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2011年3月20日日曜日

考えてもしょうがないことを考えてもしょうがない (mixi05-u459989-201103200111)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
考えてもしょうがないことを考えてもしょうがない
2011年03月20日01:11
僕の結論:
事故が発生した福島原発はもう安全である。

根拠:
何となくそう思ったから。


結論に対するいきさつ:
「考えてもしょうがないことを、考えてもしょうがない。 何故なら、考えてもしょうがないことなので、考えてもしょうがないからだ。」


これは、ギャグではない。 当たり前な事だが大切な事だ。 考えるという事は、全て結果として具体的なリアクションとして起こせることでなければならない。 考えた結果が具体的なリアクションとして起こせない事がはっきりしていることを、考えるべきではない。 具体的なリアクションが起こせることがらに思考力を振り向けるべきである。

出来ることは全てやっている現状、見守る以外にない。 出来る事をやっていないのであれば、問題はあるが、恐らく現状これ以上のことは不可能だろう。 出来る事をひとつひとつ完了し、発生した問題にひとつひとつ対処するのみだ。


状況を悲観する情報は無数にある。 状況を悲観する情報を隠蔽している気配も無数に感じる。 だが、それを知って何になるのだろう。 悲観的な情報を知った時、我々が現状出来る事があるとしたら、自主的に避難する事だ。 自主的に避難する予定がないなら、悲観的な情報を知ることに意義はない。

我々が次に出来る事は、もう二度と原発を作らない様に活動を繰り広げる事であり、それ以外に存在しない。 原発推進派は、まず原発を作るのだ、という結論を先に設定した上で、理論武装している。 よってその理論に対する反例を見つけることは容易だ。 だがどんなに素晴らしい反例であっても結論に影響を与えることはない。 何故なら結論は最初に固定的に決定しているからだ。 これに対抗する為には、我々も原発は不要という固定的な結論を先に設定する必要がある。 いかなる合理的な理由も排除すべきである。

原発推進派は、ギャンブラーの理論である。 ギャンブラーの理論とは究極の楽観主義で「今回は負けたが次こそは絶対に大丈夫だ」「今回も負けたが次は絶対に大丈夫」を繰り返しているものである。この繰り返しにより全てを失う。 原発推進派もギャンブラーと同様「今回は事故が起こったが次回こそは絶対に大丈夫」「今回も事故が起こったが次回こそは絶対に大丈夫」を繰り返している。 これも全てを失う理論である。原発は事故が起こったら人類の破滅である。 可能性は0でなければならない。 原発の事故が起こる可能性が0でないということは、原発の運営は本質的に人類の命運を賭けたロシアンルーレットを行っているのと同様である。

今、この地上から原発を一つ残らず消滅させる為に、何が出来るのか。 これだけは考える価値があるといえないか。 状況を悲観する情報を探し求めることにもはや意義はない。 結論は既に出ているのである。

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出展 2011年03月20日01:11 『考えてもしょうがないことを考えてもしょうがない』