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2010年1月21日木曜日

悟った(1) (mixi05-u459989-201001212320)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
悟った(1)
2010年01月21日23:20
(2010/01/21 18:45:46 +0700 焼き鳥を食って歩いていたら閃いた。パラゴンにて。)

悟った。 論理とは空手で、非論理というのは合気道の様な物なのだ。

論理は、空手だ。 相手が打ってくるすべての突きや蹴りをすべてまっすぐ受け止める。 そこにぶれやあまさがあれば容赦なく打ち返し、蹴り返す。 一瞬の隙も見逃さず、常に型で正確な動きを練習する。

非論理は、合気道だ。 相手が打ってくる突きや蹴りを一切受け止めず、それを流す。 流した力に少しだけ変化をつけることで、相手を投げたり倒したり、押さえつけたりする。

僕が今まで練習してきた様な、科学的な論文の書き方とか討論の仕方とかというものは、要するに空手なのだと思う。 相手が打ってくるすべての発言をまっすぐ受け止めて、そこに間違いや曖昧さがあればまっすぐ指摘する。 そこには感情や思いやりと言うものはない。 むしろそうやって相手の間違いを指摘することこそが、相手や科学に対する愛情なのだという考え方がある。 こうすることで論理的に間違いがない知識を発展させることが出来る、と考えている。

それに対して、僕が今居る東北イサーン人の考え方というのは、まったく正反対なのだと思う。 こちらはまるで合気道の様だ。 正当性は度外視。 相手がする発言はまったく否定しないで「はいはい」と受け流す。 相手が怒ってゴチャゴチャ言ってきても、それをいちいち聞いて間違いを指摘したりは絶対にしない。 「あぁそうだね」「間違ってたね」と全部受け流してしまう。 実際にどちらが正しく、どちらが間違っているということは問題にしない。

どちらにもその良さ悪さがある。

僕は最近思うのだけど、空手というのは怪我をする危険性があるのではないか。 それに対して合気道は子供からお年寄りまで、安全に学ぶことが出来る。 空手だと、相手に心得がないとき、普通に、相手が打ってきた突きをまっすぐに受けてまっすぐに打ち返すと、確実に相手を怪我させてしまう。 実際、空手の様な強い武術を学んで強くなっても街中でそれを使うことは、まず出来ないだろう。 下手をすると相手を殺してしまいかねない。

論理的な討論にもそういう怖さがある。 論理的にすべての矛盾を指摘していくと、最終的に相手の「本当の」問題が明らかになってしまう。これは必ずしも良い結果を生み出さない。 その人が、その事実を受け入れる事が出来ないと、精神が破綻してしまう事すらある。

そこにくると合気道は違う。 割と日常でも使うことが出来る。 軽い力ですっと流して、クルッと相手を押さえつけたり、そっと怪我をしないように倒したり出来る。 合気道であれば、例えもしも敵が、犯罪に走りかけているか弱い女性であったとしても、怪我をさせないように安全に動きを止めることが出来る。 あるいは、 相手が複雑な事情を持つ不良少年だったり、行き場を失った孤独な老人だったりしても、相手を怪我させることなく(かつ、こちらも怪我することなく)相対する事が出来る。 合気道は、「窮鼠猫を噛む」人たちを殺さない。

そういうやさしさが「イサーンの討論」にもあるように思う。 相手が言うことを一切否定せずに、肯定するようなことしか絶対に言わない。 相手が怒って何かを言ってきても「あぁそうだね」「うんうん」と同意しかしない。 こうやって相手の感情の力を受け止めないで流す。


僕は小さいとき、「少林寺拳法」という物を習っていた。 この中に「剛柔一体」という言葉があった。 少林寺拳法は空手のような打つ蹴る技体系である剛法と 投げる押さえるなどの技体系である柔法のふたつの技体系がある。 少林寺拳法の創始者は「剛法と柔法は 唇と歯の様に同時に使うことで初めて効果的に使うことが出来るのだ」という考え方をもっていたからだ。 柔らかい唇だけでは物を噛むことは出来ず、固い歯だけでは食べ物がこぼれてしまい噛むことが出来ない、という。

きっとこの「剛柔一体」は、人の考え方にも適応するだろう。

(ソイ3・シシャ屋バワーチにてアップ)

コメント一覧
おかあつ   2010年01月21日 23:30
この日記を書いた後、村の人と電話で話した。 合気道を使って、色々話を聞いた。 一切反論しないで全部そうだね、そうだね、と相槌を打って長らく話を聞いて、色々なことに気が付いた。

後でまとめてみようと思う。

しかしストレスたまるよなぁ...。
おかあつ   2010年01月21日 23:32
悩んでてもしょうがない。 気晴らしにサウナでも行くか。
あび   2010年01月21日 23:53
ひとつ階段を上ったような感じですね。さすがです。
おかあつ   2010年01月22日 00:08
こうやって考えて、振り返って見ると、あび氏は合気道がうまい。
僕はそれと比べて、考えてみると 空手バカ一代の様なモノかもしれない。
おかあつ   2010年01月22日 00:10


僕には「空手の国」に行くというオプションが残っている。 ドイツとかさ。 アメリカとか。あるいは、逆に更なる「合気道の国」に行くというオプションもある。(「合気道の国」は、タイのとなりにある。)

タイというのは、考えてみれば、空手派と合気道派がしょっちゅうケンカをしている国、と見ることも出来る。 そうかんがえると、バンコクは、ずいぶん空手派が多い。 バンコク人相手にしたらケンカなんか出来ない。 結構シビア。

日本人って、こうして考えてみると、だいぶ空手の国なんだよな。 (僕が考えるにオタクは日本の空手派だ。決して合気道じゃない。)

さてなぁ...。
おかあつ   2010年01月22日 00:18
>タイというのは、考えてみれば、空手派と合気道派がしょっちゅうケンカをしている国、と見ることも出来る。

思うんだけど、合気道なら合気道だけで行くと、それはそれで、すっきり矛盾がなかったりする。 そこに空手が入ってくると、どうも乱取り・組手がうまくいかなくなるんだよな。

タイは中華系が国を牛耳っているとか、そういうことを言われることが多い。でもそうじゃないんだと思う。 実際中華系の人は論理的に優秀だ。 で、中華系はこの国でうまくやっていくコツを知り尽くしているから、問題なんかおこらないんだろう、と思ってた。

でも、中華系も実は結構苦労が多く、騙されて文無しになったり、ラオに一発喰らわされて人生が狂ったりとか、色々な話があるらしいことを、最近知った。

ホント、この国って難しい。
あび   2010年01月22日 01:15
別に私は、おかあつ氏の言う「合気道」がうまい訳ではないと思いますよ。人との対立を極力避けて無難な結果になるように子供の頃から生きてきた結果だと思います。極限まで対立が明確化した時に実力行使(鉄拳制裁)されたら、絶対に自分の方が半殺しの目に合う事を体験的に知っているので。

もう、身体に染み付いた習性なのよね。これ。

で、齢32になってようやく「極力無難に生きてるだけの人生だと面白い事も逃すわな。」という事がおぼろげながら判ってきて、「このままぢゃ、いかんな。」とか思うわけですが、30年以上続けてきた路線を変更するのは非常に難しくて、色々逡巡したりしているわけですよ。いや、お恥ずかしい。

あと、「サポート」という毎日やっている仕事が、まさに「合気道」な内容なんで、そこで鍛えられた可能性はあります。相手が頭の中で考えているだけ事を声のトーンや文体から推定・空想しながら、それに合わせた行動を取らないと大怪我するのよね。サポートって。ホント疲れるわ。(愚痴
おかあつ   2010年01月22日 06:45
>もう、身体に染み付いた習性なのよね。これ。

うーむ...。

>「サポート」という毎日やっている仕事が、まさに「合気道」な内容なんで、そこで鍛えられた可能性はあります。

サポート=合気道・修練の場 (^^;;
というか修羅場?

>で、齢32になってようやく「極力無難に生きてるだけの人生だと面白い事も逃すわな。」という事がおぼろげながら判ってきて、

これはまったくもって僕にも言えるよな。 「空手バカ一代」で「弱い奴は切りすてじゃ!」といって生きていると、色々面白いこと逃すと思う。
アツシ   2010年01月22日 14:57
すごい。最初の一文、名文ですこれは。僕が言いたいことを誰かに伝える時に、この喩え、この先ずっと使わせていただくと思います(笑)それくらい府に落ちました。

僕もからてが好きで合気道が苦手なのです。僕は生まれてから基本ずっと日本にいますが、日本での生活でもよくそれを感じています。
おかあつ   2010年01月22日 15:02
僕もそういう意味で同じく「空手」が好きです。 こっちの方が簡単だからです。

でも「合気道」の方が簡単だって思っている人も多いんですよね。
ねこ☆ミ。   2010年01月23日 13:05
お久しぶり~

さて、おもしろい日記をよんで、触発されたので、変な文を書こうと思う。

「合気道も論理の塊(かたまり)である。」という題名にしておこうかな。
合気道的=非論理と考えても良く、まったく問題がないわけだけれど、すこし、変な文を書こうと思う。



自分は、人間の行動は因果律に支配されていて、その背後にある世界観に最適化され、合理的であり論理があると思う。
ある人が別の人をみて、論理が無いように見えても、実は論理がない訳ではなく、論理の背景となる世界観や論理の行き先である到達点が違うんだと思う。

そのため、合気道的なモノにも論理があると思う。

例を挙げれば、

>合気道であれば、例えもしも敵が、犯罪に走りかけているか弱い女性であったとしても、怪我をさせないように安全に動きを止めることが出来る。

それは、安全に動きを止めるようにできる用に安全第一に論理的に考え、行動しているからです。



>あるいは、相手が複雑な事情を持つ不良少年だったり、行き場を失った孤独な老人だったりしても、相手を怪我させることなく(かつ、こちらも怪我することなく)相対する事が出来る。

それは、相手と自分のことを行く末までを論理的に考えているから、相対することが出来るのです。



>合気道は、「窮鼠猫を噛む」人たちを殺さない。

それは、窮鼠猫を噛む人たちを殺さないように、相手の状況を元に論理的に考えているのです。


上記の出来事も、前提や目的、また、考えや行動の筋道を言語化すれば、合理的かつ論理的であることが確認できると思う。
ただ、合気道の性質上、言語化する事を嫌うケースも、あるかもしれないけど、、、


空手から見て、合気道に論理が無いと思えても、それは、論理が無いからではない。
前提とする価値観が違うために、空手の世界から論理がなくでたらめに見えるのだと思う。



なお、論理それ自体は、正しさの根拠にはならない。
その背景にある世界観、価値観を元に、論理は真偽を判定することができる。
そして、その世界観自体も因果律で他の世界と膨大な糸でつながっている。

論理それ自体よりも、どこに信をおいているかという価値観が、異なるのだと思う。
おかあつ   2010年01月23日 13:53
主観と対象を混同していると僕は思うな。
おかあつ   2010年01月23日 13:55
実際には主観と対象をゴチャマゼにした書き方をしているのは僕の方なんだけど、それは誰にでも(自分にも)直感的にわかる様にそう書いているだけで、実際には主観と対象の区別がある。
ねこ☆ミ。   2010年01月23日 15:32
うん?

ちょっと、読み返してみて、論理に対するイメージや、普段の使用法の違いから食い違いが生じてるのかなって気がした。



>論理的な討論にもそういう怖さがある。 論理的にすべての矛盾を指摘していくと、最終的に相手の「本当の」問題が明らかになってしまう。これは必ずしも良い結果を生み出さない。 その人が、その事実を受け入れる事が出来ないと、精神が破綻してしまう事すらある。

例えば、これに自分は論理性を感じない。相手を精神的に破綻させることが目的であれば、合目的であり論理的であったといえるけれども。

あくまでも、真実を暴くという価値観にたいして論理的なのだと思う。もしも、別のことを望んでいたのなら、何か考慮が漏れていて、論理の使い方の誤りだと思う。




自分は、色々な事実を前提として、物事が良い方向に進むように、整理し、考えることが論理的だと思う。

この場合、どうしたら幸せになるかという価値観に対して論理的なのだと思う。
真実の追究だけでなく、目的のために論理を使うのは一般的なことだと思う。



よって、論理それ自体は、正しさを生み出さない。価値観、世界観のみが論理の正しさを保証する。
ねこ☆ミ。   2010年01月23日 15:39
とおもったが、物事が良い方向に進むように、整理し、考えると、色々出てきてしまって、かえって相手を追い詰める結果になる事もありそうだな・・・
おかあつ   2010年01月23日 15:51
要約:

相手が論理的な訓練を受けた人であれば論理を使って討論するのが良い。しかし、相手が論理的な訓練を受けていない人である場合、論理だけに基づいて討論するのは危険だ。 相手を追い詰める結果となり逆に問題を大きくしてしまう事があるからだ。 もしも、相手が論理的な訓練を受けていない人の場合は、ある程度論理的な矛盾を逃した話し方が必要ではないか。 この論理的な矛盾を逃す話し方を、合気道という武術に例えて考えれば、論理のみに基づいて話すのはまるで空手のようなものではないか。社会生活をある程度円滑に行う為には、相手の傾向によって空手と合気道を使い分ける必要がある。でなければ、近づく敵をすべて空手で殺してしまう野獣のような人間になりかねない。

一方この様な見方も出来る。 一見、論理だけに基づいている様に見える人でも、実は内心はまったく違う本音を持っている事もある。 剛よく柔を制す、柔よく剛を絶つ。 そういうときも、相手の論理の矛盾をある程度逃して話す方法は有効だ。 相手の論理に惑わされることなく、相手の気持ちを察して、論理は逃すことにより、本当の問題を明かにする。

訓練を受けた科学者や技術者を相手に「相手の気持ちを察する話し方」をしても、鬱陶しいだけだろう。 一方、日常的に、極めて優秀な科学者や技術者とばかり仕事をするわけではない。

視点を変える。 どんなに優秀な科学者・技術者も、最初は無能である。 無能である事を指摘する時、それは確かに事実だが、往々にしてその事実は、その人の心を打ち砕き、将来その人が優秀な科学者や技術者になることはないだろう。 希望というのは、人を育てる為に必要な幻想だ。

一方、希望がその人の発展を阻害する事もある。 道程である問題がネックとなっている時、「希望」という幻想から外に踏み出すことが出来ないと、いつまでたっても本当の問題を正しく認識する事が出来ず、それ以上先に進めなくなるときがある。



たしかに上の様に書くことも出来る。だけど、わかりづらいと僕は思う。
ある程度全体像が直感的にわかる、ということも大切だと僕は思う。
だから『空手は論理、合気道は非論理』と比喩を使って一言で説明した。
というか、自分自身、この比喩がなければ、それをきちんと身の回りの出来事として、認識できなかったんだと思う。
おかあつ   2010年01月23日 15:53
>とおもったが、物事が良い方向に進むように、整理し、考えると、色々出てきてしまって、かえって相手を追い詰める結果になる事もありそうだな・・・

それは、あるよ。 良薬っつうのは、大抵苦いものだし。

人がそれを「良くなるから飲め!」って言って無理やり飲ませても、
苦くて吐き出しちゃったり、飲ませた人を憎みはじめたりしてね。

ねこ☆ミ。   2010年01月24日 19:10
比喩に突っ込んですみません・・・



夏目漱石は小説「草枕」の冒頭に書いた。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」



論理というよりも、論理から引きずり出される真実は、良薬というか、そのまま飲むと死んでしまう劇薬が見つかることも良くあることだし・・・



===
そして、話は変わってすこし横道にそれた話をする。
自分は、別の切り口から現実の問題に論理を応用することに興味があったので、正直なところ、別の事をイメージしていた。

なんと呼んで良いか、適切な言葉が見つからないのだが「アカデミックの論理」Vs「ビジネスに応用ための論理」としておこう。


2つ上の要約を仮に「アカデミックの論理」と呼び、その前提となる信念を考えると、
○論理的な訓練を受けた人間は「正しく事実を認識し、正しい問題設定を行い、正しい結論を出すことが出来る。」から正しく善である。
○論理的な訓練を受けてない人間は「間違って事実を認識し、間違った問題設定を行い、間違った結論に達する」から間違っていて悪である。
と言う、理性に絶対の信頼を置く、啓蒙主義的な価値観が背景にある。

ヨーロッパの伝統に支えられ世界中に広く・深く流通している世界観、価値観、または倫理規範の一つである。
この倫理規範の中で考えると、事実を元に論理的に考えることは正義であり、非論理的というのは罪悪である。



それに対して、自分がイメージしていた論理は、現実問題への対応が前提なので、論理のビジネスへの応用という分野である。

これは、まず、目標設定が第一にあり、「ゴール」を定めるところから始まる。

そして、ここでは一つの例を説明する。


例えば、ここにセールスマンがいて、訪問販売をしてるとする。
そしてセールスマンは言う。

「うちの製品が、性能が良く、安いのは、科学的な事実である。
それなのになぜ、ライバル社の製品を買ったのですか?
うちの製品を買わないのは、君が事実を認識していないため、間違っているんだ。
もっと論理的な訓練を受けて事実認識が出来るようにすべきなんだ。」

とお客に対して言うことは、この論理の中では、これは論理的な態度では全くない。
何故ならば、最初に設定した「ゴール」を達成出来ないからである。


この場合の科学的な態度は、なぜ、性能が良く安いのにもかかわらずライバル社の製品を買うのかを、情報を収集し・仮説を立て・検証することである。

この倫理規範の中で考えると、ゴールを達成できないこと=悪という図式になる。
おかあつ   2010年01月24日 19:40
僕は実はあまり論理的には考えてないので、よくわかんないんだけど。

セールスって普通「性能がいいから買ってくれ」っていう風にはなんなくね?

どちらかというと、そっちの製品をまとめて買ってあげるから、その代わりウチのあの製品をこんだけ買ってちょうだいよ、みたいな駆け引きがあって、性能+αのところで話が進むような気がする。 その高性能な製品を使うことでどれくらいのメリットが出るかわかんないけど、取引上のメリットを下回る様だったら、他のところと取引するだろうよね。

この場合、あくまでも会社の利益の為の性能だからね。 性能が利益に結びつかないなら、買わないよね。
おかあつ   2010年01月24日 19:49
で、また、自分の会社のメリットを正しく評価できる人ばかりではないから。 性能とかも、思い込みとか印象とか勘違いでどんどん変わるしね。 そこが営業のウデの見せ所なわけで。

こうして「高性能タイムカード刻印機」とかいう毒にも薬にもならないような、訳のワカラン機械がフロアに導入されるワケやな。
ねこ☆ミ。   2010年01月25日 03:05
全然自分も考えてないのでわからないけれどもw

>セールスって普通「性能がいいから買ってくれ」っていう風にはなんなくね?

そうだなぁ、たぶんならないなぁ。
機能の違いがあるので、単純な性能が重要にならないものが多いからかな。
売る側の思い込みかもしれない。
サービスとか割引率とかも、色々考慮するし。

>で、また、自分の会社のメリットを正しく評価できる人ばかりではないから。
何を望んでるかわからなければ、何が良い物なのかはわからないってことだな。

営業も、どういう場面で使われるのかを聞き出して、実はこんな使い方も出来ますとか、説明して、「すごく便利だなぁ」とか言わせたりするのかもしれないw


話は飛ぶのだけど、最近、電化製品を買うときに価格Comというサイトを必ず見る。
価格Comは、知っての通りか、商品別に全国のお店の価格が調べられるサイトで、
買う人の立場からみると優れたサイトだけれども、商人の立場で考えると極悪なサイトだと思う。

同じモノを買うのであれば、日本一安い店以外で買うメリットが全くない。

みんなが価格比較をして買うようになると、特定の日本一安い商品しかは売ることが出来なくなるんじゃないだろうか。

みんなが情報を等しくもっていないから、少し高い店でも売れるんだな、と思う。

前に、安いと思い込んでいた家電量販店が、ポイントを考慮しても、かなり高いものも多いと言うことに気がついた。


まぁ、それでも、世界に一つしかない「高性能タイムカード刻印機」があったとして、この訳のわからない他とは比較の出来ない機能を必要として、買う人がいるのかもしれない訳だが。

 
出展 2010年01月21日23:20 『悟った(1)』