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2011年3月31日木曜日

ルアンパバーンで近況 (mixi05-u459989-201103311849)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
ルアンパバーンで近況
2011年03月31日18:49
Thu, 31 Mar 2011 01:50:46 +0700

僕は、今回3月8日から始まった中国旅行で、北京・天津・上海・深圳・広州・昆明と徐々に南下し、昨日30日夜半過ぎラオスはルアンパバーンに到着した。

昆明に24日に到着した後、すぐにラオスに出発するつもりだったが、結局のところ友人に会ったりネットで地震の情報を集めたりしている内にあっというまに時間が経ってしまい、29日火曜日まで居た。 29日にもう一泊するか迷った。日本で起こった地震について日本に国際電話をかけたりしている内に時間が遅くなり、予めバスのチケットを予約する事も出来なかった。 長距離バスターミナルは遠くタクシー代がかさむし、バスターミナルに行ってもバスのチケットを取ることが出来ずにまたタクシーで戻ってくるというリスクを取りたくなかった。茶花賓館に行ってバスチケット予約屋の女の子に聞いてみた所によると、直接バスターミナルに予約なしで行っても「一般都有(普段はチケットが残っている)」との事で、試しに行ってみたら、見事チケットを購入することが出来た。

バスターミナルは、螺蛳湾(ルオス湾)貿易センターのすぐそばにある。 ここで安価で良いギターが売られている事を知っていたのだが、今回僕はこれをタイのお土産にしようと思っていた。 このギター屋さんは店じまいが非常に早く、既に閉まっている事を懸念した。 行ってみたら運良くまだ閉店しておらず、これも購入することが出来た。 と言う訳で、満を持してバスに乗り込むことが出来た。 バスに乗ったのは18:30だった。 ルアンパバーンへの道中は厳しく、悪路をひたすら右左にカーブして何十時間も走った。完全に横になれる寝台バスだったが非常に厳しかった。 国境に到着したのは翌朝で、そこから更に12時間以上走り、21:00ほどに到着した。 もうクタクタだ。

磨丁(モーティン/ラオ語ではボーティン)から、ラオスの国境に入るなり、早速ラオス語と中国語を同時に話すことになり、非常に混乱した。 中国語を勉強している間、ずっと中国語(特に雲南語)がラオ語に似ている事を思っていたのだが、いざ中国語を話している状態で、ラオ語を話そうとすると、うっかり中国語が混ざってしまう。 逆に中国語を話そうとするとラオ語が混ざってしまう。 頭の切り替えが上手くいかない。 ある方がネイティブで2ヶ国語を話している人は言語の切り替えが上手くいかないということはない、と言う話をしていたことがあった。しかし僕は6ヶ国語を同時に話す。 2ヶ国語とは事情が違う。 天然の環境で6ヶ国語を同時に話す環境というのはまず存在しないため、ネイティブでそこまで多くの言葉を話す人はなかなか存在しない筈だ。 6ヶ国語を同時に話す為にはある程度大人になってから訓練する以外の方法はないと思う。

蛇足だが、以前こういう話を聞いたことがある。 あるところに多民族の人が混ざって住んでいる長屋があり、そこで生まれ育った子供が居たのだそうだ。 この子は大きくなっても言葉を話せずご両親は発達障害を疑って心配していたのだそうだ。 驚くべきことに5歳になってからある日突然5ヶ国語を同時にしゃべりはじめたという。 子供ながらに頭の整理が付かなかったのだろう。 子供が5年かかるなら、大人はもっとかかる筈だ。僕はタイ語を話始めて今年で5年目でラオ語がようやく半年くらい、中国語は3ヶ月目だ。 ラオ語は本を使って勉強した訳ではなく、勉強を始めてから非常に長い間話せなかった。 僕がラオ語を勉強しようと決心したのはどうやら2006年6月8日らしい。ちょうどミクシでイサーン語勉強会コミュニティーを作った時だ。この日から、中国語留学に行ってタイに戻ってきた2011年1月まで、僕はラオス語を話すことが出来なかった。僕はラオス語を話すことが出来る様になるまで、ほぼ4年半かかった計算だ。

ルアンババーンに到着した時も混乱した。 バスを降りるなり、タクシーの運ちゃんが呼び込みに来た。 そこで久しぶりにラオ語を話した。 こちらも混乱していたがいきなりラオ語で話しかけられた彼も非常に混乱していた。 僕はそのタクシーに乗らなかったのだが、その後僕が中華料理屋に入って今後の作戦を練っていたら、その運ちゃんがやってきて、実は僕と一緒にバスを降りたあの二人組みを狙っているのだが、中国語が話せないから通訳してよという。その人も中国語はまったくのずぶの素人ではなかったが、勉強した事はないので話せないことという風情だった。 彼が言うことをいっこいっこ中国語に置き換えて話したら通じた。 ここで始めて、僕の中国語もだいぶ板に付いていたのだ、ということを思った。 だがラオ語と中国語の通訳は日本人の僕に取っては非常に頭のこんがらかる作業だった。これはとても楽しいけど、かなりきちんと訓練しないと出来ない。

運ちゃんは見事、その中国人二人連れを口説き落として市内まで連れていく事になった。 で、僕もついでに乗っけてもらうことにした。 運ちゃんが連れてきてくれたゲストハウスは70,000キップ(280バーツ・60元・700円ぐらい)ということで値段は非常に手頃だったし、非常に清潔だったので、僕もそこに泊まることにした。 もう夜10:00を回っていたので、そのまま寝た。

疲れて居たので起きたのは遅かった。 朝11:00くらいに起床した。このゲストハウスにはもう一泊することにして、散歩がてら、他にどういう場所があるのか探検しに行った。 到着したときは夜で気がつかなかったのだが、ゲストハウスのすぐそばに大きな河が流れていた。 びっくりした。 非常に綺麗だった。 ここは非常に有名な観光地だけど、気候が良くて風景が綺麗で大変よい土地だということを知った。 僕は何か綺麗な風景を見るとものすごく悲しくなる。 あの人にこの風景を見せたかった、この人にこの風景を見せたかったと思う。 だけどもうそれは叶わないことになってしまった。 今見せることが出来る人には、見せてあげよう。



考えても見れば、僕は日本に居場所が無い。 中卒で社会に出てからこのかた、冷や飯ばかり食わされてきた。僕は中卒だが別に社会から逃げ出した訳ではないし、下手な大卒よりはずっとよい就職をしている。だが、中卒はどんなに高い能力を保持していても中卒だというだけで差別されて道を閉ざされる事がほとんどで、どんなに類まれな努力をしても高い税金・低い保証に阻まれうんざりする様な事ばかり続いた。 だから日本に住むのはまっぴらだと思っていた。だから僕は外国に出て生きていけるように勉強しなければと思い続けた。 だからこそ、2005年4月に会社を辞めた時、真っ先に日本を出て外国語を勉強しようと思った。その時既に、英語だけを勉強してももう役に立たない事に気がついていたし、とにかくできる限り長い時間日本から出て、日本を客観的に見ることが出来る視点が必要だと思った。

外国生活が長くなるに連れ、僕は徐々に日本に客観的になっていった。 そういう中で、日本は、日本の日米同盟という大きな嘘の上に成り立っていることを知ったし、僕が冷や飯ばかり食わされていた理由もその辺にあるらしいことを知った。 つまりアメリカに非常に都合のよい歴史観や価値観を、受験戦争という過激な形で教育する事で洗脳していたのだと思う。古いタイプの政治家がしきりに「自虐史観」ということを叫んでいた理由も理解した。 日本の教科書も嘘が多いのだ。 外国から見るとそれがはっきりわかる。

日本軍が暴走して中国を侵略したなんて馬鹿げた見解だと思う。列強が台頭していた時代、日本が列強と同じように戦わなかったら、日本も当然中国と同じように列強に蹂躙されていた筈だ。 よく、「中国人が『中国は日本より進んだ国だ』って発言したのを聞いた日本人がそれに激怒している」という話があるけど、あれも嘘だ。中国の方が日本より進んでいるなんて、中国人は夢にも思ってないし、むしろ日本の人に非常に高い尊敬を持って接している。 中国人は、日本人の事をアジアで唯一ヨーロッパと対等に戦った骨のある国だと思っている。 なのに、日本人が「中国人は日本人が嫌いだ」と思っている理由は、正に日本の報道が作り出したマジックだ。 これこそ正にプロパガンダだ。

日本の報道は日本の官僚が動かしていて、日本の政治家は報道をコントロール出来ない。官僚が気に入らない政治家は、官僚が報道を動かして、スキャンダルをでっち上げて潰す。しかし日本のプロパガンダは変だ。 例えば、タイの報道もプロパガンダが激しいが、少なくともタイ人に非常に有利な形で動くプロパガンダを展開しているところが、日本と大きく違う。 日本のプロパガンダは、日本人がいつのまにか日本に取って損な選択をする様なおかしな傾向を持っている。 これは、実は敗戦時にGHQが日本の官僚を工作してアメリカの傀儡化に成功しているからだ。アメリカは冷戦構造を維持する為、出来るだけ中国と日本の仲が悪い状態を維持したい。これが壊れてしまうと冷戦構造も壊れる。だからアメリカ(日本の官僚)は、日本には中国の悪口をたくさん吹き込んでいる。 中国も反日教育というプロパガンダの洗礼を受けているかもしれないが、僕等も激しい反中教育を受けているのだ。 この事に僕等も気がつく必要がある。

確かに、僕が上で書いたようなことには証拠がひとつもないのだが、世界の実状を俯瞰すると日本が公式に発表している見解は、世界の文脈に照らし合わせるとまったく辻褄の合わないものであり、世界の実状から順に推測して日本の空白を埋めると上記の様な見解は自然に導き出される。 猪突猛進で几帳面で論理的だが、馬鹿正直で騙されやすい日本人の性格は、戦前も戦後もまったく変わりが無い。



僕は今回、海外できちんと生活する力をつける総仕上げのつもりで2011年3月8日に中国に来た。 だがそんななか、2011年3月11日に大地震が発生し、原子力発電所が破損、誰もが日本沈没を思わせる大惨事に発展しつつある。 もとより僕はもう日本に帰らないつもりでいたが、失敗したらいつでも日本に帰ることが出来るだろうという自由意志があった。しかし、本当に日本に帰れなくなりつつある。 むしろ、逆に日本にいる友人の手助けをしなければいけない。

恐らく僕が冷や飯ばかり食わされていた理由は、上記の日米同盟によるものだったと思う。だけど、それは恐らくだが、この地震で完全に壊れるだろう。少し前ニュースでTOMODACHI作戦などという言葉が踊っていたが、アメリカの日本の日米同盟派を欺いて日本の日米同盟をリセットするという隠れた意図がある様に思える。(アメリカは激しい経済難で、実はもう日米同盟をやめたがっているが、日本の日米同盟派は何とかこれを阻止しようとしている。)もう日本は元の日本には戻らないだろう。

僕は、日米同盟の影響を受けた教育をほとんど受けていないので、日本社会で働いている人とはまったく違った考え方を持っている。 だから、僕の考え方は、日米同盟の影響を受けた教育を受けた人にとって、まったく自己否定的なものでまったく受け入れられるものではないだろう。 彼らに取って僕は少数派であり、彼らは僕と違って大きな既得権益を持つ。 だから、僕はこれまで、高学歴の人に強い反発心を持ってやってきた。 だが、もうその反発する対象は、なくなってしまった。 恐らく今後、事態は最悪の状態に向け少しずつ進展していくだろう。 日本人は、鍋で煮られるガマガエルの様に、少しずつお湯が熱くなっているのに気がつかず、逃げるタイミングを失い、煮えてしまうだろう。

もう帰る場所はない。 今までは出来ればやるというレベルの話だったが、これからは絶対にやらなければいけないというレベルに変わる。 もちろん今までも「もう帰る場所はない」という覚悟を持っているのと同等な行動を取ってきた。 だけど日本以外の国では基本的に、結果を無理に変えようとすると逆に失敗するもので、コントロールは決して簡単ではない。 無理に結果を変えようとすることなく、自然に結果を変えて自分の望む結果を導き出さなければならない。 今後はこのレベルの事が求められる。 これは正直、かなり難しい。目に見えるルールを守っているだけでは絶対に実現は不可能で、目に見えるルールを破り、そこに目に見えないルールを嗅ぎ取ってそれにそって動く嗅覚が必要だ。

もちろん「事態は楽観的で案外大丈夫でした、僕も帰ってきちゃいました、アハハ」で、済めばよい。 かっこ悪いがその方が気が楽だ。 だけど、もう、そうはならない様な気がする。 一番楽観的なシナリオで事が進んでも、日本が元の経済規模を取り戻すまでには恐らく大変な時間がかかるだろう。僕は日本から逃げ出すのだろうか。 だが、僕が日本に帰っても何も変わらない。日本を良くする為には、日本の外から何かをする必要があるのではないか。 僕だけが出来る何かがそこにあると思う。


TODO:
・自分も何かしらの就職をし、海外で生活を始めるノウハウを友達に伝授する
・日本だけでなく、この世から原発がなくなるまで、反対活動を続ける。
・インターネットで既存のネットワークの分散だけでなく、機能の分散をも実現する為の基幹システムの構築を続ける。
・ラオ語についての論文を書く。
・これまでの低空飛行生活から離陸し、きちんと収入を得て生計を立てる。


ま、考えてもしょうがない。 やることは今まで通り。 何も変わらない。 出来ることをひとつひとつやっていこう。

Thu, 31 Mar 2011 16:31:03 +0700

P.S.
どうでもいいけど、今西洋人が多いカフェに居て、隣の人がドイツ語みたいな言葉を話していて、クーネン クーネンっていっている。思えば、ドイツ語の Können って 中国語の可能 (ke neng) と意味も発音も同じだな。 不思議な一致だ。


コメント一覧
小姐   2011年03月31日 20:53
ラオス無事ついたみたいですね!!

ラオスもちょっと寒いんですかね?

昆明は今日やっと太陽がすこし出て、天気がましになってきました・・
 
出展 2011年03月31日18:49 『ルアンパバーンで近況』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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