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2010年1月18日月曜日

心と言葉の一致 (mixi05-u459989-201001180012)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
心と言葉の一致
2010年01月18日00:12
最近考えていることを文章にまとめ、頭を整理しています。 以下、僕が最初タイ語で考えた物を改めて日本語で書き直したものです。 自分の言葉で考え直すと、改めて、色々見えてくる物だなぁと思いました。

これが僕が思っている事のすべてとは決して言い難いのですが、こうやって一目に晒して乾かして見ようかなと思います。

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2010/01/17 18:12:45 +0700

心と言葉の一致

僕はイサーンに住むようになり、そこで色々気が付いたことがある。 その中でも「言っているだけ」というのは、僕がいちばん馴染めない物のひとつだ。 これをタイ語でプーッパイシュイシュイという。 悪口を言っていても、それは本心で言っている訳ではなく、「言っているだけ」だよ、という意味で使われる。 言っているだけだから、気にしなくて良いという意味が含まれている。

こうして長らく居て思うけど、イサーンの人の言っている事と思っている事の不一致は、かなり激しい。 口ではやさしそうなことを言っていても実はすごく嫌っていたり、口ではブーブー文句ばかり言っていても親切に面倒を見にきてくれたりする。

口ではやさしそうな事を言っていても、よく聞いていると微妙にチクッとくる嫌味を言っている事に気が付くことがある。 もっともイサーンの人のいう嫌味というのは「つっこみどころ満載」なので、その嫌味に嫌味で言い返す事はさほど難しくないのだけど。 あるいは、仕事をしながら四六時中歌を歌うように嫌味を言っている場合もある。

いずれにしても、日本人である僕が聞くと、99% 星飛雄馬のお父さん状態に陥る。 ちゃぶ台返しである。 イサーンの人が嫌味を言うときというのは、大抵その人自身が悪いときだ。 自分自身が悪いから問題が起こるのだが、それを他人のせいにしてずっと文句を言っている。 この人たちは、大げさでなく生まれてから死ぬまでずっと「逆ギレ」しているんじゃないか、と思えてくる。 それがその人だけの問題なら良いのだが、それが他人を巻き込んで、被害があちこちに及んでくる時に、他人に迷惑がかかるだけならまだしも、加えてずっとブーブー逆ギレして他人をけなすようなことばかり言われると、どうしても「ひとこと」言い返したくなってくる。 だが言い返してはいけない。 これがまさに「プーッパイシュイシュイ」である。

僕はよく思うのだけど、日本人はちゃぶ台返しの文化なのだと思う。 日本人も相手の気持ちを尊重して絶対に本心を言わない。この点、タイ人と日本人は同じである。 しかし、我慢に我慢を重ねたうえで、どうしてもその相手がその気持ちを理解しないとき、日本人は「ちゃぶ台返し」という超法規処置を使うことが出来る。 愛する息子の事を考え、あるいは、愛する友の将来のために、涙を飲んで、ちゃぶ台をひっくり返して説得する訳である。 それではいかんだろう、と。

ところが、タイでちゃぶ台返しをすると、大抵、事態が修復不能になって終わる。 お前のために涙を飲んで、という論理を理解できるほど、彼らは精神の糸が太くない。 「あいつは怒ってばかりいて嫌なヤツだ」という風になってしまう。「大声で怒鳴る悪人だ」という風になる。 そして、「あー頭が痛い、頭が痛い」と言って逃げていく。 頭痛になりやすい頭の悪さよりも、頭痛の種を持ち込むこちらが悪人になる。 その頭痛の種を作ったのは他でもない自身なのに。



イサーンに居て、気が付いたのだけど、彼らは子供の言葉遣いについて叱らないらしい。 子供が大人に向かって「あー、あいつは狂ってるからほっとけほっとけ~」とかいうような事を言っていても、大人はニコニコしながら見ている。 僕としては、これは看過しがたい事だ。 看過できないのは決して僕だけではない。 イサーンから出て、バンコクに出てきた時も、この言葉遣いはまずい。 日本人としてだけでなく、タイ人としてもかなりまずいことだ。 だが、これはイサーンでは怒らない。 「大の大人が子供のいう戯言にいちいち反応して怒ってたらみっともない」というような反応をする。 「プーッパイシュイシュイ」だから気にするな、と。

もっとも僕は、イサーン人がイサーン人の子供を叱っているのを何度も見たことがある。 言葉遣いについてもかなりきつく怒っているのを見たことがある。 実は「あいつは狂っているから放っとけ」と言われたのは他でもない僕なのだが、僕がそれについて怒ると、それは止めろという。 止めろと僕にいうその本人が、そんな悪口を言われたら即日「死刑執行」である。 これは明らかに矛盾している。 明らかに矛盾しているが、これも「プーッパイシュイシュイ」のひとつなのだろう。 それは言葉どおりの意味では決してなく、他に問題があり、それで機嫌が悪いので、そういう事を言うのだ。

で、僕もそこから学んで「プーッパイシュイシュイ」をやってみた。 みんな、大激怒である。 何なのかと思う。 言い方がよくないのかもしれない。 飽くまでも聞きやすいやさしい言い方で、チクッと来ることを言わないといけないのかもしれない。

しかし、経験として思うのだが、何かキツい嫌味を言われたら、怒らないでニコニコしながら嫌味で言い返すというのは、大切なコミュニケーションスキルであるらしい。 こういう場面でいちいち、論理的に考えてたしなめていると、キリがないからだ。 かと言って言いかえさないで放っておくのも良くない。 イサーン人が普通言われて怒るような事を言わているのに何も言わないと、なめられて悪口がエスカレートする。 こういうとき、遠回しでちょっと面白みのある嫌味でビシッと相手に言い返して置けばこちらも気分がいい。



もっとも嫌味を言い返したところで何も前向きな結果を生み出さない。 イサーンに居るためには何でこういう風に嫌味ばかり言っているのか、というところに頭が及ぶ必要がある。 彼らが言っている事はすべて事実とは遠くかけ離れたことばかりである。 まさに「プーッパイシュイシュイ」である。 これにいちいち論理的に反論していたら、キリがない。 チェスの様に相手の論理を読んで相手をチェックメイトに追いこんでも、何も前向きな事にならない。

何故嫌味ばかり言っているのか。 僕が空気を読んで考えてみるに、要するに、彼らは今、お金がショートしているのだ。 彼らは決して認めないが。 近年の不景気の波はここイサーンにも及んでいる。 お金がなくなったとき、家族をバンコクや外国に出稼ぎに行かせて送金させると言うのは、最後の切り札であり、かつ一発逆転の強力な手段だった。 しかし、世界的不景気の昨今、それも難しくなってきているのだ。

「そんなことないよ、日本から結構いい金送ってくるんだよ」と言う彼ら。 だが、日本から来た僕が真実を知らない訳がない。 日本に行って働いたらいくら稼げるのかぐらい、僕が一番よく知っている。「娘がアメリカで働いて送金してるから大丈夫だよ」という彼ら。 アメリカに行ってお金を送ってきたらいくらになるのか。 アメリカにいったことがある人間に、いくらウソを言っても無駄である。 イスラエルに行ってお金を送っているんだから大丈夫だという。 さすがにイスラエルは行ったことがないが、イスラエルとアメリカ・イギリスが政治的に近い立場にあって、その三つの国が共に金融危機で前代未聞の不景気に陥っている、という事ぐらいは知っている。

彼らのような、借金に借金を重ねて車を買ったり、バイクを買ったり、携帯を買ったりと、放蕩を続けられる豊かな国は、現在、この世の中に存在しないのである。



そもそも、イサーン人は狩猟採集民族で、お金などなくとも生きていくことが出来る。 その筈なのに、そこにお金が入ってくると、みんな競うように借金で車を買ったり、高価な携帯を買ったりする。 車や携帯というのは、あれば確かに便利なものではあるが、実際、生活上さほど必要なものではない。 イサーンにおいて、必要な物は身の回りにすべて無料で揃っている。

収入に見合わないような高額な借金を作り、借金を返済するために、息子を娘を外国に出稼ぎに送り出すイサーンの母。 イサーンでは母の権力は絶対であり、母が言うことに背くことは出来ない。 しかし、その肝心の母は、外国はおろか、バンコクすらほとんど見たことがないのである。 野原にて、かえるを探し、ねずみを探し、魚を探し、ラープや干し物を作る、こののんびりしたイサーンの地域の生活しかしらないのである。

その母は「そんな大げさな! バンコクがいくら大変だって言ったって、死んだりするわけはないだろう」という風に考えている。 現実に「死んだりする訳」は確実に存在する。 そうやってお金を求めて田舎から都会に出てきて狂い死にする人は少なくない。 そういう母は、 バンコクや外国で息子や娘が血を流し汗を流し涙を流して稼いだお金を、まるで、イサーンの田畑から無尽蔵に収穫出来る「米」の様に考える。 好きなだけ食べたいだけ食べて、残りを近所の人に分け与えてしまう。

そうやって苦しむ「新世代イサーン」の若者を、何も知らない外国人は「貧しく可哀想な子」という事で、助け始める。 田舎の旧世代イサーン人は決して可哀想な状況ではけっしてない。 彼らはこの世の楽園の住民だ。 お金などなくとも実は生きていけるのである。 可哀想な状況にいるのだとしたら、それは放蕩の結果、自転車操業の結果である。



僕は時々、イサーン人って「楽園に居残ったアダムとイブ」なんじゃないか、と思う。 知恵の実を食べなかったので、楽園に居残ったのだ。

そして、その楽園に「お金」という「パンドラの箱」が入ってくるのだ。 そうするとどうなるのだろうか。 お金というのは、ガソリンと同じような「危険物」なのだと思う。 お金と言う物は、とても便利で力のある物だが、取扱いを間違えると怪我をしたり、命に関わったりする。

タイに居れば毎日使う 20バーツ札。 これを一枚稼ぐためには、セブンイレブンで大体1時間ぐらい働く必要がある。 つまり、こうして毎日触れる20バーツ札には1時間分の執念がこもっている。 その20バーツを使ってピンカイ(イサーン焼き鳥)とカウニャオ(もち米)を買うことができる。 そして、それだけの価値がある20バーツを捨てれば、稼いだ人からその1時間分の執念を引き受ける事になる。 そのことを田舎のイサーン人は知らない。

日本人は民族としてお金の怖さを知っている。 だから、日本人はちいさいころから「お金を貯めなさい」「節約しなさい」「将来に備えなさい」としつこく教わる。 だけど、お金自体が存在しなかったイサーン人には、民族として、そういう危機感がない。 湯水の様に使い切って終わりだ。 これはすなわち、使い果たした分の執念を引き受けることになる。 しかし「ナムチャイ(慈悲の心)がない」という言葉によって執念を稼いだ人につき返してしまう。 引き受けられなかった執念は、稼いだ人が自分自身の中で消化することになる。 これは極めて危険なことなのだが、イサーン人にはその意識がない。

お金を持ったイサーン人は、いわばナイフがどれくらい危ないか知らずナイフで遊ぶ子供の様な物だ。力のある道具はそれを扱う者を幸せにも不幸にもする。 子供の三輪車で走っている内は、どんなに無茶をしても死ぬことはない。 だけど、それと同じ感覚で750ccのバイクに乗れば、確実に死ぬ。 力のある道具はそれを扱う者を幸せにも不幸にもする。

僕がこうして見ていることは、ここ50~60年にひたすら繰り返されてきたことなのかもしれない。 知っている人は当たり前のように知っている事なのかもしれない。 僕は知らなかった。



そういう彼らとどうやって付き合っていくべきなのか。

これが今、僕の中でもっとも大きいテーマだ。

まず第一に、お金を渡さないということが、大切だ。 どんなに可哀想でも絶対にお金を渡してはいけない。実はいちばん可哀想なのは、田舎の旧世代イサーン人の母親に、結果的に搾り取られる結果となるバンコクで働く新世代イサーン人なのだけど、バンコクで働く新世代のイサーン人にお金を渡すと、結局そのお金は豊かな旧世代の母の手に渡り、結果的に問題を増長させてしまう。 自分の力で稼いだお金とちがって、貰ったお金というのは、遠慮がない。 簡単に使えて手軽に欲を満たす事が出来るお金は、結果的に更に大きく欲を増長させてしまう。

お金を渡さないと始まる「マイミーナムチャイ(血も涙もないヤツだ!)攻撃」に対応するだけの口のウマさも必要とされる。 ここではお金を持っていないと言い張る事が大切だ。 お金を持っていないという事を主張するために、普段使うようの財布と、見せる様の空っぽの財布を別々に用意する作戦は、常套手段である。

イサーンには、持っていなければしかたがないが、持っているならなくなるまで分け与えるのが思いやり、という考え方がある。 持っているのにあげないのは、血も涙もない人ということになってしまう。 地域によっては三毛作もできてしまう夢の食料であるお米や、堀で飼っていればいくらでもブクブクと太り増える魚・夜中に夜光灯をつけていればいくらでも取れる虫・年中いくらでも生えてくる草菜であれば、なくなるまであげるのもよいかもしれない。 しかし、お金は魚や虫とは違う。 お金は限られた資源だ。 そこには当然、投資用のお金とか、病気などのアクシデントに対する備えであるとかが存在する筈なのだが、そういう経営的なアイデアが旧世代のイサーンの文化には存在しない。

お金という概念を理解せず、使い果たす彼らに対抗するためには、持っていないと言い張る以外にない。 そのための演技も必要だ。 出来れば色が真っ黒であればよい。 イサーンでは、色が真っ黒になるまで「田畑」で働くのが、たくさん働いて苦労している人だからだ。 色白の人は楽をしているに違いない、と彼らは考える。 つまり、色白の人間がいくら都会の生活の苦労を説明しても無駄なのだ。

どうしてもまとまったお金を渡さないといけないときは、なくなるまで使い切っても死なない程度の額に小分けにして月極で渡す。 彼らに計画性を求めても無駄だ。 決してまとめて渡してはいけない。 彼らは、20バーツと100バーツのどちらが大きいかを問えば100バーツと答えるが、20バーツと100000バーツのどちらが大きいかといえば、時々20バーツと答えることがある。 この判断ミスが致命傷となる。 一日あたり20バーツ、所持金100バーツ、これで何日間過ごせるかと問えば、5日間と答えられる彼ら。 しかし、一日あたり2000バーツ、所持金、100000バーツで、何日間過ごせるかと問うても、大抵50日とは答えない。 彼らは大きい数の計算能力を持っていない。 そういう彼らに大きい数のお金を渡すと大抵判断が狂う。 そろばんや暗算の文化がある日本人と同じに考えてはいけない。

当然、何故そうする必要があるのか、ウソの論理武装も必要だ。 本当の事を言っても絶対に理解できない。

どんなに信頼している人(妻・息子・娘・親類すべてを含む)であっても、イサーン人に大きな権力を渡してはいけない。 彼らはどんなに高い教育を受けていても、物事を正しく経営出来ない。 彼らはリスクマネージメントが出来ない。 将来、もしこうなったら、こういうことになるから、やめたほうがいい、という危機感を持つことが出来ない。 だから、株やレバレッジやリスク取引など、近代的でありながら落とし穴が大きいものに簡単に騙されてハマってしまう。 そういう失敗をした彼らを責めても無駄だ。 どんなに巨大で致命的な失敗をしたとしても、彼らは相手の慈悲の心を期待し、それが期待できないと知ると、恩も情けも忘れて、自分の敵と見なし始める。 自分が悪いのに、である。

もちろん、ふたたび、何故そうする必要があるのか、ウソの論理武装も必要となる。 本当の事を言っても絶対に理解できない。

彼らを信用してはいけないわけではない。 ただ、彼らと幸せに一緒に住むためには、知恵が必要だ。

コメント一覧
ちえぞう   2010年01月18日 01:14
この所の日記、興味深く読ませてもらってます。
いつか本にしたら面白そう
お金がないと嘘をつくことはしょうがないですよね。
うちは身内がちょっと問題有りなので、昔からいつでも金はないという設定にしてます。
このような全く付き合わないわけにいかない相手と互いに嫌な思いをしないように付き合うための嘘は嘘でなくそういう設定の人間になりきって付き合ってるのだ、と思ってます
でなきゃやってらんないですよねぇ。
ジャコビ   2010年01月18日 01:23
最近のおかあつさんが書いた物の中で一番面白かったです。
おかあつ   2010年01月18日 01:25
コメント、どうもありがとう。

僕はこうやって外国にいて色々な事を悩んで、色々な事を考えて居るけど、これって実は日本と同じなんじゃないか、とだんだん感じるようになってきています。 というか、これって、実は世界中どこに行っても、ひょっとしたら同じなのかもしれない、と考えることもあります。

でも、まだ、よくわかりません。
おかあつ   2010年01月18日 01:35
>最近のおかあつさんが書いた物の中で一番面白かったです。
ありがとうございます。

しかし、僕的には、これだけの答えだと足りないのです。
まだ問題がいくつかあって、それをどう解決するのかわからないのです。
さて、どうしたものかと思います。
Q   2010年01月18日 12:13
同じく興味深く読んでいます。
共感出来る部分、それは違うだろうという部分もあります。
おかあつさんが、どういう形でイサーンに住んでいるのかも興味があります。
日本の田舎と同じで田舎であればある程、血縁地縁が無いと住むのはつらい所だと思います。
コメントで「実は日本と同じなんじゃないか」と書かれていますが、私もそう思います。
私は日本での田舎暮らしに関するコミュにも参加(ROMですが)していますが、
日本の田舎でも内容は違えども地縁血縁の無い移住者には風当たりが強いようです。
イサーン、日本の田舎で暮らす時の問題、苦痛から解放されるには都会で他人には無関心ガチな
無味乾燥的な所で住むのが1番の解決策だと思います。
これからも日記、楽しみにしています。
おかあつ   2010年01月18日 14:49
>共感出来る部分、それは違うだろうという部分もあります。

かなり多くの内容が書いてあるので、どの辺がどうQさんの意見と違うのか、言っていただけたら、とても参考になるので、気が向いたら書いていただけたら幸いです。

>私は日本での田舎暮らしに関するコミュにも参加(ROMですが)していますが、
>日本の田舎でも内容は違えども地縁血縁の無い移住者には風当たりが強いようです。

よく考えてみると、日本もそうなんですよね。 そういえば、僕が前横浜に住んでいたときも、先住民の地元の人と仲良くやっていくのは簡単でなかった覚えがあります。

個人的には時間に追われ支払いに終われるだけの無味乾燥な都会の暮らしはコリゴリです。



僕は田舎での人間関係はどちらかといえば丸く収まっていて、うまく行っている方だと思うのです。 問題は金銭感覚の違いです。 田舎の人は、都会の暮らしの大変さを知らないので、実に簡単に考えているんです。 で、何万バーツ損しようが知らん顔。 都会で働いてお金を送れば一発で解決なんだから、心配することない、っていう感じです。 彼ら都会で真っ当に働いても、月1万バーツにもならないということを知らないのです。

今の流行はオイ(さとうきび)の栽培です。 今年は政府の買取価格保証があるので、多分、タイ全体として流行してると思います。 だけど、これって結構リスクが高いのです。 高価な肥料も買わないといけないし、政府も不安定で本当に保証してくれるかはっきりしないし、フォーリナーな僕的には、ちょっと様子見てからやりたいのです。 だけど、みんな、知らん顔。 借金積んでバンバン植えてます。 しかも、みんなオイ素人(いままで一度もオイを育てたことがない)ので、結構育ちが悪いのです。

うまくいけばいいけど、うまくいかなかったら、また地獄の出稼ぎするの? 出稼ぎだって投資が必要だし、そんなに借金つんで大丈夫なの? 前回の出稼ぎだって結構大金を投資してきたのに、得たお金から投資金を相殺もしないで、有り金全額投資してるけど、それって普通なの?

クエスチョンだらけです。



昨日、気晴らしにスクンヴィットのディスコテックで遊んできたんです。 それでまた色々な子と話して思ったんですが、あの辺で人生に行き詰まってフッカーをやっている女の子って(多分全員)僕が今上に書いた問題と戦っているのではないでしょうか。 まるで判で押した用に同じなのです。 あそこでフッカーをやっている子から「オイ」という言葉を聞いたとき、愕然としました。 それはまさに僕が今見ている問題とぴったり同じなのです。(当然、あの辺でフッカーをやっている子の90%は田舎からやってきたイサーン人だという事も指摘出来ます。)

これってある意味、タイの社会問題なんだと思います。 彼らイサーン人って、もともと決して貧しくはないのですが、お金と言うものをよくわかってないので、使い方を間違えて結果的に以前よりもずっとひどい貧困に落ちているのです。

都会で働くイサーン人はそれに気が付いているのですが、田舎のイサーン人はそれを知らないのです。 でも母の権力が絶対なので、失敗に向けて突進してしまう。 結局尻拭いを都会のイサーン人がする。 このパターンの人って、無数に居るらしいのです。

さてなぁ...。
おかあつ   2010年01月18日 15:54
でも、更によく考えてみると、僕がイサーンで見るほとんどの人は、僕の目から見ても、ごく普通です。 つつましく生活してます。 で、それを例に持ち出して、今やっている事(借金に借金を重ねる放蕩や無計画な投資)って普通じゃないよね、という事を指摘すると、「いやそんなことはない、みんなやっている」という返答が返ってきます。

あぁそうか、と無理やり強引に納得させられるのです。 ですが、そんなことないと僕は思うのです。 これは要するに、都会で働くイサーン人の両親はすべからく同じパターンであるかもしれないが、それは全体の1%程度でしかなくて、ほとんどのイサーン人はつつましく生活している、という事なのかもしれないです。

実際、僕が知る、イサーンに住む日本人のある方の家族では、上で書いたような問題を持っていないように見えるのです。 それで、僕的にはそちらの方がずっと普通に見えるのです。
 
出展 2010年01月18日00:12 『心と言葉の一致』