ファンキー学者肌
2010年10月11日23:55
Mon, 11 Oct 2010 13:15:47 +0700
ファンキー学者肌
チェンマイに来た。 10日の18:10の列車に乗ってひたすら13時間乗りつづけて到着した。 初めて寝台列車という物に乗った。 座席の上に折りたたみベッドが吊り下げてあって、寝る時間になると乗務員の人が来てこれを下ろして二段ベッドになる。
観光客の人がたくさんいる列車なので、何か向かいの人と話すのが面倒くさいなぁと思っていた。 乗りこんだら僕の座る席の向かいに何か西洋人の人が座っていて、何か面倒くさいなぁ、と思った。
僕は考え事がしたかったので、面倒くさいなぁと思っていたけど、この人は、何か関西人みたいに「構って頂戴オーラ」がモワーンと出ている。 僕はそのオーラに気がついていたけど、やっぱり面倒くさいのでずっと目を合わせないようにしていた。だけど、とにかく構って欲しそうだった。 それで結局話始めたのだけど、イタリアの人だった。
英語を話していて何かすごく恰好をつけている様に見えるのだけど、微妙に何か違うというか、本心は恰好付けたいなんて思ってないというか、何か日本人みたいというか、そういうところがあると思った。 この人に僕がイサーンで体験した「女系家族に於ける恐怖のおばあちゃんパワー」の話をしたら。 ラオのおばあちゃんは超強烈インパクト&強引さ&スーパー権力で、気分で何でも勝手にボンボン決めてしまうという様な話だ。 そうしたら、ビックリするくらいスムーズに理解するのだった。「あぁー!」という感じだった。 多分イタリアにもそういう「恐怖のおばあちゃん」がいるに違いない、と思った。
方言としてのラオ語の話もものすごくスムーズに理解する。 みんなしたり顔でタイ語を話しているけど、実はタイ語は苦手で、ラオ語が大好きという。でもそれを恥ずかしがって隠しているという様な話だ。 聞いたら、イタリアもタイと同じような事情なんだそうだ。 一応イタリア語という共通語があるのだけど北部語とか南部語とかあって、まるで通じない位言葉が違うんだそうだ。 で、ラオの話を聞いて、ウケてた。 イタリヤもやっぱりみんなタイと同じで「方言?そんなもの話したことないよ」という感じで隠しているんだとか。 だからか、ラオ語の事を話したら、すごいウケてた。
ラオ語とタイ語を比べると、多分西洋人にはラオ語の方が話しやすいと思う。 タイ語って声調の上がり下がりが激しく、細かいので、難しい。 一方、ラオ語は、歌うように上がり下がりするので、自然に発音しやすい。
マイペンライっていう言葉を説明する時、ふと思い出して「ケセラセラ」って言葉あるでしょ?って言ったら「何で知ってるの?」と言われた。 あの「ケーセラーーセラー」という有名な歌があるからって言ったら「あぁ!そうか!」と言っていた。 やっぱりどうも似たようなニュアンスであるらしい。
これぞ、まさにラテン系、と思った。
◇
一方、横にはずっとジャーナリストをやっていたというカナダの人が座っていた。 この人とも喋った。 物書きでノートを持ち歩いていてノートにはびっしり書き込みがしてあった。 そのノートの筆跡には、何か独特な美しさが宿っていて、あぁ文字が好きなんだなぁという気がすごくした。
写真も見せてくれた。 写真もすごく絵心があって綺麗な写真が多かった。 バンクーバーの人で、島暮らしなのだそうで、海の写真がいっぱいあった。 すごく理論的な人だと思った。 難しい抽象的な言葉を使ってもスラスラ理解するというか...。 僕は英語で論文を書く練習をしているので抽象的な言葉はたくさん知ってる。だけどそういう言葉を日常で使うと、全然通じないというか、訳が解らなくなる。 だから使えない。 だけど、この人には使えた。 こういう人たちと一緒に居たら英語すごく上達するんだろうなぁと思った。
だが、一方、ラオの話とか、恐怖のおばあちゃんの話とかは、あまり通じない。 何というか、そもそも、どういう切り口で説明したらいいのか、さっぱりつかめなかった。 学者肌なんだなぁ、と思った。
何かこの二人って対照的だよなぁ、と思った。
◇
色々考えるのだけど、僕は両方同時に出来るようになりたい。 一方では直感でギリギリまで論理的に考えている...一方では何にも考えないで本能だけでやりたい放題に動いている。 キースジャレットというピアニストがいる。 僕はこうなりたい。 すごく知的で美しくて論理的な透明な世界を構築...巨大な冷たい石作りの建築の直線的なデザインの中に、見えない程透明な水が流れされていて光が反射していたり、そこにガラスで空間が幾何学的に分割されて水面を映し出していたり ... しているかと思ったら、そこにいきなり、アフロヘアー爆発の豪快なおばちゃんがデブ汗かきながら仏頂面で旦那の首根っこをつかんで場末のスーパーで買い物している様な感じ。何それ、もう、台無し、みたいな。 片方ではものすごく論理的に考えているのに、もう片方では、何も考えずに感情のまま本能のままに行動している。
◇
何か、このふたつって表裏一体であるような気がしているんだよな...論理と感情って、正反対の事柄だけど、実は、両方共極めると、両端でつながっているというか、同じものであるというか...。
Mon, 11 Oct 2010 13:59:55 +0700
ファンキー学者肌
チェンマイに来た。 10日の18:10の列車に乗ってひたすら13時間乗りつづけて到着した。 初めて寝台列車という物に乗った。 座席の上に折りたたみベッドが吊り下げてあって、寝る時間になると乗務員の人が来てこれを下ろして二段ベッドになる。
観光客の人がたくさんいる列車なので、何か向かいの人と話すのが面倒くさいなぁと思っていた。 乗りこんだら僕の座る席の向かいに何か西洋人の人が座っていて、何か面倒くさいなぁ、と思った。
僕は考え事がしたかったので、面倒くさいなぁと思っていたけど、この人は、何か関西人みたいに「構って頂戴オーラ」がモワーンと出ている。 僕はそのオーラに気がついていたけど、やっぱり面倒くさいのでずっと目を合わせないようにしていた。だけど、とにかく構って欲しそうだった。 それで結局話始めたのだけど、イタリアの人だった。
英語を話していて何かすごく恰好をつけている様に見えるのだけど、微妙に何か違うというか、本心は恰好付けたいなんて思ってないというか、何か日本人みたいというか、そういうところがあると思った。 この人に僕がイサーンで体験した「女系家族に於ける恐怖のおばあちゃんパワー」の話をしたら。 ラオのおばあちゃんは超強烈インパクト&強引さ&スーパー権力で、気分で何でも勝手にボンボン決めてしまうという様な話だ。 そうしたら、ビックリするくらいスムーズに理解するのだった。「あぁー!」という感じだった。 多分イタリアにもそういう「恐怖のおばあちゃん」がいるに違いない、と思った。
方言としてのラオ語の話もものすごくスムーズに理解する。 みんなしたり顔でタイ語を話しているけど、実はタイ語は苦手で、ラオ語が大好きという。でもそれを恥ずかしがって隠しているという様な話だ。 聞いたら、イタリアもタイと同じような事情なんだそうだ。 一応イタリア語という共通語があるのだけど北部語とか南部語とかあって、まるで通じない位言葉が違うんだそうだ。 で、ラオの話を聞いて、ウケてた。 イタリヤもやっぱりみんなタイと同じで「方言?そんなもの話したことないよ」という感じで隠しているんだとか。 だからか、ラオ語の事を話したら、すごいウケてた。
ラオ語とタイ語を比べると、多分西洋人にはラオ語の方が話しやすいと思う。 タイ語って声調の上がり下がりが激しく、細かいので、難しい。 一方、ラオ語は、歌うように上がり下がりするので、自然に発音しやすい。
マイペンライっていう言葉を説明する時、ふと思い出して「ケセラセラ」って言葉あるでしょ?って言ったら「何で知ってるの?」と言われた。 あの「ケーセラーーセラー」という有名な歌があるからって言ったら「あぁ!そうか!」と言っていた。 やっぱりどうも似たようなニュアンスであるらしい。
これぞ、まさにラテン系、と思った。
◇
一方、横にはずっとジャーナリストをやっていたというカナダの人が座っていた。 この人とも喋った。 物書きでノートを持ち歩いていてノートにはびっしり書き込みがしてあった。 そのノートの筆跡には、何か独特な美しさが宿っていて、あぁ文字が好きなんだなぁという気がすごくした。
写真も見せてくれた。 写真もすごく絵心があって綺麗な写真が多かった。 バンクーバーの人で、島暮らしなのだそうで、海の写真がいっぱいあった。 すごく理論的な人だと思った。 難しい抽象的な言葉を使ってもスラスラ理解するというか...。 僕は英語で論文を書く練習をしているので抽象的な言葉はたくさん知ってる。だけどそういう言葉を日常で使うと、全然通じないというか、訳が解らなくなる。 だから使えない。 だけど、この人には使えた。 こういう人たちと一緒に居たら英語すごく上達するんだろうなぁと思った。
だが、一方、ラオの話とか、恐怖のおばあちゃんの話とかは、あまり通じない。 何というか、そもそも、どういう切り口で説明したらいいのか、さっぱりつかめなかった。 学者肌なんだなぁ、と思った。
何かこの二人って対照的だよなぁ、と思った。
◇
色々考えるのだけど、僕は両方同時に出来るようになりたい。 一方では直感でギリギリまで論理的に考えている...一方では何にも考えないで本能だけでやりたい放題に動いている。 キースジャレットというピアニストがいる。 僕はこうなりたい。 すごく知的で美しくて論理的な透明な世界を構築...巨大な冷たい石作りの建築の直線的なデザインの中に、見えない程透明な水が流れされていて光が反射していたり、そこにガラスで空間が幾何学的に分割されて水面を映し出していたり ... しているかと思ったら、そこにいきなり、アフロヘアー爆発の豪快なおばちゃんがデブ汗かきながら仏頂面で旦那の首根っこをつかんで場末のスーパーで買い物している様な感じ。何それ、もう、台無し、みたいな。 片方ではものすごく論理的に考えているのに、もう片方では、何も考えずに感情のまま本能のままに行動している。
◇
何か、このふたつって表裏一体であるような気がしているんだよな...論理と感情って、正反対の事柄だけど、実は、両方共極めると、両端でつながっているというか、同じものであるというか...。
Mon, 11 Oct 2010 13:59:55 +0700
コメント一覧
あび 2010年10月12日 00:45
イタリアってママンには逆らえないんだっけ?
oxoofo 2010年10月14日 03:01
>「ファンキー学者肌 」
良い名前。
自分もそうなりたい
良い名前。
自分もそうなりたい