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2011年12月16日金曜日

メモ:正しい言葉 (mixi05-u459989-201112160846)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
メモ:正しい言葉
2011年12月16日08:46
「標準語とは軍隊と学校を持った方言である」と誰かが言ったけど、標準語も方言だと思うことがとてもよくある。 例えば、ある単語が標準と方言の間を行ったり来たりして、どんどん違う言葉になっていく事に気がつくことがしばしばある。これがすごく面白い。

たとえば、ラオ語で「いくら?」のことを、多くの地域ではタウダイというのだけど、ラオの南部の人のあいだで、ダ行がラ行に訛ってしまう人がかなり居る。 こういう人たちは「タウダイ」のことをしばしば「タウライ」と言ってしまう。

で、タイ語(バンコク方言)では、この訛った後の言い方である「タウライ」の方が標準だ。 バンコク人は、逆に、ラオ人の発音が間違っている、正しいラが間違ったダに訛っていると思っている。

果たして本当にラオの方が訛っているかというと、そうとも言い切れない。 「ムカツク」という意味の「クリアット」という単語がある。 これには実は語源がある。ラオ語で「キーディアット」または「キードゥアット」という言い方がある。 これはキーという人の「~という傾向がある」という意味を表す単語と、炎が燃え上がるという「ドゥアット」または「ディアット」という単語を組み合わせた言葉で、「怒りっぽい」事を表し、転じて人を嫌うという意味で使われる。

上で「ディアット」または「ドゥアット」とふたとおりに書いた。それは何故ならば、実は地域によって発音が違うからだ。 東北では往々にして「ドゥアット」の方が標準に近いと考えられているのだが、「ディアット」と発音する人は少なくない。 この「ゥア派」と「ィア派」の対立というのが、タイ東北のイサーン地方にはある。 西に向かう程、「ィア派」の方が優勢になる。 で、チェンマイにつくと、すっかり「ィア派」が優勢になって、そちらの方が標準になってしまう。(この言葉の事をカムムアンという。カムムアンはタイ語北部方言と呼ばれるが、実はラオ語の方言で、チェンライ・ルワンパバーン語と極めて近い言葉)

バンコク語での多くの単語は「ゥア派」で統一されている事が多いので、一応「ゥア派」がより現代的で「ィア派」は方言でイナカッペという話になっている。

で、標準タイ語の「クリアット」なのだが、このどちらかというと、タイ東北で、訛っていると考えられている「ィア派」の音が訛って出来ている。ここでも、ダ行がラ行に鈍ってしまうところが見て取れる。 ここでもし仮に、クリアットの発音が、標準とされる「ゥア派」から来ていたら、バンコク語では「クルアット」になっていた筈だけど、そうは言わない点に注意する必要がある。

で、クリアットなのだが、実はこのあと、更に激しい訛りに晒される運命にあるのである。 この「クリ」は、タイ語では kli と 二重子音で発音する事になっている。 元々ラオ語で kii diat だったのが kliat に変化している物なのに、皮肉なことにラオ語には二重子音がないので、ラオ人は kliat と発音できないのである。 だからラオ人が標準タイ語を話そうとすると、このクリアットkliat は キアット kiat と更に二重子音が省略される鈍りが加わる。 こうして、意味は同じなのに、キーディアット・クリアット・キアットと三つの単語が出来上がる。

更にこの話の混乱に拍車を欠けるのが、勘違い訛り修正だ。

例えば、元々 kiat と発音する超イナカ者が居たとする。 彼が街に出てくると、必死で自分が田舎者であることを隠そうとする訳だが、自分の訛りを隠そうとして、折角正しかったキアットを、「これはひょっとしたら自分がイナカ発音「ゥア派」だからこう発音するのかも」という恐れをいだき、わざわざ間違った、クアットに直してしまう、と言ったことが本当に起こる。 余計訳がわからなくなる。

だけどこういう話し方をする人も、相当数いるので、そういう変化球が来ても即座に打ち返せる様に心構えをしておく必要がある。

上で説明した事は、僕が知っている訛りの中の、ほんの氷山の一角だ。こういう例が無数にある。 例えば、もうひとつ「ボー派」と「モー派」が居る。これは、更に混乱している。 地域の傾向があまり見られず、村ごとにバラバラに違う。だから、村から出たらボとモは入れ替わっても一緒、と頭に叩きこんでおかないといけない。 麻薬のことを普通はヤーバー(狂人の薬)というのだが、これをある村ではヤーマーというくせ、狂人はバーのままとか。

あとよくあるのが、ギャグでわざと、「田舎間違い修正」をやることもある。喜劇などでは、この訛りが起こす奇想天外なハプニングが格好のネタとなる。 つまりこういう訛りに対する耐性は、一般常識であり、タイ語を話す人なら誰もが持っているものなのだ。

こういう風に、言葉は、方言と方言・方言と標準・標準と方言、の間を行ったり来たりする。



本当に標準タイ語を話す人など、いない。 一人もいないと言って過言でない。 というか標準タイ語を話すと、思いっきり目立つので、浮いてしまい敬遠されてしまう。 標準タイ語は、目立ちたいという変な人か、他人に敬遠される事に快感を覚えるタイプの人が話す言葉である。

よく日本人が「正しい言葉とは何か」って討論している。だがその様な設問では絶対に答えは出ない。 「みな話し方が違う」という事しか言えないではないか。

もちろんもっと具体的に定義をすることも出来る。 「みな話し方が違う」という中にも、いくつかの訛りという概念を持ち込むことで、変化の法則を見つけることが可能で、このような抽象的な動きのある定義になる筈である。 少なくとも、どれが一番正しいかという固定的で絶対的な定義ではない。


こういう事情は中国語でも、全く同じだった。 英語も同じだろう。というか、恐らくは日本も同じなのだ。

コメント一覧
はらぽん99   2011年12月16日 10:14
こんにちはお邪魔します。

やはり、面白いですね。
むかし学校の英語副読本で読んだジョージ・ミケシュという人(ハンガリー系だったかな)の本で、こんな感じの一文がありました。
「どうしても"英国人の英語"がしゃべれない。唯一の慰めは、"完ぺきな英語"が話せる人間などこの世にいないということだ」

ちょっとうろ覚えですがそんな趣旨で、これを思い出しました。
Kohlrak   2011年12月18日 15:52
実は、英語では、全く正しく話せる人がないと思います。そう話せる人がいたら、とても珍しいです。「正しい言葉」が不自然だと思いますね。書くときに問題がないと思うねけれど、話すときに無理だと思いますね。正しく話せる日本人がいませんかね。日本に住んでいないので、知れませんよね。
 
出展 2011年12月16日08:46 『メモ:正しい言葉』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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