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2013年5月30日木曜日

いくつかの空気の間で (oka01-rwskcztxmparvyrb)

あまりないことだが、昨日僕は、ある事に関して他人に怒って、自分から積極的に文句を言って、彼らをコーヒー店から追い出した。このことに関して、かわいそうな事をしたという気持ちがない訳ではないが、なんとも言いがたい複雑な気持ちになった。その気持ちについて書こうと思う。

タイでは本来他人のすることに関してあれこれと文句をつけることは好ましくないことと考えられている。むしろ寛大に許してあげる人こそが良い人と言うように考えられている。

僕もタイに来た最初の頃は、タイ人に色々いちゃもんをつけていたが、タイに長く住むにつれ、タイの人が持っていた思わぬ厳しいルールがあることを知った。そして僕が気付かずに犯したルール違反について、実はみんなが寛大に許していることを知った。 そうやって自分が許してもらっているのにも関わらず、自分は他人を許せない・許さないというのは、嫌らしいことではないか、と僕は思う。 確かに、タイ人的に見ても「それはちょっといかがなものか」という様な行為をするタイ人を見かける事もしばしばある。 だがそれも許さなければいけない。

だが僕は今日、本来あるまじき行為だが、キレてしまった。

僕がバンコクのアソークというビジネス街の真ん中にあるコーヒー店でネットをやりながら考え事をしていたら、タイ母・西洋人顔の男の子・西洋人顔の女の子の3人連れが来た。恐らく旦那は西洋人なのだろう。いかにもミヤファラン(西洋人の旦那を持つタイ女を表すラオ語)独特の出で立ちで、サングラスに高級ブランド品で身を固めた女性だった。

で、そのハーフの男の子がウクレレを持っていてジャカジャカならしながら歩いていた。座席についたあとも、ずっとジャカジャカ鳴らしている。最初は全く気にならなかったのだが、だんだんウクレレの音が煩く感じるようになってきた。そもそも、彼は曲を弾いている訳ではなく、ただ単にジャカジャカ適当にならしているだけだ。ひたすらボロンボロンと不協和音が鳴り響くのはあまり音楽的とはいえなかった。

僕は、考え事をしながらネットをやっていたのだが、なかなか上手く考えがまとまらず、だんだんその不協和音が非常に不愉快なものになってきた。 だが言い出せなかったし、そもそも言い出すべきでないとも思った。

試しに、その母親に視線を送った。アイコンタクトがあれば、自分で気がついて子供に言って止めさせるだろう、と期待したからだ。僕は、タイで生活するなかでウドンタニーに一番長く滞在している。もしウドンタニーでこれ位きつい視線を送ったら、99%の人は即座にアイコンタクトの意図を汲んで、率先して止めてくれる。だが彼女は、気が付かなかったし、そもそも僕が見ている事にも全く気が付かなかった。その後何回か視線を送ったし、その内の何回かはかなり露骨に視線を送ったが、彼女は全く僕の視線に気が付かなかった。

ここは首都のど真ん中、超高級ビジネス街のコーヒー屋だ。超田舎ウドンタニーのラーメン屋ではない。静かな座席についてネットをやりながら仕事をする事に、かなり高いお金を払っても居る。これは非常に迷惑だ。子供が煩い音を立てていたら、親がそれをたしなめなければいけない。いや、実際のところ、ウドンタニーのラーメン屋さんですら、もし子供がこんなに騒々しくボロンボロン楽器を鳴らしていたら、間違いなく近所のおばさんに叩かれて怒鳴られる。 なのに何でこの母は、子供に何も言わないのか。

しばらく我慢していたが、僕はキレた。

「イヨウ! ここはバンドの舞台じゃないんだけど。そのガキのギター煩いから止めさせてくれる?」だが、このおばさんは、強烈な空気読めない人だった。これだけはっきり言ったのに、後ろを振り向いて「はて…後ろに誰か居るかしら」とやっている。「お前だ!バカヤロウ!」

このおばさんがむかつく事に、ずっと僕に英語で話しかける。その上、僕がタイ語で話していることすら気が付かないで「ここはタイなんだから、タイ語で話して下さい」とか寝ぼけた事を英語で言う。終始英語で話すこの母に僕は「あなたはタイ語話せますか?」とタイ語で聞いた。「話せます。」「なら英語じゃなくてタイ語で話して下さい。」正直、何を気取ってるんだよ、と思った。

「よく見てくださいね。この人も仕事をしている。あの人も仕事をしている。僕だって仕事をしている。もうちょっと他の人に気を使って静かにして下さい!」

「あたしはただコーヒー屋でコーヒーを飲んでいるだけだし、別に仕事をしていると言ったって、みんなの職場ではないんだし。」

「ここは、バンコクのアソークです。田舎とちがってここはビジネス街なので、みんな働いているんです。もう少し『相応しさ』というものを考えて下さい。」

お母さんは、いろいろ言い訳を始めた。「僕は正直言って、言い訳は聞きたくないんです。ギターを止めてくれればそれで充分です。」

しばらくしたらお母さんが逆襲に来た。「子供がみんな泣いちゃったじゃないの!」 このハーフのクソガキ共がナキベソかきながら "You're not gentle!" って僕に食ってかかってくる。このガキは、外人なら何をしても許されるとでも思っているのか、と思って余計腹が立った。

そうしたらそのお母さんは、店員さんに「ここは別に仕事をするところではないですよね。」と味方につけようとしている。「店員さんは関係ない。僕が言ってるんです。」僕は、どう見たって日本人だし、誰がどう見たって都内人だ。常識を考えろというなら、僕が常識だ。店員さんは、関係ない。



いろいろなことを思う。

僕は空気が読める人が好きだが、とはいえ空気が読めない人が嫌いかというと、そうではない。むしろ空気が読めない人のほうが好きなくらいだ。 僕が空気が読める人間か、読めない人間か 、と問えば、僕は間違いなく空気が読めない人間の部類だ。

中国人は、空気が読めない人が非常に多いが、彼らは空気が読めない人をバカにすることはない。他人を全く気に掛けずに好き勝手な事をやりまくる空気が読めない人とコミュニケーションを取るためには、どうすればよいのか。 素直に言えば良い。 空気が読めない人は、大抵言えばわかる。素直に思ったことを言えば良い。「どいてください」とか「やめてください」とか「これしてください」と単刀直入に言えば良い。彼らは、にこやかに笑顔で聞き入れてくれるだろう。

「この人…後ろから人が来ているのに避けてくれない…何て空気が読めない人なんだ…」と思ったら、おもむろにその人の肩を掴んで優しく端っこに押して寄せてあげれば良い。乱暴な気がするが、こういうことをしても中国人は絶対に怒らない。 むしろそうすべきだ。

中国のドライバーは、みなクラクションを鳴らしっぱなしで、乱暴だと感じるかも知れないが、これはある意味優しさでもある。クラクションを鳴らしっぱなしの運転手は、空気が読めない人に、親切に車が来たこと、及びその危険を教えているだけで、決して威嚇している訳ではない。

タイ人は真逆だ。タイでは、こういう「道の真ん中をノコノコ歩くマヌケ」に優しくない。タイ人には、ここで中国人の様にクラクションを慣らして危険を教えてあげる様な、空気読めない人に対する優しさはない。いきなり直前まで急加速してぶつかるギリギリでブレーキングして威嚇したりする。ギャーギャー騒いで教えてあげるのが優しさなのが中国人ならば、ギャーギャー騒ぐ前にわかってあげるのが優しさなのがタイ人だ。

タイでは「道の真ん中をノコノコ歩くマヌケ」は、自分の事しか考えない身勝手な人間とみなされて、イジメの対象となる。 周りをよく観察して気配りして、相手に言われる前に気付いてあげるのが、優しさだと考えられている。

一方、相手に対して強い物言いをする人も「身勝手な人間」と考えられている。つまり言葉を使って「やめてください」「ああしてください」「こうしてください」と言うことに関しても「身勝手な人間のすること」という様な認識がある。例えば、中国人の様にクラクションを頻繁にならして運転する人は、大抵は、タイ人から身勝手な人間とみなされる。 飽くまでも、言葉で直接指摘することなく、優しくそっと伝えなければいけない。

もっとも言葉で言わなければ気が付かない様な鈍感な人は、少ない。大抵の人は、ちらっと見た視線の向きなどで、相手の思いを察知して、はっきりと言葉にして言う前に気がついている。ここでは、空気を読んで、他人の思いに気が付かない人は、ただの間抜けなのだ。

相手に言葉を使わずに物を伝える時に、強力な武器になるのは、視線だ。タイの人は(東北部の人は特に)常に他人の視線を非常によく観察している。よって視線を使うだけで、大抵の意思疎通は出来る。例えば、僕は、道端で手を一切動かさずにタクシーを思った場所に停める事が出来る。タクシーの運転手は、客を血眼で探しているので、殊にアイコンタクトがよく通じる。 



『空気が読めない人をいたわるのが中国。空気を読んで相手を思いやるのがタイ。』

僕はそう思う。

空気が読める人は、言葉を使わずに教える。言葉で言われる前に気づかなければいけない。気づかない人は、身勝手な人だ。

空気が読めない人は、言葉を使って教える。言葉で言われたら、それを素直に受け取って受け入れれば良い。受け入れられない人は、身勝手な人だ。

だけど稀に、そのどちらも出来無い人が居る。

空気が読めないのに、言われると怒る。

僕は、こういう人と、どうやって付きあえばいいのか、よくわかない。



さて前述の母に対して、どの様な対応を取るべきだっただろうか。

街人間の価値観として考えたら、彼女は論外だ。これは即座に文句を言って罵倒してよい行為ではないか、と僕は思う。そもそもコーヒー屋にじっと出来無い子供を連れてくるべきでない。当然だが、西洋人ハーフの子供であろうが、タイ人の子供であろうが、何人であろうが、それは同じである。これは、はっきりと迷惑行為と断言出来ることだ。

だが同時に僕は、タイという社会の中にあって、もっと田舎的に寛容さを持って付き合っても良いのではないか、と思ってもいる。しかしながら、彼女の上記の行為は、実際田舎人間としてみても、かなりわがままな部類に入る行動だ。そもそも田舎の人は、こういう風に周辺に迷惑を掛ける前に、周囲の目を見て、周囲の思いを自分から察して、自粛するのが普通だ。 もしも子供が周囲に迷惑を掛けても知らんぷりであったなら、恐怖のおばちゃんが来て罵倒される。むしろ罵倒しなければいけない。

もっとも田舎では、いかに相手が非常識でも相手に直接言葉で知らしめる事は、絶対にない。コーヒー屋の店員さんは2人とも東北の人だったが、実際この騒々しい客に対して何も言わなかった。ひょっとしたら、こういうケースでは客がトラブルを起こす前に、客にそれとなく言って伝えるのが彼女たちの仕事なのかも知れないが、店員さんは、寛容さがないと言われる事を恐れていい渋っていたのかも知れない。

ここの店員さんは頭を使う仕事をしている訳ではないので、多少煩くても我慢していれば良いかも知れず、実際には被害がないので我慢すればよい。だが僕は頭を使う仕事をしている訳で、ガシャガシャ音を立てられると、仕事に差し障るので、実際に被害が大きい。 店員さんと僕を比べる事は、出来無い。

確かに、寛容さは大切だ。以前、スターバックスでコーヒーを飲んでいたら、物乞いのおじさんが店に入ってきて、店の中で物乞いをしていたことがあった。この時も店の人は追い出したりしなかったし、スターバックスの客も多くの人は、このおじさんに寄付をしてすらいた。僕はこういう考え方が好きだ。だが子供と物乞いを比べるのもどうかと思う。子供にはきちんとやって良い事とやってはいけない事を教えないといけないのではないか。

恐らくはお母さんも(おそらくは東北ではない)田舎から来て、慣れない街で色々苦労をしているのかも知れない。だからあまり厳しいことを言ってはいけないかも知れない。だが一方で、彼女は、ハイソ気分で英語を話して高級な服やメガネを見せびらかして、西洋人の子供を連れて歩いても居る。こういう風な人は、お金持ちと見られるので、周辺に脅威を与えても居る。つまり、彼女は、多少わがままな事をしても周囲は何も言わないだろうと踏んでいるところもある。

確かに、田舎から出てきたばかりで、都会の事情を知らないということもあるかも知れないが、周りをよく見てその場に合わせる事は出来るし、多くのタイ東北の田舎者は、それを当たり前のようにやる。

また、空気社会の田舎に於いても、華僑系の人は空気が読めない事が多い。だがさすがにここまで酷くない。

バンコクの人で、特に会社で働いている様な人達は、相手が何か問題行為をしている時、優しい口調で、だけどはっきりと何が問題でどうするべきなのか、切々と説明する。日本人の僕が聞いていると、こういう時、バンコクの人は、口調こそ優しいが、日本人よりずっと直接的に指摘する様に感じる。僕も同じように丁寧にはっきりと言うべきだったかも知れない。

僕は、日本でも問題をはっきりと指摘しすぎるので「空気が読めない」と揶揄される事も多い。だが僕が空気を読んで、お前らはどうするのだ、と思う事も多い。僕が空気を読んでそっとしておいたら、お前らがやっているのは、結局サボりではないのか、と怒鳴りたくなる事も多い。

東北人(ラオ系)だったらどうするか。恐らく何があっても絶対に何も言わない。だが後でさり気なく嫌がらせをしたりすることも多い。こうやって相手の居心地を悪くして少しづつ追い出す。 だけど街に居て、何でそこまで気を使ってあげないといけないのか。もし長い付き合いの仕事仲間に問題があるなら、そうするだろう。だけどお金を払って来ている赤の他人の客同士で、なんでそこまで気を使わないといけないのか。

というかそもそも、何で僕はこんな見ず知らずの人に、ここまで高度なイマジネーションを働かせて、いろいろな事を思いやらなければいけないのか。それはそもそも彼女個人の責任で相手に働きかけていかなければいけない問題ではないのか。

何でこんなに腹を立てたのかといえば、それは音がうるさかったからではないのかも知れない。他人に対して全く配慮が無く、こちらから送ったいろいろなメッセージを全て受け取らずに無視したからなのかも知れない。

否、ひょっとしたら彼女は「音を立てると人が困る」という発想自体がなかったのだろうか。 そういう人も確かにいる。

実際どうだったかは、確認しようもない。

いずれにせよ、色々なメッセージやジェスチャーを送られたら、それは無視せずに、気付くべきではないか。

富める者・貧しい者・田舎者・都会者・洋の東西・村社会・個人主義・資本主義・共産主義・肌の色・民族・人種・全ての主義主張所属をを問わず、2人以上の人が集まる『社会』で生きるのなら、他人とコミュニケーションを取る事は必要な事ではないのか。相手の存在を無視した行為をとった場合、ペナルティーを求められてもやむを得ないものではないのか。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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