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2012年5月23日水曜日

ゼロトラストとコミュニケーション (oka01-xqjejhhygcmdngie)

2012/5/22 大飯原発で反対運動をしていたデモ隊が強制排除された。合理的でさえあれば、それを他人に強制する事が出来るのだろうか。我々は、この事件があったことを決して忘れてはならない。

相手に自分への信用を強制する行為は、その段階で既に暴力だ。

英語でゼロトラストという言葉がある。何かに対して一切信用しない姿勢の事だ。ゼロトラストは、一切信用しないだけで、一切コミュニケーションを取らない、という事ではない。 日本語で「別に○○してくれなくても構わないと思ってやってるわけだから」という表現に相当する。人は、ゼロトラスト同士であっても対等に付き合うことが可能だ。

例えば、以下の様な条件の提示があったとする。
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。」
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。」

この時、如何に相手がゼロトラストであっても、

  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。」
    →「いいよ。別に100万返してくれなくても構わないと思ってやってるんだから。」
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。」
    →「別に毒が入っていても構わないと思ってやってるんだから」

という様に、相手が提示条件を守る事に対する期待を放棄することが可能なら、この条件を受けても構わない。この方法を使うことで、ゼロトラスト同士で対等に付き合うことが可能だ。

逆に、ゼロトラスト条件が飲めなければ、この取引はご破算という事になる。



ゼロトラスト条件が整わない場合、相手に対する必ず条件を守る期待=信用が必要となる。この信用を相手に対して与えるかどうかは、飽くまで任意だ。
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。」
    →「いいよ。今までもきちんと返してくれた訳だから。」
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。」
    →「いいよ。今までも別に毒入れた事なかったしな。」
或いは
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。」
    →「ダメだよ。今まで一度だって返してくれた事ないじゃねぇか。」
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。」
    →「テメェこないだ、これ飲んだ奴が病院に担ぎ込まれてるだろ。」

この信用を与える行為が、飽くまで任意である限り、対等と言える。相手に対して自分に対する信用を前提した行動を、相手に強制するのは、その段階で既に暴力だ。 これは対等な取引とは言えない。
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。条件飲めぬ場合、この場で死んで頂きます。
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。飲めない場合、この場で死んで頂きます。
この取引は、対等ではない。



信用を得る段階で、相手が自分に対する信用を証明する情報を提示する事がある。しかしその情報自体、本当である確証はない。
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。この資料をご覧下さい。これまでの返還実績と喜びの声が!」→「ふむふむ。この資料は、なかなか面白い。
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。科学的鑑定結果の資料をご覧下さい。 」→「この資料、嘘クセェな。
その情報を信用するかどうかも飽くまでも任意である。任意であるならば、その取引が対等であると言える。
  • 「私に100万円預けて頂きます。契約終了後に必ず返します。この資料をご覧下さい。これまでの返還実績と喜びの声が!」→「何だ、この資料嘘クセェな。」→「ほほぅ…信用できないという事なら、残念ですが娘さんの命は保証できないことになります。懸命な判断をお願いしますよ。フフフ。」→ 「…」
  • 「この液体を飲んで頂きます。毒は入っていません。科学的鑑定結果の資料をご覧下さい。」→「何だこの資料は。矛盾だらけじゃねぇか。」→「資料が正しくないとお考えになるのも、自由。ですが、条件を飲んで頂けない場合、あなたの身の保障は出来ませんな。」→「…」
これは資料を信用する事を強制している点から見て、これらの取引は対等ではない。

資料の提示は、取引の成立に何の影響も与えない。何故なら、その資料を信用するかどうかも、飽くまで任意であるからだ。その資料が如何に科学的であろうが、それを採用するかしないかに対する判断には影響を与えない。その資料を判断材料として採用するかしないか判定するのは、飽くまでも任意だからである。

ここでもし仮に、その資料が科学的な妥当性を検証することが可能であったとしても、資料として判断材料として採用するかどうか判断するのは、飽くまでも任意である。
  • 「今回のお得な取引の情報ですが、科学的鑑定結果の資料をご覧下さい!」→「なかなか良く出来た資料だな。特に矛盾も見つからない。」→「なるほど。では契約して頂けるので?」→「いや、契約はしない。」→「何故ですか?」→「気がむかんのじゃ。

ここでもし、資料が科学的な妥当性を検証可能ならば、必ず契約しなければいけないのであれば、それは対等な取引ではない。このことは容易に理解出来る。

  • 「今回のお得な取引の情報ですが、科学的鑑定結果の資料をご覧下さい!」→「なかなか良く出来た資料だな。特に矛盾も見つからない。」→「なるほど。では契約して頂けるので?」→「いや、契約はしない。」→「何故ですか?」→「気がむかんのじゃ。」→「資料は妥当なんだから、契約しないという訳には行かないんですよ、お客さん。」「…」

話が長くなったが、僕が言いたかったのは以下の点である。

今回の北九州の瓦礫焼却と強制排除の問題は、明らかに暴力である。

  • 「瓦礫を焼却して頂きます。放射性物質は入っていません。 条件が飲めない場合、公務執行妨害で逮捕します。放射性物質は入っていないのだから、受け入れを否定する理由はない。」
これは最後の例と同じ論法である。 これは相手のゼロトラストを許容して居らず、対等ではない。この姿勢は、暴力と断定できる。

反論の機会も与えず、権力と暴力で強制排除する、このやり方は、騙しですらない。騙しというのは、相手の意見を聞いている状態があって初めて成立するもので、ある意味公平な手段である。これは騙しではなく、明らかな暴力である。


我々に出来る事は少ない。だが我々は、今後この暴力を、はっきりと記憶に留めておくべきである。