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2008年12月20日土曜日

梶井基次郎が英語に訳されていない件について (mixi05-u459989-200812200210)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
梶井基次郎が英語に訳されていない件について
2008年12月20日02:10
大ショック。

http://en.wikipedia.org/wiki/Motojir%C5%8D_Kajii

梶井基次郎は、英語に一切訳されていないらしい。


         シ ョ ッ ク


日本人はこの100年、一体何をしてきたのだ。 寝ていたのか?


       ガーーーーーーン


英語を読むことに一生懸命で、英語を書くことは考えなかったのだろうか。


         バ カ か


こんな素晴らしい日本の作家を海外に紹介しようとした人が1人も居ないというのはどういうことだ!


---

12/20 2:56 追記

ひとつ気がついたことがある。 日本の英語教育は「読み書き偏重」だといわれて久しい。 しかしこの認識は正しくないのではないだろうか。 正しくは「読み聞き偏重」ではないか。

日本の英語教育には 「書き話し」がない。

外国語を学ぶ時、 「読み聞き」ができないと「書き話し」をマスターすることはできない、と思われがちだが、じつはそんなことはない。 きちんとセオリーを学べば「読み聞き」ができなくても「書き話し」をマスターすることは可能だ。 むしろ、「書き話し」が上達するにつれ、聞くとき、読むときに、その話し手の心情・書き手の心情がまるでじぶんのことのように感じられるようになる。 これこそが真の「読み聞き」の能力だ。 聞くこと・読むことだけをいくら練習しても「読み聞き」は上達しない。

全てを正しく話すことは不可能だ。 しかし、自分の知っている範囲内で、誤解がないように伝えることが肝心だ。 その「誤解がないように」という部分がミソで、これは相撲の「立ち合い」のように、動く相手に対して気を読みあうような「なまもの」的なところが多い。

そして大切なのは、そんな「誤解のないようにつたわる幅」を知っていれば、聞くときに相手のいうことが感じやすくなる、ということだ。

英語の勉強、というと、いつのまにやらひたすら英語の翻訳や映画の聞き取りばかりに専念しがちだ。 しかし、これは極めてアンバランスであるようなきがする。 むしろ、日本文学の短編を英語に訳したり、かたことでもいいので自分が思っていることを相手に伝えたり、という、発信することを勉強すべきでないか。


しかし、梶井基次郎なんて、日本語の基礎中の基礎であるような文学なのに、何でそれを誰も英語に訳そうとしなかったのか、さっぱり理解できない。


実は、今日、アンデルセン童話の The Shadow という小説を読んで衝撃を受けた。 凄まじい内容だった。 と、同時に、梶井基次郎の「Kの昇天」との類似性を感じた。 これが非常に面白い。 この類似性というのは、影響を受けた・与えた、というような具体的なものではなく、ふたりが偶然共通して持っていた同じ感性から、それぞれが全く違うテーマを紡ぎだした、とでもいうような、凄く抽象的な類似性なのだ。


コメント一覧
おかあつ   2008年12月20日 03:19
追記した。
 
出展 2008年12月20日02:10 『梶井基次郎が英語に訳されていない件について』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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