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2012年10月25日木曜日

ボラせる (oka01-drrwqqvwaegonxhc)


筆者は、タイ東北地方にある辺境の街ウドンタニーに長期滞在している。この地に携わる様になって7年目であり、最近はこの地方の独自の方言である「イサーン語」という言葉を話すことが出来る様になった。そこで発生する滑稽な事件の数々...。そこで『修行』という物の本質を考える。



最近、地元産の果物に凝っている。

というのも筆者は、これまでセブンイレブンや大手スーパーで豆乳や果物ジュースを購入して部屋で作業しながら飲むことが多かったからだ。タイのセブンイレブンでも日本のセブンイレブンと同じようにパック入りの100%果汁ジュースが売られている。筆者は100%ジュースが好きなので、タイでも同様に100%ジュースを飲んでいた。

ところが近頃、日本政府が放射能汚染の恐れが強い果物を積極的に海外に輸出しているというニュースを頻繁に目にする様になった。わざわざ、果物があまり採れない日本から、果物が豊富に採れるタイに果物を空輸し、タイ国内で売っているらしい事を知った。これは問題だ。タイの果汁100%ジュースは、恐らくもともと全てをタイ国内の果物を使って作っている訳ではない。果物の輸入元が、中国なのかシンガポールなのか、あるいはタイ国内なのか、あるいは日本なのか、知るすべはない。

そこで地元産の果物だけを食べるようにすれば良いのではないか、と最近考えるようになった。ウドンタニーは天然の果物が非常に豊富に採れる地域だ。パイナップル・マンゴー・パパイヤなどは、その辺の道端に生えている程である。他にもドラゴンフルーツやランブータンなどがタイ国内で採れ、国内で非常に安価で流通している。よってどこでも新鮮な果物が非常に安価に購入することが出来る。

地元産は安い。 セブンイレブンでリンゴジュースを買うと一本200ml入りで20バーツ(60円程度)だ。これでも既に十分安いかも知れないが、生の果物はもっと安い。例えば、生のリンゴをスーパーで買うと小玉が10個で80バーツ(240円)程度である。マンゴーが1個30バーツ程度・パパイヤの大きな玉で1個70バーツ(210円)程度・パイナップル1個70バーツ(210円)程度である。パック入り100%ジュースは割高である。 リンゴジュースを2本飲む値段で、果物をまるごと1個食べることが出来る。


だが問題は入手方法である。地元産の果物は当然地元の市場でしか売っていない。だが地元の市場に潜入する事は、決して簡単でない。 筆者は、これまで地元の市場に近寄ることは一切なかった。地元の市場とは、地元の人しか近寄らない場所で、西洋人・中国人・日本人を含め、外人は絶対に入ってこない。居るのは華僑をやってる潮州人・自分の畑で採れた野菜を売るラオ系タイ人・ベトナム戦争時に移民として渡ってきたユアン人(※)・中央タイや南部タイから行商に来るタイ人だけである。ここに外人が入ってくると色々なトラブルが起こる。

※ベトナム移民の事を地元ではユアン人と呼ぶ。恐らくベトナムを表す「越南」の中国読みである『ユエナン』が語源か。

ウドンタニーの市場は、異世界である。この文章を読んでいる日本人であれば「タイの市場」と聞いた時、チェンマイやバンコクなどの観光地にある夜市場をイメージする人が多いかも知れない。あるいは少しタイ歩きに慣れている人なら、バンコクの『泥棒市場』タラートボーベーなどをイメージする人も居るかも知れない。ウドンタニーの市場は、前述の市場と全く一致しない異世界である。

異世界を乱してはいけない。以前タイの田舎歩きが好きな日本人と一緒にウドンを歩いた時、この様な地元市場に何の恐れもなくどんどんと入って行き、周囲であらゆるトラブルを巻き起こしているのに気付きすらしない方がいた。筆者は面食らった。タイ語が話せないので、どの様なトラブルを起こしているか理解する由もないばかりか、気付きもしない。実際には彼はタイ語の一通りを学んでおり日常会話レベルはこなせたのだが、悪口を聞きとったり悪口を言い返したりするレベルには到底達しておらず、筆者が求める「タイ語が話せるレベル」には到達していなかった。異世界に於いて、無神経さは、必ずいつか深刻なトラブルを招く。彼は筆者に「考え過ぎだ」と批判的だったが、気付かなければ存在しないと考えるのは過ちである。

海外に於いて日常を卒なく無難に過ごすという事は、簡単な様でいて非常に難しい。その地を観光客としてさっと通り過ぎるだけなら簡単だが、驚かれたり、喧嘩になったり、笑われたり、バカにされたり、色々な事が起こるが、旅先の恥はかき捨てである。発生する問題は、一瞬で終わり、持続しない。だが、3年〜4年と言う様な長い期間の日常をスムーズに過ごす事は、これよりもずっと難しい。毎日同じ人と顔を合わせる事になる。つまり、喧嘩になれば気まずい。毎日喧嘩すれば怒りも鬱積する。逆もまた然りである。笑われれば腹も立つ。毎日笑われれば鬱積する。終いには怒鳴りたくもなる。 無視されたからと言って、こちらも無視し返せばよい訳ではない。 こちらが無視すれば相手の機嫌も損ねる。終いには相手に怒鳴られる。 要求されるコミュニケーションスキルが桁違いに高くなる。これらは全て、ネイティブスピーカーであれば誰でも簡単にこなせる事である。だが何の下地もない外国人が借り物の言語として学んでいる言語を使っている筆者の様な人間にとっては、これらのコミュニケーションを円滑に行う事が出来る様になる為には、大変な努力が必要である。

特に筆者は、独特な難しさを持っている。無難に過ごす事が難しいのだ。というのも筆者は顔が非常に日本顔であるらしいからだ。日本人とは実に色々な顔の人が混在する民族で、人によって顔がそれぞれだ。普通、単一民族というと、朝青龍の地元モンゴルの様に「お兄さんも朝青龍・お母さんも朝青龍・お父さんも朝青龍・おばあちゃんから女子高生に至るまで、全員朝青龍」とでも言うべき様に、みな同じ顔をしている。それが本物の単一民族だ。だが日本人は、顔に統一感が全くない。この日本人の顔は、外国に行くと色々な現象を起こす。人によっては、タイに滞在する間、黙っていれば誰も日本人だと思われない人も居る。人によっては、タイに滞在する間、どんなに流暢なタイ語を話しても即座に日本人と見抜かれる人も居る。何故こういう現象が起こるのか、何がこの様な多様性を日本人にもたらしたのか、謎は尽きない。だが最低限確実に言えることは、筆者は典型的な後者=日本顔であるという事だ。筆者は、ドイツに居ても、アメリカに居ても、タイに居ても、初対面であろうがなかろうが、確実に日本人だと言われる。黙っていればタイ人として騙し通せるというテクニックが全く通用しないばかりか、話すイサーン語が流暢であればある程に巨大な混乱が巻き起こる。筆者の容貌は、コミュニケーション力に極めて高いレベルを要求する。

これまで筆者は、地元の市場が苦手だった。何故ならば、筆者が地元の市場に行くと、毎回必ず何かしらのトラブルが発生するからだ。 だが最近筆者はイサーン語で世間話をする位のことは(発音が悪いとか言い方が違うとか年中苦情を受けるものの)こなすことが出来る様になった。 そこで今まで苦手意識を持って近づかなかった地元の市場にもどんどん入っていくようになった。

だが市場は、やはり強敵である。地元の市場は、ご馳走の宝庫だ。特に新鮮な果物が豊富で安い。だがこれも地元の食べ物に明るければの話で、ラオの食文化は、長らくラオの文化に慣れ親しんだ外人でも食べられない様な際どい食材が多い。カナブンやバッタの唐揚げから始まり、生の淡水魚を発酵させたパデックと呼ばれる調味料・アリの卵で作った和え物=ラープカイモットデーン・豚の生き血で作ったラープ・生の川エビ…等々等々、例えどんなに慣れていても、寄生虫に感染する恐れの強い食べ物が目白押しである。

筆者は、大体の物を食べることが出来る。 筆者は、豚の生き血だけは例外だが、他の物は問題なく食べられる。生の川魚等の寄生虫に感染する恐れがある食べ物を食べる時は、必ず蒸留酒と一緒に飲むことという様な食生活上の習慣も全て真似する。迷信と笑うのは簡単だが、こういう長年に渡って出来た生活上の経験談というものは、侮れない物が多い。今の所、筆者は健全である。

他所様の文化を理解するに当たって、食生活に適応する事は、とても大切である。 こういう食材のひとつひとつについて「これは食べられる」「これは食べられない」と批判的な姿勢を見せると「あぁ外人はやっぱり」と見られ、疎外感を味わう。 外地人からすればキワモノ食材だが、地元の人にとっては、滅多に食べられないご馳走である。

筆者は、この点に関しては問題なく適応している。幸運な事に、筆者は上記の料理を全て克服して、今では全て食べることが出来る。 豚の生き血だけは食べないが、これは地元の人でも食べない人も多いので、問題にはならない。

だが筆者は、存在自体が意表を突いているらしいのだ。大抵の人は筆者の顔を見て、外人が来たと面食らう。そこで人それぞれ本当に色々な反応を見せる。筆者がひとことイサーン語を話しただけで、爆笑する人も居る。怒り出す人も居る。全く何の変化もなく普通どおりの人も居る。 本当に千差万別の反応が返ってくる。 筆者が定食屋に入って「こんにちは」というと「へい、何にいたしやしょう!」ではなく、どういう訳か「一体何なんですか?」と聞く人も居る。定食屋に入って何ですかと言われるというのは、筆者としても非常に面食らう事である。定食屋に来たのだから飯を食いたい。こちらにしても「何なんですか?」と言われたら「ご飯が食べたいです」としか言い様がない。 そこで「ご飯有りますか?」と聞こうものなら、 店員は更に面食らって「ご飯が何ですか?」という様な反応を見せる。 そして筆者の返答を待たずして「ちょっと待って下さい、今主人を呼んできますので。」という様な反応が返ってくる。重々しく奥から主人が出てきて「初めまして、❍❍と申します。今回はどんなご用事で御座いますか?」みたいな事を言われた時に「えーチャーハン下さい、大盛りで」と言う時のバカバカしさを想像出来るであろうか。タイ人にとって飯を頼む事などたやすいことであろうが、筆者にとって飯屋で飯を注文するという事は、実に多くの困難を伴う作業なのである。

外人がイサーン語を話せる筈がない、と最初から決めて掛かる人も居る。筆者が話しかけるや否や「おーい!外人さん来たよー! ちょっとこのオッサンに英語話してやってー!」みたいな感じで話を他人に振る。そこで「僕も英語話せないです」と返答する。すると「そうかお前もか!ワリィワリィ俺も英語ダメダメで!ちょっと待ってな!」という様に、筆者の言う事が耳に入り100%理解しているにも関わらず、それがどうも筆者の言葉として認識してもらえず、夫婦漫才のボケツッコミの様に話が噛み合わず話がすれ違うことすらある。

筆者の顔を見て、筆者の言うことを端から聞く気がないタイプも居る。確かに筆者のイサーン語は、発音が悪い。発音が悪いが全く意味不明という事もない筈なのだ。日常生活上、発音が悪くて伝わらない事もさほど多くないし、そもそもイサーン語のネイティブを相手に話している限り、通じないということはない。ネイティブとはそういうものだ。ネイティブ言語を話している限り、発音の悪さを修正する能力が誰にでも備わっているものだ。だが外人の顔を見た瞬間、もう最初からコミュニケーションを取る気が失せて、何を言っても馬耳東風の人が居る。 「こんにちは」といっても返事がない。筆者の発音がいくら悪くても「こんにちは」位は聞き取れても良さそうなものだが、聞く気がないので耳に入らない。「これいくらですか?」という質問も同様に無視。何を言っても無視、どう工夫しても無視で、終いには「いい加減にしろ!」レベルになってくる。

それもある程度は慣れの問題なので、相手に筆者という人間に慣れてもらうまでの辛抱だという考え方もある。実際、筆者が住むアパートの近所で食堂を営むオバサンがそうだった。筆者はタイ語で話すとゆっくりにしか話せない。イサーン語の方が速く話せるし、相手が速く喋ってもイサーン語ならば聞き取れる。だがオバサンは外人である筆者の顔を見て、イサーン語など話せる訳もないだろうと決めて掛かりタイ語で話すので、筆者としては余計話しにくく判りにくくなってしまう。これでおばさんの中で、筆者がイサーン語が話せないだろうという思いを更に強めてしまい、更に頑張ってタイ語を話して余計話しづらくなるという悪循環に陥る。このオバサンとのすれ違いは看過しがたいレベルまでエスカレートし、一度は怒鳴り合いにまで発展した事もあったが、このオバサンの中で筆者がイサーン語を話すという事実が受け入れられてからは、今まで散々揉めていた事が嘘みたいにピタリと問題は収まり、同じ言葉を何度も何度も聞き返されたりする問題は起こらなくなった。

ある別なおばさんなど、10分くらいの長きに渡って筆者の言う事を全て無視するので、我慢も限界に達して頭に来て、文句を怒鳴りつけた事があった。怒られるかと思いきや、いきなりおばさん「あらー!イサーン語!」とひとしきり大爆笑して以降、話を聞いてくれる様になったこともあった。恐るべきことに、おばさんは筆者がイサーン語で話している事に10分間の長きに渡って気付いていなかったのである。当然気付いて以降、問題は雲散霧消した。この様に外国人がイサーン語を話すという事は、実に意表を突いた驚くべきことであるらしく、この様な事件は連日のように起こる。この様ないくら話しかけても端から聞く気がないという問題は、ほとんどが慣れの問題で案外と深刻度は低いのかも知れない。

筆者が一番困るのは、外人顔の筆者を見て簡単に騙せるだろうと勘違いする人だ。

筆者には、婉曲なギャグや嫌味でも理解する能力がある。というのも筆者は、イサーンのコメディーが好きだからだ。最近筆者のイサーン語レベルは上昇傾向にあり、以前は聞き取れなかったイサーン語のコメディーのオチが、ある日突然理解出来る様になるという事件が連続している。コメディーというものは非常に凝った作りをしているものだ。プロのコメディアンが長年にわたり日々努力して編み出したギャグが、コメディーの中でかなりのスピードを持って連発する為に、元々非常に理解が難しいものだ。これが理解出来る様になると、日常会話上でそこらにいる素人のおばさんが言う程度の嫌味など、訳なく聞き取れてしまう。 聞きとるだけでなく、ある程度なら言い返す事すらも出来るようになる。

この能力が問題を起こす。これは明らかに、タイに住む普通の人にとって大変に意表を突いた事態である。タイに住む多くの人にとっては、外人がタイ語を理解するということは、飛行機事故と同じように起こったら大問題だが日常感覚から言って絶対に起こらないとみなして構わないと考えるらしい。よって外人を見たら取り敢えず嘘を言って若干高めのお金を取ろうとする。 外人は定住していないので二度と出会うことは無いだろう、ましてやタイ語を理解してタイ語で文句を言ってくる事など、絶対に無いだろう、と考えている。つまり筆者がイサーン語で文句を言い返すという事は、完全に想定外である。この様なタイ語が話せる外人と出会う確率は、タイに住む普通の人にとっては飛行機事故の様に滅多なことでは起こらないことだが、筆者は常に筆者であり、違う人間に変化する事は出来無い。よって100%の確率でこの問題が発生する。 これは近頃の筆者にとって看過できない問題となっている。

タイの人にとって滅多に起こらない「飛行機事故」である筆者が、毎日市場で買い物をすれば、毎日そんな「飛行機事故」が発生する。まずタイの人にとって、筆者が返答した段階でもう既に想定外という面がある。例えば、小売店をやっているようなおばさんが、近所の人に聞こえる様に「外人は本当にバカだなー、何言ってもわからんしなー」とか大声で言っている時、筆者が「いや人にもよりますけどね」と返答したとする。筆者にとっては大変に面白い発言だが、その小売店のおばさんにとっては、死活問題に繋がる程致命的なダメージを受ける。対面・面目・メンツ・プライドが木っ端微塵に破壊され、翌日からそこに店を出すことすら苦痛になる。当然近所の人は「こないださ!聞いてよ!あのクソババァが外人からかってたら、いきなり外人がイサーン語で『いや人にもよりますけどね』だって!ガハハ!」という様な笑い話でもてはやされる事になる。 当然だが、相手がタイ人であればこんな油断した状況で攻撃したりする様な事は絶対にない。 即座に文句を言われて大問題に発展する事など、言わなくても判ることであり、わざわざトラブルを招くようなことはしないものだ。 ところが、筆者のように明らかに外人に見えるのに、中身が外人から大きく逸脱している能力を持っていると、この様な滑稽な状況を容易に招いてしまう。 反撃されないと思ってノーガードでジャブを打ったら、いきなり電光石火の鋭いダッキングの後にカウンターでアッパーカットを食らってワンパンチノックダウン的な状況がいとも簡単に発生してしまう。

往々にして外人をからかってストレスを発散する様な人は、頭があまりよくない人が多い。そもそも自分がタイ人相手に勝負しても絶対に勝てない事を知っており、だからこそ、その鬱憤を簡単に言い負かせるであろう外人にぶつけている面がある。そんな人が外人に言い負かされたらどうなるかというと、往々にして暴力に訴える事が少なくない。 よって、筆者としては出来る限りその様なトラブルは回避したいと思っている。 だがこういう問題は、しばしば意表を突いた形で発生する事が多い。当初から外人を騙そうとして話しかけている訳で、なかなか話しかけられた瞬間はさすがに騙されている事に気がつかない事が多い。その最初の一言での対応を誤ると、予期せず大問題に発展してしまう事が少なくないのである。



実は先日市場で、料金を騙された。騙されたのが癪だったので、もう一度市場に戻って料金の事で文句を言ったら周囲に30人以上のギャラリーが集まる大騒ぎになった。それはそうであろう。ボブサップの様な明らかに外人にしか見えない大男が吉野家に来て、いきなりダミ声で「ねぇ!ちょっとネギが少ないよ!ネギ!」「あぁ…それは申し訳有りませんでした」「ちょっとたるんでない? この店。ねぇ。ちょっと。テンチョどこ? こんなタルんでんじゃ『ギョク』サービスしてくれないと収まんないよ? イーキシ!(クシャミ)」と大騒ぎしている様な物だからだ。面白すぎる。そういう訳で周りに面白がった人が集まって見ていた。

相手がギャグの判るラオ系のおじさんおばさんならこういう振る舞いでむしろ仲良くなれるのだが、ギャグが通じないベトナム系の移民・怒りっぽい中部タイ人や南部タイ人・最初から騙す目的で来ている外地人相手にうかつな口答えをすると、いきなり刃物を持ってきて刺されてもおかしくない。事実筆者が問答になった人はベトナム系だった。問答になるとギャグなどを乱発することで出来るだけ争いごとを避けるラオ系の住民と異なり、ベトナム系の住民は感情的になると言葉遣いも非常に悪く「行き着くところまで行く」印象がある。非常に危険だ。

以前も、筆者がバンコクに滞在した時、気の短いぼったくり稼業の非ラオ系のオバサンと問答になり、興奮したオバサンに手元の文鎮を投げつけられ、筆者のおでこに命中し流血惨事になり、警察沙汰の大騒ぎになった。

バンコクで働く人々の99%はイサーン地方出身(ラオ系住民)だ。筆者がイサーン語を話すと99%の人は味方になってくれる。これは極めて危険なことだ。何故なら筆者が喧嘩を起こす相手は、ほとんどの場合非ラオ系の人であり、喧嘩になった時に100対1という様な予期しない「超有利」な状況になってしまう場合が多い。つまり予期せずに、相手を致命的なレベルまで追い詰めてしまい、窮鼠猫を噛む的な状況に追い込んでしまう。 その様なタイミングで傷害事件や殺人事件が発生する。 前述のバンコクでの流血事件がそうだった。



さて近頃、筆者の周辺でトラブルが増えてきた。筆者は、無能な人間である以上、無害な人間であった。だが近頃、この無害な人間の元で傷つく人が増えている様に思う。先日も筆者側近で発生した言論乱闘事件を目撃した方もいらっしゃるであろう。アホにアホと言われて反応する人間はアホである。筆者は、20年以上の長きにわたり、何を言ってもアホの戯言として無視され続けてきたし、その身分で不足はない。 だがその意識の持ち方が、実生活上の色々な問題を生み出すようになってきた。

そんな中で筆者が現在、自分自身に取って足りない、と感じている事を考えてみた。


1.上手に騙される事も大切だ。

話術のスキルが上がると、相手の嘘をいとも簡単に見抜けるようになる。だがこれだけでは生兵法なのだ。気付く嘘を片端から責める様な事をしては、買うのは恨みばかりで終いには自らを滅ぼす事になる。相手の嘘を見ぬくだけでなく、騙されたふりをしつつ、相手の嘘に嘘で返せる様にならなければ、この技は完成しない。嘘を暴露するという事は、嘘をつく者に取って強い衝撃を持っている行為だからだ。

気付かぬ内に相手の嘘を暴いてしまい、相手を動揺させてしまう事も、本来は有ってはならないことだ。いち早く相手の嘘に気付いた上で、その嘘に「乗って」一緒に嘘を言い続ける事が必要となる。 意図せず嘘を暴いてしまったことが如何に悪意ない行為であったとしても、それは必ず恨みを買い、いつか必ず復讐を受ける。


2.強い力を持つ者は、往々にしてその力を持つ者自身を滅ぼす。

色々な事を学び、色々な特殊スキルが身につき、長年の後にスキルに磨きがかかりよく切れる様になると、意図しない者に深刻なダメージを与えてしまう事がある。スキルがなければ、感情に任せ何も考えずに斬りつけても、切れが悪いので怪我もなく小さなタンコブが出来て仲直りし「めでたしめでたし」という様な状況で済むであろう。だがスキルに磨きがかかると何気なく肩を叩いただけで、肉を切り骨を断つ事態となり、予期せずに二度と取り返しの付かない状況を招く。「悪気はなかった」では済まされない。ライバルや敵はおろか、友人・知人・家族・恋人・両親を惨殺する結果を招く。

大きな力を扱う為には、自制心が必要である。原付バイクなら、無免許で事故を起こしても大したことはない。だが大型特殊自動車などを原付バイクと同じような感覚で運転したら、塀をなぎ倒し家屋を踏みつぶし中の年寄りや赤子を轢き殺しても気付かず走り去り、欄干を乗り越え橋に乗り上げ海に落ちようが、誰も止めることが出来無い。大型特殊自動車の運転には、自制心と責任が付きまとう。 同様に研ぎ澄まされたスキルを持つ者は、行動に自制心と責任が付きまとう。


3.挑戦を受けてはいけない。

闘いを挑まれても、挑戦を受けてはいけない。勝利には必ず大きな犠牲を伴うからである。

ある程度の修練を積んでいる人間なら、相手の実力を測る事が出来る。よって安易に挑戦を申し込んだりもしないものである。だが修練が足りない人間は相手の実力を正しく測ることが出来無い。触れるだけで即死するような致命的な危険にも全く気付かずに近付いてくる。あるいは、本能的に感じた恐怖の存在を否定する為に、無駄に吠えて挑みかかる。つまり強い力を持つものには、不思議と修練が足りないものが多く近付いてくる様になる。

無闇に挑戦を受けてばかりいると、無闇に惨殺が増える。惨殺すれば返り血も浴びる。ちょっとしたミスから怪我をすることもある。惨殺は他人にも知れ渡る。そして恨みを買って更なる挑戦を増やす。挑戦は更なる勝利を増やし、勝利は更なる挑戦を増やす。最終的に自らを滅ぼす。


4.衝突を回避する技術を学べ。

相手を一撃で惨殺する技術を身につけると同時に、惨殺を回避する技術も学ばなければ、技術の両輪をなさない。


5.自分の特性を知れ。(筆者から筆者自身に向け)

筆者は何故衝突を回避できないのだろうか。冷静にこの原因を振り返ってみると、恐らく筆者が衝突を回避したいなどとは夢にも思っていないからではないか。筆者は内心、衝突を望んでおり、心置きなく敵を甚振り精神的に惨殺する快楽を心のどこかで求めている。そして筆者はそんな精神的な惨殺を求め、惨殺しても大々的に許される文脈を血眼で探している面がある。だからこそ、衝突が回避出来ないのではないだろうか。

制約や束縛のある危険度の低い世界では、それでも構わない。だが世界は広い。ますます自由で危険度の高い世界に入りつつある筆者がその様な考え方のままでは、いつか身を滅ぼす。怒りを納めることが肝要である。 更なる修行が必要である。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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