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2011年4月25日月曜日

ウドンタニーに二週間滞在した後、バンコクに来た。 (mixi05-u459989-201104252022)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
ウドンタニーに二週間滞在した後、バンコクに来た。
2011年04月25日20:22
24日・日曜日の朝9時ごろ、無料列車でバンコクに到着した。 12時間ただひたすら列車に乗って揺られて、到着した。 ものすごく疲れた。

僕は、今回2011年3月8日から始まった中国旅行で、北京・天津・上海・深圳・広州・昆明と徐々に南下し、ラオスに入国、4月11日に、ルアンパバーンからビエンチャンへ移動し、ノンカイからタイに入国した後、ウドンタニーの農村部に住んでいる、祖母・孫の二人暮らしの知人の家に二週間泊めて頂いた。

タイは現在観光滞在としてビザ無しで二週間滞在可能だ。 今回はビザを作らずにタイに入国した。 23日に出発し、ノンカイからビエンチャンに渡って戻ってくる事で、更に二週間滞在許可を得て、バンコク行きの無料列車に乗ってバンコクまでやってきた。

無料列車はタイ国民なら無料なのだけど、外国人は多少お金を払わないとのせてもらえない。それでも普通の列車よりもずっと格安の料金で移動できる。 列車では、バンコクに出稼ぎにゆく筋金入りの農家のおじさん・おばさんに囲まれて、オモチャにされながらやってきた。

そして、バンコクに到着後、カオサンのホテルにチェックインした。 何故、タイに5年も住んでいる僕が今更バックパッカー外人しかこないようなカオサンに泊まるのか疑問に思うかもしれないが、ここにたったの250バーツで泊まれる極めて清潔なホテルがあるのを知っているからだ。川沿いで眺望が最高なのに、とても清潔で、いいホテルだ。 場所は、ほとんどピンカウの向かいだ。 場所が不便なところにあるのが欠点だが、この宿泊費250バーツは、行き帰りをタクシーで移動する事を考えても安い。 この値段は、ルアンパバーンの80000キップのホテルより安いという事も特筆に値する。




僕は今、イサーン語を話すことが出来る。 タイで長らくラオ語(イサーン語)を勉強して来たが、ほとんど話せない状態で4年の月日を過ごした。 2010年秋に中国語を勉強して戻ってきたら、何故か突然イサーン語が話せる様になった。 中国語の学校にはたくさんのラオの生徒の人がおり、そのなかでずっと中国語+ラオ語漬けの生活をしたせいだろうか。

イサーン語と中国語が話せる状態でタイに来ると、丸で今までとは違う国に来たのではないかと思うほど、人間関係に影響がある。

外人がバンコクでタイ語を話すと「あらー上手ね」とよく褒められる。 しかし実際に上手になるに連れ、発音が悪いとか聞き取り辛いとか文句を言われる様になるものだ。そして 更にタイ語が上達してくると、明らかに正しくはっきりと発音しても聞き取ってくれない人が相当数居ることに気がつく。 そういう人に「何でわかってくれないんだ」と詰め寄ると大抵「外人は発音が悪いので何言ってるかわからない、外人はダメだ。」と言ってふてくされて無視される。

イサーン語が話せるとこの状況が激変する。 イサーン語を話すと、最初1度だけ「ん?」と聞き返される。 2度目に話すと「おー! こいつはタイ語が上手くねぇなぁ!」と言われる。 そういう顔はニコニコ顔だ。 そして文句を言いつつ、こちらの言っている事は全部理解している。 僕はタイ語ではなくラオ語を話しているのだが、その点はツッコミを入れない方向で会話が進展する。 タイ語で話している時と理解してくれる速さがまったく違う。 タイ語で話しかけると、納得してくれるまでものすごく時間がかかるのでイライラすることが多いのだが、イサーン語で話しかけると、いきなり即座に理解して、会話が猛スピードで展開し、話に置いていかれる。 発音が悪いと通じないが、すぐに修正して言い直してくれる。 これがネイティブのスピードだ。

向こうは『プロ』のイサーン人なので、毒舌もギャグもまさに「プロ」級だ。『アマ』のイサーン人である僕が何を言っても、まったく太刀打ち出来ず、オモチャにされて終わる。 だけどこれでよいと思う。

フアランポーン駅に到着して、歩き始めたらすぐにボッタクリの運転手がバーっと集まってきて英語で話しかけてくるのだが、この人たちにイサーン語で話しかけると、丸で別人の様に親切にしてくれる。 みんなボッタクリ運転手ではあるが、田舎に家族を残して単身バンコクで頑張っている。 「ハロー・ハロー」と気安く近づいてきてすきあらば高値をふっかけてくるけど、絶対に無下にあしらってはいけないし、丁寧に断らないといけない。 僕はそういうやさしい気遣いのある断り方を村の中でたくさん見ているので、同じようにすると、それが通じる。

思えば、タイ語を話している時は、しょっちゅういじめられた。 ボッタクリの運ちゃんに、こっそりイサーン語で悪口を言われたり、タイ語で悪口を言われたり、僕は今までイサーン語を話せなくても聞き取る事だけは出来たので、そういう言葉が聞こえると本当に嫌な気分になったものだし、しょっちゅう喧嘩になったりもしたが、今はそういう事がまったくなくなった。

「気持ちだけで生きている。」 そういう感じがものすごくする。



僕は今、イサーン語とラオス語のどこに違いが有るのか、はっきりと指摘できる。 だから僕は、今「ラオス語」でも「タイ語」でもない「イサーン語」を話しているのだ、という事がはっきりと言える。 これは、外人に取ってものすごく難しい事だ。 外人がイサーン語を話すということは、非常に珍しい事だ。

長い時間苦労したが、苦労した甲斐は充分に有る。



・理解出来ない日本人

─── 恐らくもう、日本人に、僕が知っている事実を、理解する能力を持つことを期待することは、一切出来ないだろう。 僕は今、彼の無理解に対する大きな寛容性が求められている。 彼の無理解が原因で僕の無知を罵られても、沈黙を守らなければならない。彼に無理に理解を迫れば、彼は壊れてしまう。 あるいは、本当に僕が理解していない何かの事実が存在するのだろうか。 そうだったらよいと思う。 そうならば僕はそこから何かを学ぶことが出来る。だが、何かが「それは違う」と叫んでいる。 僕が知らない何かを確かめる為に討論を交わせば、彼は壊れてしまう。 彼を壊さない為に、静かに、沈黙を守らねばならない。───


これの唯一の例外は、京都人だ。 京都人には、日本人としては例外的に人の種別の違いを見抜く能力があるみたいだ。 何故なのかは、わからない。 中国南部やラオで、「何でこんな辺境の地の果てに日本人が住んで居るのだろうか」という疑問に満ちた人と出会うことが何度かあったが、彼らは何故か決まって京都の人だった。 京都の人は、人に種別が有るという事を知っており、それを見抜く難しさも知っている。 人には裏表があるということを知っており、裏表の矛盾をテコに載せて上手に人間関係を渡り歩く。

もうひとつの例外は、関東人と関西人のハーフだ。 この人たちは、人の種別の違いと日常的に向き合っており、人の種別に敏感だ。 もうひとつの例外は、在日韓国人なのかもしれない。 日本人とほぼ同じ文化を持ち日本語を話すのにまったく違う種別にいる在日韓国人。 その種別の違いは見掛だけでは決してわからない。 見た目は同じだけど確実に違う何かがそこに存在する。 他の人と同じでない=他の人と同じ事を考えない、他の人と同じ事を感じない、という事に対する理由をひたすら探し求める。 何故なのか、何故なのか、と自問自答を続ける。


これ以外の日本人に、僕が知っている事を無理やり説明してわからせようとしようとすると、壊れてしまう。


(だけど、考えてみれば、なんだかかなり色々な例外があって、千葉の人はどういう訳かものすごく関西というかラオというかそういう匂いのする人が多い。 この人たちにラオの話をするとほとんど何も言わないのにスルっと通じる。 遠いラオの話を色々な人に説明してわかってもらえなくて、苦労している中で、ビックリすることがある。 千葉には、関西というかほとんどラオ人なんじゃないか、という人もかなり居る。 聞けば歴史的に和歌山の移民が多いとか。千葉出身のM氏が関東人なのに救い難いほどに下品でコテコテなのはそういうことか。 中国南部で、旅行で山奥のワ族のおばあちゃんの写真を撮ったというのを、見せてもらったとき、千葉出身の祖母に異様に似ているのでビックリしたことがあった。)

あと長野の人も例外的な感じがする。 全般的にそういうコミュニケーションが苦手な人が多い様な気がするのだけど、何故かすごく理論的で、そういう複雑な心象を理屈を使って非常に的確に認識出来るタイプの人が居る。

いや、考えてみればもっとたくさん例外があるぞ...。



僕は、村的な同質コミュニケーションしか出来ない人が好きでない。 だが、僕自身、村的な同質コミュニケーションが恋しくて恋しくて仕方が無いのかもしれない。 僕は混血化が激しいので、どこにも自分に似ている人が居ない。 同質でないから、異質として付き合うしかない。 西洋の個人主義というのは、そういう事なのかもしれない。


僕は理解する事にすごく興味を持っている。 だから色々な、比較的理解されづらいとされている事を理解する事が出来る場合が多い。 その視点を使って色々な人を見ていると漠然と気がつく事がある。 それは、ある人は、ある要素に理解が有るが、ある要素に理解が無いという、理解が人によってまだらに分布する何かの存在だ。 それは、丸で、まだらなグラフの様だ。 グラフには地域によってまったく違った表情が有って、地域によって徐々に変化していくのを感じる。 だが絶対ではない。


もちろん、人によって色々な文化や考え方を持っていて、それらに僕が理解出来ない事がたくさんある。 しかし、僕にはラオというひとつの客観的な視点を持っている。この視点を一筋の光線の様に考えて、色々な人というプリズムに当ててみると、色々なスペクトルが現れる。 これを見ると色々な事を思う。

ラオの文化は、恐らく古来の日本にとても似ているのだと思う。 これを日本人に当てると何故か色々な色が出てくる。



バンコクに戻ってきて、色々なことを思っているのだが、まったくまとまらない。 自分に何が起こったのか、はっきり把握できない。 少し考えてみようと思う。

コメント一覧
小姐   2011年04月25日 21:55
おお、バンコクにいるんですね。

私も夏には一回タイに行こうと思ってます。

そのあとちょっと昆明に帰ってちょっとすごそうと思ってます。
かつお   2011年04月26日 07:16
参考までに、ラオス語とイサーン語の決定的な違いは何でしょう?
おかあつ   2011年04月27日 15:57
>小姐さん、
>そのあとちょっと昆明に帰ってちょっとすごそうと思ってます。

何かあのあと色々なところに行って思ったんですが、昆明っていいところですよね。 何か。 中国語はかなり慣れが必要だけど...。

バンコク滞在のタイミングがあえば、ぜひバンコクで遊びましょう!
おかあつ   2011年04月27日 16:01
> 参考までに、ラオス語とイサーン語の決定的な違いは何でしょう?

一番決定的なのは、声調が違う事です。

低子音字+声調記号無しの発音が違う事です。
イサーンだと第五声調で、ビエンチャンだと第三声調です。

あと低子音字+第二声調記号が
イサーンだと第五声調で、ビエンチャンだと第三声調です。

つまり、イサーンは第三声調が第五声調に変わるという事が決定的な違いです。

細かな言い方の違いとか色々ありますが、とにかくこの声調の違いが決定的です。 これさえあっていれば、言い方が間違っていても大抵通じます。
 
出展 2011年04月25日20:22 『ウドンタニーに二週間滞在した後、バンコクに来た。』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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