あいまいなことば (イサーン語研究会に投稿した文章のクロスポストです)
2006年11月27日14:58
最近、タイ語ってあいまいだよなって思うようになりました。
最初は、僕が、タイ語が良くわかっていないからだろう、と思っていたのですが、ちょっと違うような気がしてきました。 ひょっとしたら、僕の回りにいる人がイサーン人オンリーだからなのかもしれないのですが...。
例えば、代名詞です。 英語だったら、 that this it he she they ... と状況によって沢山あるし、a と the があるので、それが何のことを言っているのか、かなり、厳しく特定できるような気がします。
ロシア語だったりすると、数のほか男女中性の別まであってかなりバリエーションに富んでいます。 より、厳しく細かいことを表現できるような気がします。
日本語も、一瞬少ないような気もしますが、「彼」や「彼女」「これそれあれ」の他、「奴」や「こいつ」とか、口語的な代名詞が結構色々あって、英語やロシア語とはまた違った。細かなニュアンスを伝えることができるような気がします。
で、タイ語なんですがニー(これ)ナン(それ)ノン(あれ)のほか「カウ」(それ・彼・彼女・その他) しかないのです。それに、聞いている感じ、「ナン」「ノン」は あまり主語にはならないようで、ほとんど「カウ」の独壇場になっているような気がします。
そうすると、こんなすごい文章... 「カウがカウにあれして、だからカウは、カウに怒ったけど、カウはそう思わなかったから、カウに文句をつけた」 とかそういう感じの文章になることが、極めて多いような気がします。
これって、当事者じゃないと、カウが全部で何人居るかすら判別不能です。 (例えば、この文章だと、カウは、最大6人まで考えられますが、2人かも知れません。 でも1人はありえなさそうです。)
普通に、おしゃべりをしている分には、全然オッケーだけど、お金が絡む話とかになると、いつもこれにイライラするので、最近は、必ず「カウっていうなよ!」って言うようにしています。
参考資料にもあげた「正調イサーン語」のホームページを書いている方は、僕なんかより全然本格的に勉強している方で、イサーン語もタイ語も詳しい方ですが、やはり、日記で「タイ語はあいまいだ」と書いていたのを見たことがあります。タイ語は、全ての形容詞が後ろについて名詞を修飾する言語だから、区切る位置によって意味が全然変わってしまう文章が出来上がってしまうというのです。
法律的な文章なんかだと、意味が分散してあいまいになってしまうので、とても困るそうです。 また、おかしなことに、法律専門家に電話して聞いてみたりすると、人によって回答が異なったりするそうで、更に輪をかけて困るそうです。
そのあたり来ると、日本語も、結構、あいまいな言葉な様な気がしますが、古くからの「やまと言葉」に加えて、中国語や韓国語から、積極的に言葉を輸入し、足りないところを補うことで、より厳格化した感があります。
そんな厳格化した日本語に対して、タイ語は、厳格化するよりも、敢えてそのまま、あいまいさの中で発展することを選んだのではないか、と僕は思うのです。
そういう気風は、例えば「座禅」の考え方なんかに表れているような気がします。
日本の座禅は、もちろん、色々な見方があると思うのですが、比較的、哲学的なものと結びついているのではないでしょうか。そういう内面の探求から始まって、それが最終的に「宮本武蔵も座禅を武術に取り入れていた」とかいうような、極めて実践的な応用にも結びついているような気がします。
タイの座禅の目的はずばり「温和になるため」なんだそうです。 僕は、これは、すごく言葉と結びついているように思えました。あいまいな言葉の世界で、いろんなな人が、いろんな違った解釈をしてしまうわけですが、その違いにいちいち目くじらを立てて怒ったりしないで、そのひとなりの解釈を尊重しよう、と言う柔らかな気風が、僕には感じられました。
(実は、正確を期すために書くと、「怒りを納めるため」と言う風に言われたのです。でも、これは、日本の座禅で言うような「怒りを納める」とはかなりニュアンスが違うのを感じました。だから、温和になるためとここでは書きます。)
国によってそういう風に言葉を「厳格化」したり「柔軟化」したりするように思うのですが、そんな言葉を厳格化した国に、イギリスがあるんじゃないか、と言う気がしました。
僕は、イギリスと日本には、意外と共通点があるよな...と感じる事が少なくないのですが... 今、日本でいじめが問題化しているのと同じ様に、イギリスでもいじめが問題化しているそうです。
恐らく日本もそうだと思うのですが、言葉が厳格になり、論理的な思考を人と人のあいだでやり取りできるようになると、逆に人と人の関係は疎になっていくのではないでしょうか。
厳格になった言葉を駆使して社会は経済的に発展していくんだと思います。 それは、すなわち、綺麗な建物が沢山出来て、道が清潔に保たれて、街が綺麗になって、おしゃれな喫茶店が出来て、色々なサービスが充実していくのだと思います。
でも、往々にして、こういう国というのは、なんというか... 人々の『理想像のスイートスポット』が異様に狭くなるような気がするのです。
男性なら ...「年収が700万円以上あって、背が高くて、学歴はxxx以上で、髪の毛はxxx風で、都内在住、残業はxxx時間以内で...」と言う風に...。 もちろん男性に限らず、女性にだってやはり同様以上に厳しく残酷な理想像が求められていような気がします。
厳格に発展していくと、その理想から少しでも外れると、忙しいばかりで、全然幸福でなくなってしまうという、なんともいえない、本末転倒が発生するような気がするのです。ひいては、どうせ、こういう状況では、子供を作っても幸せじゃなくて可哀想だ、ということで、少子化にもつながっていくような気がします。
要するに... 言葉が厳密化することで、社会でもたれている価値観が画一化していくんじゃないかな、という風に感じたのです。 画一化した結果、多くの人は、あまり幸せではなくなるような気がするのです。
なんか、こうして、タイにいる西洋人を見ていると、漠然と共通点を見つけてしまいます。いじめられっこだったり、家庭が複雑だったり、ハゲだったり、体のどこかに欠落があったり ... そんな、自国にいても一抹の居心地の悪さを感じてしまう人たちが、不幸の原因を厳格に追究せずに、あいまいにやさしく包んでくれるタイに惹かれてやってくるのではないでしょうか。
そんな『厳密な言葉』ですが、実は、人の気持ちについて語る単語は、ほとんど持ってないのかもしれないですね....。
最初は、僕が、タイ語が良くわかっていないからだろう、と思っていたのですが、ちょっと違うような気がしてきました。 ひょっとしたら、僕の回りにいる人がイサーン人オンリーだからなのかもしれないのですが...。
例えば、代名詞です。 英語だったら、 that this it he she they ... と状況によって沢山あるし、a と the があるので、それが何のことを言っているのか、かなり、厳しく特定できるような気がします。
ロシア語だったりすると、数のほか男女中性の別まであってかなりバリエーションに富んでいます。 より、厳しく細かいことを表現できるような気がします。
日本語も、一瞬少ないような気もしますが、「彼」や「彼女」「これそれあれ」の他、「奴」や「こいつ」とか、口語的な代名詞が結構色々あって、英語やロシア語とはまた違った。細かなニュアンスを伝えることができるような気がします。
で、タイ語なんですがニー(これ)ナン(それ)ノン(あれ)のほか「カウ」(それ・彼・彼女・その他) しかないのです。それに、聞いている感じ、「ナン」「ノン」は あまり主語にはならないようで、ほとんど「カウ」の独壇場になっているような気がします。
そうすると、こんなすごい文章... 「カウがカウにあれして、だからカウは、カウに怒ったけど、カウはそう思わなかったから、カウに文句をつけた」 とかそういう感じの文章になることが、極めて多いような気がします。
これって、当事者じゃないと、カウが全部で何人居るかすら判別不能です。 (例えば、この文章だと、カウは、最大6人まで考えられますが、2人かも知れません。 でも1人はありえなさそうです。)
普通に、おしゃべりをしている分には、全然オッケーだけど、お金が絡む話とかになると、いつもこれにイライラするので、最近は、必ず「カウっていうなよ!」って言うようにしています。
参考資料にもあげた「正調イサーン語」のホームページを書いている方は、僕なんかより全然本格的に勉強している方で、イサーン語もタイ語も詳しい方ですが、やはり、日記で「タイ語はあいまいだ」と書いていたのを見たことがあります。タイ語は、全ての形容詞が後ろについて名詞を修飾する言語だから、区切る位置によって意味が全然変わってしまう文章が出来上がってしまうというのです。
法律的な文章なんかだと、意味が分散してあいまいになってしまうので、とても困るそうです。 また、おかしなことに、法律専門家に電話して聞いてみたりすると、人によって回答が異なったりするそうで、更に輪をかけて困るそうです。
そのあたり来ると、日本語も、結構、あいまいな言葉な様な気がしますが、古くからの「やまと言葉」に加えて、中国語や韓国語から、積極的に言葉を輸入し、足りないところを補うことで、より厳格化した感があります。
そんな厳格化した日本語に対して、タイ語は、厳格化するよりも、敢えてそのまま、あいまいさの中で発展することを選んだのではないか、と僕は思うのです。
そういう気風は、例えば「座禅」の考え方なんかに表れているような気がします。
日本の座禅は、もちろん、色々な見方があると思うのですが、比較的、哲学的なものと結びついているのではないでしょうか。そういう内面の探求から始まって、それが最終的に「宮本武蔵も座禅を武術に取り入れていた」とかいうような、極めて実践的な応用にも結びついているような気がします。
タイの座禅の目的はずばり「温和になるため」なんだそうです。 僕は、これは、すごく言葉と結びついているように思えました。あいまいな言葉の世界で、いろんなな人が、いろんな違った解釈をしてしまうわけですが、その違いにいちいち目くじらを立てて怒ったりしないで、そのひとなりの解釈を尊重しよう、と言う柔らかな気風が、僕には感じられました。
(実は、正確を期すために書くと、「怒りを納めるため」と言う風に言われたのです。でも、これは、日本の座禅で言うような「怒りを納める」とはかなりニュアンスが違うのを感じました。だから、温和になるためとここでは書きます。)
国によってそういう風に言葉を「厳格化」したり「柔軟化」したりするように思うのですが、そんな言葉を厳格化した国に、イギリスがあるんじゃないか、と言う気がしました。
僕は、イギリスと日本には、意外と共通点があるよな...と感じる事が少なくないのですが... 今、日本でいじめが問題化しているのと同じ様に、イギリスでもいじめが問題化しているそうです。
恐らく日本もそうだと思うのですが、言葉が厳格になり、論理的な思考を人と人のあいだでやり取りできるようになると、逆に人と人の関係は疎になっていくのではないでしょうか。
厳格になった言葉を駆使して社会は経済的に発展していくんだと思います。 それは、すなわち、綺麗な建物が沢山出来て、道が清潔に保たれて、街が綺麗になって、おしゃれな喫茶店が出来て、色々なサービスが充実していくのだと思います。
でも、往々にして、こういう国というのは、なんというか... 人々の『理想像のスイートスポット』が異様に狭くなるような気がするのです。
男性なら ...「年収が700万円以上あって、背が高くて、学歴はxxx以上で、髪の毛はxxx風で、都内在住、残業はxxx時間以内で...」と言う風に...。 もちろん男性に限らず、女性にだってやはり同様以上に厳しく残酷な理想像が求められていような気がします。
厳格に発展していくと、その理想から少しでも外れると、忙しいばかりで、全然幸福でなくなってしまうという、なんともいえない、本末転倒が発生するような気がするのです。ひいては、どうせ、こういう状況では、子供を作っても幸せじゃなくて可哀想だ、ということで、少子化にもつながっていくような気がします。
要するに... 言葉が厳密化することで、社会でもたれている価値観が画一化していくんじゃないかな、という風に感じたのです。 画一化した結果、多くの人は、あまり幸せではなくなるような気がするのです。
なんか、こうして、タイにいる西洋人を見ていると、漠然と共通点を見つけてしまいます。いじめられっこだったり、家庭が複雑だったり、ハゲだったり、体のどこかに欠落があったり ... そんな、自国にいても一抹の居心地の悪さを感じてしまう人たちが、不幸の原因を厳格に追究せずに、あいまいにやさしく包んでくれるタイに惹かれてやってくるのではないでしょうか。
そんな『厳密な言葉』ですが、実は、人の気持ちについて語る単語は、ほとんど持ってないのかもしれないですね....。
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