日本企業の英語公用語化を考える
2010年07月04日08:40
日本企業の英語公用語化を考える
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html
(まだ公開されてない。多分来週から公開されると思う。)
─── (第一に、内需の縮小を避けられない日本にとって日本の強みを英語で共通言語化することの大切さを指摘した上で) 第二の理由は、非英語圏への進出です。例えば中国、例えばインドといった大市場に進出するとして、勿論日本と同じように顧客とのコミュニケーションやサービス提供は現地語で行うにしても、各国のオペレーションも現地語対応していては、効率が何重にも悪いことになります。日本に本社を残すとして、中国やインドの現地法人とのコミュニケーション用に中国語やヒンドゥー語の要員を置くというのは非効率ですし、というよりも、インドは勿論、中国でも多国籍企業の中では英語でのビジネスが主流になりつつあるわけで、こうしたマーケットへの対応ということでも、英語での経営ということは必須でしょう。 (JMM 冷泉彰彦「日本企業の英語公用語化を考える」より引用)
これを見て、何となく黎明期のJAVA(コンピューター言語)を思い出した。コンピューターの万能共通言語として鳴り物入りで発表されもてはやされたJAVAも15年という荒波に揉まれる中で何だか敬遠される存在に変わった。
JAVAは何でも作れる言語だ。 しかし、何でも作れるということは、なかなか小回りが効かないということでもある。 これはどういうことかといえば、次のようなことだ。
仲良し夫婦が「ツー」と言えば「カー」と鳴く的に話が出来るのは、文脈がかなり特定されているからだ。 居る場所は常に料亭の厨房で話す内容も常に客席の切り盛りの事で、お前が知っている事は俺もすべて知っていて...となっているからこそ、短い言葉で完璧なコミュニケーションが出来る。 ところが、この仲良し夫婦が海外に行って全く違う業種=旅行代理店とかそういう仕事を始めたとしたらどうなるだろうか。 恐らく「ツーカー」で話をすることは最早出来ないのではないか。 思っている事をすべからくいちいちきちんと言葉にしてはっきり言わなければならないだろう。 これはとても時間のかかることだ。
JAVAの様に何でも出来る言語というのは、外国人同士の会話のように、いちいち何でもきちんと言葉にして表現するようなところがある。 誰が見ても当たり前なようなことでもきちんと定義して書いてあげなければいけない。 どんなことでも出来るのだが、どんなことでも出来る様になっている対価は小さくない。
僕は、個人的な好みとして言えば、JAVAの様に何でも厳密にきちんと定義して行く書き方が好みだ。 その方が結果的に効率がよく早く作ることが出来るからだ。 だけど、今現在、世の中のコンピューター言語の主流はいつの間にかJAVA以外の言語になってしまった。
人間、そういう厳密さというのは、とっても、メンドウ臭いのである。 タバコはやめたほうがいい、酒もやめたほうがいいとわかっちゃいるけど、やめられないのである。 誰とでも学術論文レベルの高度な会話をしたい人など稀で、曖昧でノンキで利用方法も限定されている一見さんお断りの居酒屋のかあちゃんとツーカーの会話を楽しみたいのだ。
一般市民の英語嫌いは、世界共通だ。
==
英語ですべてを標準化するのはいいことだ。 だけど、英語だけが標準化の手法ではない。 日本語で標準化するのもひとつだ。
日本語を効率よく学習するメソッドを開発することや、きちんと日本語の文法を厳密定義した教科書の整備、日本文化をよりわかりやすく説明する為の定番本の整備などを行っていくのもひとつだ。英語でOxfordとかがやっているように。
だけどそういう意見が絶対に出てこないのが、JMM的というか 冷泉氏的というか...。 アメリカプロパガンダにどっぷり浸かってそれを信じてしまっている人独特の思考パターんだよなぁ、と思う。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html
(まだ公開されてない。多分来週から公開されると思う。)
─── (第一に、内需の縮小を避けられない日本にとって日本の強みを英語で共通言語化することの大切さを指摘した上で) 第二の理由は、非英語圏への進出です。例えば中国、例えばインドといった大市場に進出するとして、勿論日本と同じように顧客とのコミュニケーションやサービス提供は現地語で行うにしても、各国のオペレーションも現地語対応していては、効率が何重にも悪いことになります。日本に本社を残すとして、中国やインドの現地法人とのコミュニケーション用に中国語やヒンドゥー語の要員を置くというのは非効率ですし、というよりも、インドは勿論、中国でも多国籍企業の中では英語でのビジネスが主流になりつつあるわけで、こうしたマーケットへの対応ということでも、英語での経営ということは必須でしょう。 (JMM 冷泉彰彦「日本企業の英語公用語化を考える」より引用)
これを見て、何となく黎明期のJAVA(コンピューター言語)を思い出した。コンピューターの万能共通言語として鳴り物入りで発表されもてはやされたJAVAも15年という荒波に揉まれる中で何だか敬遠される存在に変わった。
JAVAは何でも作れる言語だ。 しかし、何でも作れるということは、なかなか小回りが効かないということでもある。 これはどういうことかといえば、次のようなことだ。
仲良し夫婦が「ツー」と言えば「カー」と鳴く的に話が出来るのは、文脈がかなり特定されているからだ。 居る場所は常に料亭の厨房で話す内容も常に客席の切り盛りの事で、お前が知っている事は俺もすべて知っていて...となっているからこそ、短い言葉で完璧なコミュニケーションが出来る。 ところが、この仲良し夫婦が海外に行って全く違う業種=旅行代理店とかそういう仕事を始めたとしたらどうなるだろうか。 恐らく「ツーカー」で話をすることは最早出来ないのではないか。 思っている事をすべからくいちいちきちんと言葉にしてはっきり言わなければならないだろう。 これはとても時間のかかることだ。
JAVAの様に何でも出来る言語というのは、外国人同士の会話のように、いちいち何でもきちんと言葉にして表現するようなところがある。 誰が見ても当たり前なようなことでもきちんと定義して書いてあげなければいけない。 どんなことでも出来るのだが、どんなことでも出来る様になっている対価は小さくない。
僕は、個人的な好みとして言えば、JAVAの様に何でも厳密にきちんと定義して行く書き方が好みだ。 その方が結果的に効率がよく早く作ることが出来るからだ。 だけど、今現在、世の中のコンピューター言語の主流はいつの間にかJAVA以外の言語になってしまった。
人間、そういう厳密さというのは、とっても、メンドウ臭いのである。 タバコはやめたほうがいい、酒もやめたほうがいいとわかっちゃいるけど、やめられないのである。 誰とでも学術論文レベルの高度な会話をしたい人など稀で、曖昧でノンキで利用方法も限定されている一見さんお断りの居酒屋のかあちゃんとツーカーの会話を楽しみたいのだ。
一般市民の英語嫌いは、世界共通だ。
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英語ですべてを標準化するのはいいことだ。 だけど、英語だけが標準化の手法ではない。 日本語で標準化するのもひとつだ。
日本語を効率よく学習するメソッドを開発することや、きちんと日本語の文法を厳密定義した教科書の整備、日本文化をよりわかりやすく説明する為の定番本の整備などを行っていくのもひとつだ。英語でOxfordとかがやっているように。
だけどそういう意見が絶対に出てこないのが、JMM的というか 冷泉氏的というか...。 アメリカプロパガンダにどっぷり浸かってそれを信じてしまっている人独特の思考パターんだよなぁ、と思う。
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