FaceBookが 面白くない理由1
2008年02月07日23:57
さっき、ふと 「そうか。FaceBookが何故面白くないのかわかった。 これって、要するに アタリショックと同じなんだ... 。歴史は繰り返すっていうけど、多分同じ事が起こっているんだろう。」と思ったので日記を書いたのだが、文章が乱雑だったので、すこしだけ書き改めてみた。
アタリショックってなんだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AA_%28%E4%BC%81%E6%A5%AD%29
アタリショックとは、もともとは1970年代後半のテレビゲーム不況の事を指す言葉だった。だけど、以降は、メディアだけじゃなくて、きちんとソフトに対してもクオリティーを維持する仕掛けを用意しないと、ソフトが退廃してメディアも共倒れになる、という法則の代名詞として使われることの方が多くなった。
アタリショックの反省があるからこそ、任天堂はソフトに対してもきちんと制約を定めて安易に『クソゲー』を開発できないようにした。
クソゲー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B2%E3%83%BC
ユーザーにしてみれば、メディアが好きだからソフトを買うわけではなくて、ソフトが欲しいから仕方がなくメディアを買うわけである。 つまり、メディアがどんなに素晴らしく高性能なのかには全く興味がない。 機械がどんなにヘッポコでもゲームが面白ければそれで満足なのである。 だから、メーカーにしてみれば、どんなに開発にコストをかけて手によりをかけて素晴らしいメディアを開発したとしても、ソフトの質の低下してしまえば、誰もそのメディアに見向きもしなくなる。 結果的にメーカーにとって致命的な結果を招いてしまうのだ。
つまり、野放しにされたソフトウェア開発が結果的にメディアの荒廃を招くという事をあらわしている。
それを防ぐため任天堂はソフトの開発をライセンス製にした。 だからこそ、今でもプログラマは WIIで自由にソフトウェアを開発したり出来ないわけだ。 プログラマにしてみればとても制約が多く魅力がないメディアであり、だからこそ日本のシステムは閉鎖的なのだ。 しかし悪い事ばかりではない。 だからこそ、ユーザーはあたりハズレを心配せずに安心してソフトを購入することが出来るのだ。
ここでメディアとソフトという言葉を使ったけど、メディアというのはゲーム機のこと、ソフトというのは ゲームソフトのことと読み替えてもいい。しかし、このことはゲーム機に限らず適用できる場合が多い。 ビデオデッキとかブルーレイディスクとか VHS BETAとか そういう再生機と再生されるソフトの関係を持つものは、ほぼみな同じ性質があると考えられている。
この点を一番良く理解しているのは日本人 ... というよりは任天堂やソニーで、ほとんど独壇場だ。 アタリショックという言葉が和製英語だということを聞いても僕は何も驚かない。 当然、アメリカ人にもそういう認識がないのだろう。 もっとも、アタリショックが和製英語でダメだっていうなら、社名のアタリは米製日本語なわけだし。
考えてみれば ハードに強くソフトに弱い日本人の性格を裏打ちしているのかもしれない。 車をとってみても、車は日本車・ドライバーは西洋人という組み合わせは、もはや定番化している。 ソフトが弱い日本では ソフトウェアの開発を野放しにするとうまく行かないと考えられているのかもしれない。 だからこそ、 Winnyを作ると作者が逮捕されるという結果にもつながるのかもしれない。 ドコモで 公式サイト・勝手サイトってきっちり線引きしたがるのもほぼ同じ理由だろう。 僕はそういう閉鎖的なやり方は好きではないが、乱立が荒廃を招くという現象が良くコントロールされているともいえる。
そういう見地から言って、FaceBookは アプリケーションの乱立を全くコントロールしておらず、とても質の低いソフトがたくさん出回ってしまっている。 場合によっては誤動作を行うようなアプリケーションや、マルウェアまがいなアプリケーションも乱立しているように思える。 加えて高いサーバー負荷が 更にアプリケーションの動作精度を落としている。
たぶんだけど、FaceBook はそんなに長続きしないと思う。 まもなく、そういう問題が改善されたソフトウェアが現れて、FaceBookは 完全に淘汰されるだろう。
アタリショックってなんだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AA_%28%E4%BC%81%E6%A5%AD%29
アタリショックとは、もともとは1970年代後半のテレビゲーム不況の事を指す言葉だった。だけど、以降は、メディアだけじゃなくて、きちんとソフトに対してもクオリティーを維持する仕掛けを用意しないと、ソフトが退廃してメディアも共倒れになる、という法則の代名詞として使われることの方が多くなった。
アタリショックの反省があるからこそ、任天堂はソフトに対してもきちんと制約を定めて安易に『クソゲー』を開発できないようにした。
クソゲー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B2%E3%83%BC
ユーザーにしてみれば、メディアが好きだからソフトを買うわけではなくて、ソフトが欲しいから仕方がなくメディアを買うわけである。 つまり、メディアがどんなに素晴らしく高性能なのかには全く興味がない。 機械がどんなにヘッポコでもゲームが面白ければそれで満足なのである。 だから、メーカーにしてみれば、どんなに開発にコストをかけて手によりをかけて素晴らしいメディアを開発したとしても、ソフトの質の低下してしまえば、誰もそのメディアに見向きもしなくなる。 結果的にメーカーにとって致命的な結果を招いてしまうのだ。
つまり、野放しにされたソフトウェア開発が結果的にメディアの荒廃を招くという事をあらわしている。
それを防ぐため任天堂はソフトの開発をライセンス製にした。 だからこそ、今でもプログラマは WIIで自由にソフトウェアを開発したり出来ないわけだ。 プログラマにしてみればとても制約が多く魅力がないメディアであり、だからこそ日本のシステムは閉鎖的なのだ。 しかし悪い事ばかりではない。 だからこそ、ユーザーはあたりハズレを心配せずに安心してソフトを購入することが出来るのだ。
ここでメディアとソフトという言葉を使ったけど、メディアというのはゲーム機のこと、ソフトというのは ゲームソフトのことと読み替えてもいい。しかし、このことはゲーム機に限らず適用できる場合が多い。 ビデオデッキとかブルーレイディスクとか VHS BETAとか そういう再生機と再生されるソフトの関係を持つものは、ほぼみな同じ性質があると考えられている。
この点を一番良く理解しているのは日本人 ... というよりは任天堂やソニーで、ほとんど独壇場だ。 アタリショックという言葉が和製英語だということを聞いても僕は何も驚かない。 当然、アメリカ人にもそういう認識がないのだろう。 もっとも、アタリショックが和製英語でダメだっていうなら、社名のアタリは米製日本語なわけだし。
考えてみれば ハードに強くソフトに弱い日本人の性格を裏打ちしているのかもしれない。 車をとってみても、車は日本車・ドライバーは西洋人という組み合わせは、もはや定番化している。 ソフトが弱い日本では ソフトウェアの開発を野放しにするとうまく行かないと考えられているのかもしれない。 だからこそ、 Winnyを作ると作者が逮捕されるという結果にもつながるのかもしれない。 ドコモで 公式サイト・勝手サイトってきっちり線引きしたがるのもほぼ同じ理由だろう。 僕はそういう閉鎖的なやり方は好きではないが、乱立が荒廃を招くという現象が良くコントロールされているともいえる。
そういう見地から言って、FaceBookは アプリケーションの乱立を全くコントロールしておらず、とても質の低いソフトがたくさん出回ってしまっている。 場合によっては誤動作を行うようなアプリケーションや、マルウェアまがいなアプリケーションも乱立しているように思える。 加えて高いサーバー負荷が 更にアプリケーションの動作精度を落としている。
たぶんだけど、FaceBook はそんなに長続きしないと思う。 まもなく、そういう問題が改善されたソフトウェアが現れて、FaceBookは 完全に淘汰されるだろう。
コメント一覧
おかあつ 2008年02月08日 07:20