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2006年12月16日土曜日

今日のJMMは、凄く面白かった...! (mixi05-u459989-200612161953)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
今日のJMMは、凄く面白かった...!
2006年12月16日19:53
今日配信された村上龍のメールマガジン=JMMは、すごい面白かった...! 普段アメリカの批判をしてる冷泉彰彦が、今回は日本を批判していて凄く面白かった。 凄く視点が的確だし、言葉がはっきりしていて凄くいい!

JMMは、絶対オススメ!
http://ryumurakami.jmm.co.jp/


以下... 無断引用 (問題があればすぐ消します)

 ■ 『from 911/USAレポート』第282回
「ストレスへの対応能力」

 ほんの短期間ですが、年の瀬の東京に戻っていました。時間が限られていたために、多くの方には失礼をしてしまっていますが、それにしても、歳末の日本は方向性の見えない、それでいて不況のどん底でもない不思議な静けさの中にありました。気がつくと構造改革のエネルギーはどこかへ消え失せています。誰も「安倍改革」などとは言わないのです。一方で、改革の痛みの方はじわじわと社会を追いつめている、そんな静けさとでも言いましょうか。

 アメリカも丁度、イラク政策の行き詰まりが共通合意になる一方で、その出口は見えていません。先行きの不安のある一方で、漠然とした好況感も残っています。社会のムードは最悪ではない、だが年明けの方向性は見えない、そんな中途半端な感覚は日米共通であるように思えました。人々が「PS3」や「Wii」に徹夜で行列するような少しだけ「のんき」な雰囲気などは、日米とも実に共通であって、似たような世相であることを物語っているようです。

 似たようだと言っても、やはり日本の社会の抱えている問題点の方がアメリカよりも重たい、そんな印象はやはり変わりませんでした。勿論、アメリカは強引な軍事外交政策で世界に「迷惑」をかけている点が日本とは違いますが、国内の社会にはまだまだ伝統的な価値観が残っていて、問題解決への枠組みや人々の生きる上での善悪の判断などは、そうした過去の遺産に乗って進めることができています。

 ですが、日本の場合は伝統的な価値は崩壊する一方で、新しい人々の生き方はなかなか見つからずに、社会の様々な領域で問題が出ていると見るべきでしょう。いわゆる「いじめ」の問題にしても、管理職「うつ」の問題、非正規雇用の人々を正規雇用に切り替えられない問題など、どの問題にも根深い背景があります。複雑な現代社会には、過去の価値観は全く役に立たない一方で、新しく一貫した価値観は生まれていない、そんな中、人々が自尊心をすり減らしながら、未経験の事態に対処する、そんなストレスに満ちた社会が今の日本だと言えます。

 何人かの方にお話ししたのですが、この日本の問題は「劣化」などというふうに卑下する必要は全くありません。世界の他の地域がまだ経験していない事態を、一足先に経験し、いわば人類全体に成り代わって「複雑な社会を相対化した価値と共に生きてゆく」というゾーンに突入しているのです。その苦悩も、混乱も、名誉ある戦いでこそあれ、何ら恥じ入る必要はないのだと思います。

 ただ、日本社会の苦悩を深くしているのは、価値観が相対化することで、単純な理念や信仰にすがることができない一方で、日本文化のどこかに「ストレスに耐える」工夫が弱い、あるいは工夫をしないことを「良し」としてしまう伝統があることです。問題に直面したときに、その問題の背景が複雑で、利害関係も錯綜していて出口が見えない、そんなことがあります。正にストレスフルな局面なのです。そうした局面の多くは問題に誠実に向き合うことでしか解決しないのですが、向き合い続けるということは「未解決状態」と共に生きてゆくことに他なりません。

 その「未解決状態」と共に生きていく、ストレスへの対応能力について、日本軍には問題があった、クリント・イーストウッドの監督した硫黄島二部作の「日本編」、『硫黄島からの手紙』は、このテーマを中心に据えた秀作でした。この映画はアメリカでも20日から順次上映される予定です。何しろ「字幕付きの映画」が大嫌いなアメリカ人ですが、最近では李安監督の『グリーン・ディスティニー(臥虎蔵龍)』の成功例もありますし、既にいろいろな賞を取っていることからアメリカの観客の反応が楽しみです。

 この『硫黄島からの手紙』は多くの人が指摘しているように、本来ならば日本人の監督によって描かれるべき日本軍への有効な批判が、アメリカ人の手によって初めて可能になったのは「国辱もの」だという見方があります。私も日本の観客の中で一瞬そんなことを思いました。根の深い欠点というものは自分ではなかなか描けないものだというのは一般的な真理ですし、何よりも日本の歴史観に関しては冷戦的な思想対立や気負ったナショナリズムのおかげで目が曇るのは仕方がない面があったのですが、今回のイーストウッド作品は、その点への反省を迫るという効果もあるのだと思います。

 それにしても、硫黄島「二部作」をほぼ同時に制作したという事実は重たいものがあります。アメリカ側では名誉やプロパガンダの象徴として大きな意味を持った「摺鉢山の星条旗」掲揚が、日本軍側からは「摺鉢山の陥落」という意味を持つ、その違いが見事に映像化されています。日本側の視点では大きな落胆と共に語られるだけでなく、星条旗は遠景として小さい一方で、高みからの威圧感も持って描かれているのです。戦争とはお互いに相手があり、通常はそれぞれの視点でしかものを見ることができない、その立場性というものの恐ろしさ、イーストウッド演出はそこまで人間というものを抉り出していると言うべきでしょう。

 何よりもこの映画に意味があるのは、とかく神格化され、また反対の立場からは日本軍の狂気などと逆の神格化がされがちな「玉砕思想」というものが、単にストレスへの対応能力の決定的な欠如に過ぎないということを暴露したことでしょう。(ややネタバレになりますが)中でも戦争後期に島嶼を放棄するような際に横行した「手榴弾自決」という歴史的事実を戦慄的な映像で描いた点が、映画としてこの『硫黄島からの手紙』を画期的なものにしているのだと思います。

 一点だけ私にとって気がかりだったのは、映画の中で歴史的背景があまり説明されておらず、日本の若い観客やアメリカの観客に取って、前後関係が分かりにくいのではないかという点です。この「手榴弾自決」の問題、海軍と陸軍の指揮命令系統の分断、捕虜投降を禁じた東条英機の「戦陣訓」の存在、レイテやマリアナ敗戦以降の情勢、制海権・制空権の意味、そうした前提知識がなくてはどうしてもドラマの意味が薄くなってしまいます。考えてみれば、事実関係としての歴史教育という点で、今挙げた各点は昭和史の中で外せない内容ではないでしょうか。

 そんなわけで、渡辺謙さんの演じた栗林忠道中将という人物が、いかに当時の陸軍では例外的な冷静さをキープしていたのか、という点は若い人にはなかなか伝わらない懸念があるのです。今回のプログラム冊子は、大変に丁寧に作られていて、歴史的背景の説明もそれなりにされてはいるのですが、やはり情報として足りないということは否めません。

 それにしても、渡辺謙さんの演技は見事でした。劇性を要求される台詞は大柄に演じておいて、語尾の部分にソフトな余韻を残させるというのは名人芸というしかなく、人物の輪郭を十分に際だたせていました。ただ「玉砕思想」と戦い続けて滅んでいくキャラクターにしては、演技が美しすぎるために一種の「滅びの美」すら感じさせてしまうのは欠点と言えば欠点でしょうが、渡辺さんの演技を通じてイーストウッド自身の死者への畏敬がかたちになっていると考えれば、それも致し方ないところです。

 私はこの『硫黄島』を観てイーストウッド特有の「死者への畏敬」を感じることができたのですが、それによって初めて『ミスティック・リバー』と『ミリオンダラー・ベイビー』の主題も理解できたように思うのです。それは不条理を前にして神にすがるのは「祈り」ではない、神に安易な回答を求めるのも「祈り」ではない、不条理を前にして神に対して「神よ、あなたは本当に存在するのか」と問い続ける、あるいは不条理を自分は受け入れられないのだということを神に訴え続ける、それが本当の「祈り」なのではないか、というテーマです。

 自身が演じた『ミリオンダラー・ベイビー』の老トレーナーは、何度も静かに祈りを捧げていましたが、あの祈りは「癒し」を求める逃避の行為ではなく、答えを求める依存の行為でもなく、ただひたすらに問題を抱え続け、痛みと共に生きる決意の行為なのでしょう。その精神の強靱さが、日本軍の玉砕思想やアメリカ軍の浅薄なヒロイズムを告発しつつも、死んでいった日米両軍兵士への敬虔な畏敬の感情は失わない、そのような表現の高みへと作品を導いていったのだと思うのです。

 玉砕思想に象徴される、日本文化の中にあるストレスに対する対応の「下手くそさ」は今でも様々に形を変えて残っています。利害の錯綜する渦中にあって自殺者の絶えない問題、善悪のレッテルを安易に貼ってしまう問題、社会の「空気」に過剰に反応して極端な行動を一律に取ってしまう問題、などどれも「ストレス対応への下手さ」という問題としてとらえることができるのでしょう。

 例えば、ボストン・レッドソックスが交渉権を獲得してからの松坂大輔投手の契約交渉に対する、報道の我慢のなさも同じような問題です。「契約の白紙撤回も辞さず」などというのは、交渉当事者の心理戦の一環に過ぎないのは「ミエミエ」であるのにも関わらず「もうダメだ」とか「強気すぎる代理人に振り回されている」などという感情論が噴出し、結果的に双方の心理戦に荷担しただけという滑稽な構図が出来上がってしまいました。これもネゴシエーションという文化に慣れていないというよりも、ストレスに耐えられない心理の反映とも言えるのでしょう。

 ある種の日本人はどうしてストレスに耐えられないのでしょう。それは自信が欠落しているからです。自信の背景にあるべき十分な自尊感情を持てないでいるからです。それゆえに、大きなプレッシャーを抱え込んでしまうと、冷静な対応ができなくなってしまうのです。本論の主旨とはやや離れますが、意識的な愛国心の鼓吹が問題なのもこの構図に似ています。愛国心論議の最大の問題は、その背景に「自国への自信のなさ」が見え隠れすることであり、その愛国心がどうして暴走するのかというと「どうせ自分たちは遅れているから何をやっても良いんだ」という勘違いを生むからでしょう。

 今回の教育基本法改正の最大の問題は、こうした「劣等感の裏返しに過ぎない意識的な愛国心」が無自覚なまま言葉になってしまったことにあります。愛国心を口にすることを憚ることに強さがあるというのは、何も日本が敗戦国だから自重しなくてはならないのではありません。イーストウッドが二本の「硫黄島映画」で自国を見事に相対化して見せたように、一般的な真理なのだと思います。

 日本文化は、ある意味で非常に長い歴史と、多くの異なった文明の良い部分を混ぜ合わせた洗練のおかげでそうした境地に達していたのではないでしょうか。意識的な愛国心なるものへの警戒心は何も敗戦という一事件の後遺症だけとは言えないのです。今回の改正論議の中で、そうした議論が全くされなかったのは、大変に不満と言わねばなりません。

 もう一つ、防衛庁の「省」への呼称変更も同じことです。呼称を大げさに変えることは強さの表現ではなく、弱さや不安の表現なのではないか、まるで軍人らしからぬバカみたいな笑顔で「省昇格」を喜ぶ自衛隊幹部の表情をTVジャパンの映像で見ていて私は大変に不安に思いました。シビリアンコントロール論議も妙です。昨今の米国の例にも見られるとおり、また日本でも軍事好きの政治家の無鉄砲ぶりが危なっかしい通り、現場の方が慎重であるということは良くあるのであって、文民統制を強化することが他国との紛争エネルギーを下げる(つまり安全を保障するということです)とは必ずしも言えないのです。

 ところで、ストレスに耐えることは手放しで良いことだとも言えません。問題の解決に向かうべき局面でも我慢してしまうというのはそれはそれで問題ではないでしょうか。例えば、今回アメリカに戻ってくるに当たって、私はトラブルに巻き込まれました。実は長年乗ってきたユナイテッド航空の成田=ニューヨーク直行便がこの秋で廃止されてしまったので、ワシントン(ダレス)空港での乗り継ぎを試したのですが、乗り継いだ地方航空線がキャンセルになってしまい、足止めを喰らったのです。

 便は定時に搭乗になったのですが、飛行機はいっこうに動く気配がありません。そのうちにアナウンスがあり、目的地のフィラデルフィア空港が悪天候で管制上の問題があるようで離陸許可が出ないというのです。そこで一旦降機して待機するようにとのことでした。やがて一時間遅れで再度搭乗、今度はゲートを離れたのですが、途中で事態が好転しないということでスポットで待機、更に二時間飛行機に缶詰めになって、やっと離陸したのは三時間遅れでした。

 ところが一旦はボルチモア上空まで行ったところで、目的地が濃霧で空港閉鎖となり代替着陸地としては「ベツレヘム=アレンタウン空港」というペンシルベニア州中部の空港を指示されたそうなのです。それでは余りに遠すぎて意味がないということで、ワシントンに引き返し、そこで正式に便はキャンセルになりました。午後十時を過ぎ、そろそろ静かになり始めた空港で、乗客は「カスタマーサービス職員」の説明を受けたのです。

 条件は「陸路振り替えは不可能、荒天理由の欠航なので航空会社としては返金には応じない、夜明かしの宿泊も提供しない」という昔では考えられないものでした。代替便への振り替えはするというのですが、翌日午後のしかもシカゴ経由などというメチャクチャな条件です。乗客はというと、この一連のトラブルの間、とにかく怒るというのでもなく、耐えるだけなのです。乗客同士には一種の連帯感のようなものも生まれてはいましたが、航空会社に食ってかかる人間は皆無でした。度重なる更正法適用やリストラを通じて航空会社の経営余力がなくなり、こうしたケースで「顧客好感度」をアップしても見返りがない、そんな時代になっているのでしょう。

 そして乗客達は、そうした事情を理解してしまっているようなのです。勿論、感情的になって職員に食ってかかるのが良いことだとは思いません。ですが、こうした状況に対して我慢できてしまうということも、問題解決のためには有害なのではないでしょうか。アメリカの場合、軍にしても衰退産業にしても、問題が出ても相当に「行くところまで行く」まで修正に動けない、その背景には、ストレス耐性が強すぎるという問題があるのかもしれません。

 私は夜明かし覚悟の「仲間」には別れを告げてホテルに退散し、翌朝の鉄道便で帰宅する選択をしましたが、今でもあの疲れ切った「仲間」の姿は脳裏から離れません。そこには、我慢ができるという強さもありましたが、諦めてしまう弱さのようなものも感じられたからです。勿論、その中には経済的な理由からホテル代や鉄道のコストを負担できない人もいるわけですから、「弱さ」などというのは失礼なのかもしれません。ですが、お客が物わかりが良くなりすぎることで、問題がそのままになってしまうのは、決して良いことではないと思います。

 そんなことを考えているうちに、イーストウッドが硫黄島「アメリカ編」の『父親達の星条旗』で「硫黄島の英雄」として戦時国債の販売キャンペーンに使われた三人の兵士について、三人三様の描き方をしていた、その理由が分かったように思いました。英雄視されてその気になってしまう一人はともかく、英雄視のプレッシャーに耐えられずに人格的に追いつめられてしまう一人と、最終的に家族にも何も語らずに苦しみを生涯背負って行く主人公の二人には、イーストウッドはその双方に自分の思いを託したのでしょう。

 ストレスを背負って何も語らない強さも、ストレスと向き合って見事に苦しむ誠実さも、どちらも人間に取って大切な美質なのだ、そんなメッセージがそこには感じられるように思うのです。これに日本軍の玉砕思想に対する「自分から死ぬなよ」というメッセージを合わせるとき、この二部作は現代に生きる私たちへの一つの大きな問いかけとして完結するのだと思います。

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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大
学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の心はどう変わった
か』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。
最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061498444/jmm05-22>


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出展 2006年12月16日19:53 『今日のJMMは、凄く面白かった...!』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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