誰も標準を制定しない。だからラオ語は地域によってバラバラだ。
そんな多様性が残されたラオス語でも、不思議なことにラオス人同士さほど意思疎通に困っている様子はない。それは何故かというと、ラオス語の方言変化には決まった規則が存在するからだ。この規則を知っていれば、相手が話す方言も比較的容易に理解出来る。その変化の多くは発音だ。 ラオ人なら誰でもその発音変化に慣れがあり、他の方言を話す人でも会話することが出来る。
だが、外国人が第二外国語・第三外国語としてラオス語を学ぶ場合、ラオス語の方言は、まるで同じラオス語とは思えない全く違った言語のように聞こえることすらある。ラオス語初学者にとって、ラオス語の方言は聴き取ることすらままならないというのが現状であろう。
ラオス語を話す時、正しいラオス語の発音・聴き取りよりも、むしろ相手の間違ったラオス語をどこまで寛容になれるかが、ずっと重要になる。ラオス語を話す者同士、そもそもどちらが正しい発音なのか誰にも断言できない。 発音が違ってコミュニケーションが難しいと感じる時、標準語を使って統一された発音で話そうとすると、大抵は更に混乱が深まるだけである。ほとんどの人が標準ラオス語であるビエンチャン語を話さないからだ。
この「相手の発音の違いに寛容」という事はどういうことだろうか。その為には、この発音変化の法則を知ることが大切だ。この発音変化は、声調の変化から子音の変化まで多岐に渡る。この変化をこの稿で全て説明する事は難しい。
面白い逸話がある。以下でその逸話とその理由を語っていこう。ラオ語の方言の面白さの一部ではあるが、垣間見せる事が出来たら、幸いである。
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先日の話だ。僕は、タイの大手スーパー「テスコロータス」に行ってアイスクリームを食べた。タイのアイスクリーム屋は、大体どこも同じシステムになっており、入れ物によって値段決められる。 コーンで10バーツ・カップで20バーツになっている。 アイス屋のオバチャンがイサーン語で「カップにするか?」と聞いたので、僕は「じゃカップで」と言った。 値段は20バーツの筈だった。だから「20バーツですよね?」と聞いたら、「40バーツ」と言われた。 僕は、その時点で何か変だなと思った。おばさんはどうもバナナスプリットパフェを作っている様だった。僕は何も苦情を言わず、あたかもバナナスプリットパフェを注文したように振舞って、40バーツお金を払ってそれを食べた。
後で辞書を見てみたら、おばさんと僕の間で起こった事が、だいたい自分の想像通りだったことを確認できた。 一体何が起こったのか。 これを理解する為には、ラオ語の方言の法則を理解している必要がある。
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参照 : おかあつ日記『ラオ語の方言の声調について』
タイ語・ラオ語共に、非常に似ている文字システムが使われており、タイ語ラオ語共に、文字は3種類のクラスに分けられる。それぞれ高子音字 中子音字 低子音字と呼ぶ。この高中低の違いが声調の違いを生む元になっている。 これに加え、長い母音・短い母音・即音節(語尾にk/d/bの子音が付く事)かどうか、声調記号が付加されているかどうか、等々の諸条件が加わり、最終的な声調が決定する事になっている。 これはチャートにまとめる事が出来る。このラオ語の声調規則を表にすると(【子音区分】高/中/低 ×【母音区分】平音/促音/第一/第二/第三/第四 ×【長さ区分】長母音/短母音) で表される三次元表になる。表上のマスがラオ語がもつ9つある声調の一つに対応している。この表ひとつがひとつの方言の対応している。
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大抵の場合は、タイ語のスペル通りの物を、ラオ語の声調法則に当てはめて読む事で、イサーン語の発音を模倣することが出来るが、中にはこの方法でイサーン語の発音を導き出すことが出来無いものもある。不規則な法則を持つ単語の殆どが日常的に多用する単語である。そういう単語では、大抵の場合、タイ語のスペルから声調規則を省いてラオ語の声調法則に当てはめたものに変化する場合が多いが、全てではない。
あ 中
か(k) 中
か(kh) 低高
さ(s) 低高
ち(j) 中
た(t) 中
た(th) 低高
な(n) 低高
は(h) 低高
ま(m) 低高
や(y) 中
にゃ(y) 低高
ら(l) 低高
わ(w) 低高
※ 低子音はห/ຫを付けて高子音に変更出来る為、低子音は必ず高子音とセットになる。
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ラオ語では、中子音に第二声調記号を付けることは比較的少なく、第二声調記号が利用されるのは家 ບ້ານ/บ้าน 等生活上頻出単語の場合が多い。これらの例以外では、例え正書法で第二声調記号がつけられていても、大抵第二声調記号が省略されるケースが多い。(タイ語の正書法とラオ語の正書法は大抵共通だが、ラオ語の正書法では、ラオ人の間で省略されたケースが、正式に取り込まれていることもある。逆にタイ人のあいだで正書法と違った発音が慣例になっていても、タイ語の正書法に取り込まれていない省略もある。)一方、第一声調記号は絶対に省略されない。ไก่ 等々。
この省略の仕方は、大まかには決まっているが、村によって異なる場合が少なくない。 この辺が、方言が方言たる所以である。外人がイサーン語を話すにあたっての実践面としてみても、中子音+第二声調記号か、中子音+声調記号なしかは、はっきりした法則が無く、どちらか迷う場面が多い。これはネイティブの人にとっても同じであるらしい。 ネイティブの人の場合、村の中でははっきりと省略パターンか決まっているが、村から出て街に来ると、他の人がどちらで話しているのかを、よく聞き耳立てて気をつけている必要がある様だ。
アイスクリームのカップの事を「トワイ」という。 ラオ語で ຖ້ວຍ タイ語で ถ้วย と書く。 一方、バナナの事を、タイ語で กล้วย ラオ語で ກ້ວຍ と書く。 ラオ語の高子音+第二声調記号は、第六声調の中低(大抵の地方では低低と省略される)である。一方、タイ語の高子音+第二声調記号は、第五声調の高中である。(タイ語声調区分で第二声調) 一方、中子音+第二声調記号は、タイ語もラオ語も共に第五声調である。だがラオ語の場合、前述の理由により、村によって第二声調記号が省略されていてもおかしくない。
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上記のアイスクリーム屋のおばさんは、村独特の訛りを持っていたのではないか、というのが僕の仮説だ。
ビエンチャン標準のスペル ກ້ວຍ バナナ → アイスクリーム屋のオバチャン村 ກວຍ
ビエンチャン標準のスペル ຖ້ວຍ 器 → アイスクリーム屋のオバチャン村 ທວຍ (第二声調記号が省略されるだけでなく高子音のຖが低子音のທに入れ替わっている。タイ語の影響である可能性がある。)
だが、これも飽くまでも仮説だ。ひょっとしたら、おばちゃんが外人顔の僕を見て、面食らって動転し、必死にタイ語を話そうとして間違ったのかも知れない。あるいは、僕の仮説の様に、こういう特殊な発音をする村があるのかも知れない。あるいは全く僕の知らない違った理由に依るのかも知れない。
僕がこの事件に遭遇したテスコロータスは、ノンカイ県の方面行きのバスが発着するランシナーバスターミナルの側にある。ここに居るとイサーン語の中でもラオ度の高い様々な訛りを耳にする。
加えてこの方面の人は、僕が「イヤ弁」と呼んでいる方言=二重子音ウアを二重子音のイヤに変えてしまう方言の人が多いのだが、あるいは、テスコロータスでバイトするようなおばさんは、もっと違う遠くの地方から来ているのかも知れない。 ウドンタニー県は、タイラオ国境地帯で最も大きな街で、実はラオス国の首都ビエンチャンよりも大きい。よってビエンチャンから大勢のラオ人買い物客が来る。一方、ラオのある地方では「ウア弁」と僕が呼んでいる方言がある。彼らは二重子音イヤを二重子音のウアに変えてしまう。そういう人も居る。だから、何があっても驚きはない。
イサーン語は、色々と一筋縄で行かないものだ。
(完)
更新記録:
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 00:12:18 +0700)