田舎のネズミと街のネズミ (おかあつ)
2010年01月24日 14:06
以下 おかあつ 2010年01月16日の日記です。
==================================
イサーン人と外人が付きあうと、大体外人がイサーン人にお金を渡して助けてあげることになると思う。 で、イサーン人はそれを使い果たしてまたお金を貰う。 いくら投資してもそれを使い果たして終わり。 それも友達にあげたり、親戚に配って歩いたり、訳のわからない物を買ったりと、きれいさっぱり使い果たして終わりになる。 こんなことをされたら、どんな金持ちも半年で文無しに転落する。
僕はこれがイサーン文化を知らない外人がイサーン人とつきあうからこういう事になるんだと思っていた。 しかしそうではないらしい。 これは、実はタイ人とイサーン人が付き合っても、極端な話、イサーン人とイサーン人が付き合っても起こる問題なんだそうだ。 だからこそ、イサーン人と付き合うのは極力避けるらしい。 外人はそれを知らないからイサーン人と付き合うというだけの話なのだ。
◇
都会で働くイサーン人は苦労人だ。 だから、お金の有り難味をよく知っている。 節約してコツコツと働く。 ところが、田舎のイサーン人は違う。 基本的に狩猟採集民族で、極端な話、文無しで草原のど真ん中にひとりでポツンと放り出されても生きていけるスキルを持っている。 お金など必要ないのだ。 お金が必要ないから、お金が入ると全部おもしろおかしく使い果たしてしまう。 なくなればまた貰えばいいと考える。
助ける方も愛想を尽かす。 しかし、貰えなくなると「血も涙もない」というようなことを言って罵り始める。 それはひとりで勝手に言っている文句ではない。 「血も涙もない」という噂がたつと、村八分になる。 そこに住んでいる限りあげつづけるしかない。
これは外人だけではない。 イサーン人にとっても同じなのだ。 都会で働くイサーン人は苦労して金を稼いで田舎に帰る。 ところが、みんな寄ってたかって金を貰いにくる。 貰えないと「血も涙もない」と文句をいい始める。 仕方がないので、あげるとパーっと使い果たしてしまう。 また貰いにくる。 都会でいくら金を稼いで帰っても、これではお手上げだ。
だからなのだ。 イサーン人は「忙しいから」とか「お金がないから」と言って、家に帰らない。 近所の人は、みんな思う。家には高齢の父も母もいる。 なのにあのドラ息子は何故家に帰らないのかと。 近所の人は「あぁそれは」という。 それは彼がバンコクで働いているからしかたがないのだと。 これでいいのだ。 これは決して田舎に帰ってこれないからではないのだ。 田舎に帰るくらいのお金はみんな持っている。 しかし帰ってくれば色々面倒な問題が起こるので、帰りたくないのだ。
◇
ある人から、商売が上手なイサーンの中華系人は、決して郊外には住まないという事を教えて貰った。 何故か。 危ないからなのだ。 中華系は日本人と同じく堅実な経営が得意だ。 ところが、イサーン人はチャランポランで、お金を使い果たしては、何故助けないのかと逆恨みする。 ここで助けないと大変なトラブルが発生する。 村中の恨みを買って、銃殺されてしまうことも稀ではないのだ。 僕も、そうやって殺されたドイツ人を知っている。 僕もそこに住みつづければいつか銃殺されるだろう。 中華系はそれを知っているから、郊外には住まないのだ。
◇
僕はイサーンが好きだ。 古代文化の香りが高く、ユニークでおもしろい。 だから頑張って色々勉強したし、今でも好きだ。 だけど、僕が近代文明人である以上、イサーン人と同じような金銭感覚は持てない。 それを身につけることは、すなわち、破滅である。
僕はイサーンにいて、外人は怒りっぽい、外人は怒りっぽい、と散々言われてきた。 僕はそんなことはないと、言い張ったが、彼らはそれを理解できない。 僕はタイ人じゃないが、タイの他の地域の生活を知っている。 外人が怒りっぽいなら、タイ人など、もっと怒りっぽい。 そう言った。 だけど、理解できない。
イサーン人は都会で働く。 田舎のイサーン人はそれを使い果たす。 そうやってひとりの人間をよってたかってみんなでひき潰しつづける。 それは良くないことだと教える。他人の金を使い潰すことはひとりの人間の破滅なのだと。 わかったという。 しかし、現実感がない。 それは遠い都会の絵物語でしかないのだ。 結局お金を使い果たして、また金を貰いにくる。こうやって、田舎のイサーン人は都会のイサーン人を苦しめ続ける。
◇
僕はそんなちょっとしたことくらい譲り合えば解決できるはずだろうと思う。
それが違うのだ。
これはタイでは、永遠に解決しない問題なのだ。
(終わり)
===========================================================
おかあつの独り言(2010年01月16日 21:09)
あるいは「人を変えるのは、結局お金なんだ」とも言い換えられるかも知れませんが...。
最近、何でラオスが共産化したのかということをよく思うんですが、要するに共産主義って村社会なんですよね。ひとりだけお金持ちになってはいけない。 みんな平等に助け合わなければいけない。 持っている物はすべて他人に分け与えなければいけない。自分の物はなくなるまで分け与えるし、自分も相手の持ち物がなくなるまで分け与えてもらう。
これはすごく精神衛生上よいことだとおもうのですが、そこにお金が入ってくるとどうしても色々と矛盾が出てくると思うのです。持っている人が常に持っていない人を養って歩く必要が出てくるのです。 助けても助けても、また助けないといけない。そうすると、どうしても、心を鬼にして厳しく接する必要が出てしまうのです。
そうすると、これは究極的に東京とあまり変わりがない、とも言えると思うのです。 人と触れ合わない方が楽なのです。 非常に寂しい話だと思うのです。 どこかに中間点があればいいと思うのですが、まだわかりません。
今、タイのアラブ街で水タバコを吸っています。 さて、これからどこに行こうかなぁ...。このままタイに居るか、それともいっそのこと、中東やアルジェリアに行くか...。でも、どこの国に行ってどこの言葉を学んでも、いいこともたくさん知るし、それ以上に悪いこともたくさん知るものですよね。 さてなぁ...。
==================================
イサーン人と外人が付きあうと、大体外人がイサーン人にお金を渡して助けてあげることになると思う。 で、イサーン人はそれを使い果たしてまたお金を貰う。 いくら投資してもそれを使い果たして終わり。 それも友達にあげたり、親戚に配って歩いたり、訳のわからない物を買ったりと、きれいさっぱり使い果たして終わりになる。 こんなことをされたら、どんな金持ちも半年で文無しに転落する。
僕はこれがイサーン文化を知らない外人がイサーン人とつきあうからこういう事になるんだと思っていた。 しかしそうではないらしい。 これは、実はタイ人とイサーン人が付き合っても、極端な話、イサーン人とイサーン人が付き合っても起こる問題なんだそうだ。 だからこそ、イサーン人と付き合うのは極力避けるらしい。 外人はそれを知らないからイサーン人と付き合うというだけの話なのだ。
◇
都会で働くイサーン人は苦労人だ。 だから、お金の有り難味をよく知っている。 節約してコツコツと働く。 ところが、田舎のイサーン人は違う。 基本的に狩猟採集民族で、極端な話、文無しで草原のど真ん中にひとりでポツンと放り出されても生きていけるスキルを持っている。 お金など必要ないのだ。 お金が必要ないから、お金が入ると全部おもしろおかしく使い果たしてしまう。 なくなればまた貰えばいいと考える。
助ける方も愛想を尽かす。 しかし、貰えなくなると「血も涙もない」というようなことを言って罵り始める。 それはひとりで勝手に言っている文句ではない。 「血も涙もない」という噂がたつと、村八分になる。 そこに住んでいる限りあげつづけるしかない。
これは外人だけではない。 イサーン人にとっても同じなのだ。 都会で働くイサーン人は苦労して金を稼いで田舎に帰る。 ところが、みんな寄ってたかって金を貰いにくる。 貰えないと「血も涙もない」と文句をいい始める。 仕方がないので、あげるとパーっと使い果たしてしまう。 また貰いにくる。 都会でいくら金を稼いで帰っても、これではお手上げだ。
だからなのだ。 イサーン人は「忙しいから」とか「お金がないから」と言って、家に帰らない。 近所の人は、みんな思う。家には高齢の父も母もいる。 なのにあのドラ息子は何故家に帰らないのかと。 近所の人は「あぁそれは」という。 それは彼がバンコクで働いているからしかたがないのだと。 これでいいのだ。 これは決して田舎に帰ってこれないからではないのだ。 田舎に帰るくらいのお金はみんな持っている。 しかし帰ってくれば色々面倒な問題が起こるので、帰りたくないのだ。
◇
ある人から、商売が上手なイサーンの中華系人は、決して郊外には住まないという事を教えて貰った。 何故か。 危ないからなのだ。 中華系は日本人と同じく堅実な経営が得意だ。 ところが、イサーン人はチャランポランで、お金を使い果たしては、何故助けないのかと逆恨みする。 ここで助けないと大変なトラブルが発生する。 村中の恨みを買って、銃殺されてしまうことも稀ではないのだ。 僕も、そうやって殺されたドイツ人を知っている。 僕もそこに住みつづければいつか銃殺されるだろう。 中華系はそれを知っているから、郊外には住まないのだ。
◇
僕はイサーンが好きだ。 古代文化の香りが高く、ユニークでおもしろい。 だから頑張って色々勉強したし、今でも好きだ。 だけど、僕が近代文明人である以上、イサーン人と同じような金銭感覚は持てない。 それを身につけることは、すなわち、破滅である。
僕はイサーンにいて、外人は怒りっぽい、外人は怒りっぽい、と散々言われてきた。 僕はそんなことはないと、言い張ったが、彼らはそれを理解できない。 僕はタイ人じゃないが、タイの他の地域の生活を知っている。 外人が怒りっぽいなら、タイ人など、もっと怒りっぽい。 そう言った。 だけど、理解できない。
イサーン人は都会で働く。 田舎のイサーン人はそれを使い果たす。 そうやってひとりの人間をよってたかってみんなでひき潰しつづける。 それは良くないことだと教える。他人の金を使い潰すことはひとりの人間の破滅なのだと。 わかったという。 しかし、現実感がない。 それは遠い都会の絵物語でしかないのだ。 結局お金を使い果たして、また金を貰いにくる。こうやって、田舎のイサーン人は都会のイサーン人を苦しめ続ける。
◇
僕はそんなちょっとしたことくらい譲り合えば解決できるはずだろうと思う。
それが違うのだ。
これはタイでは、永遠に解決しない問題なのだ。
(終わり)
===========================================================
おかあつの独り言(2010年01月16日 21:09)
あるいは「人を変えるのは、結局お金なんだ」とも言い換えられるかも知れませんが...。
最近、何でラオスが共産化したのかということをよく思うんですが、要するに共産主義って村社会なんですよね。ひとりだけお金持ちになってはいけない。 みんな平等に助け合わなければいけない。 持っている物はすべて他人に分け与えなければいけない。自分の物はなくなるまで分け与えるし、自分も相手の持ち物がなくなるまで分け与えてもらう。
これはすごく精神衛生上よいことだとおもうのですが、そこにお金が入ってくるとどうしても色々と矛盾が出てくると思うのです。持っている人が常に持っていない人を養って歩く必要が出てくるのです。 助けても助けても、また助けないといけない。そうすると、どうしても、心を鬼にして厳しく接する必要が出てしまうのです。
そうすると、これは究極的に東京とあまり変わりがない、とも言えると思うのです。 人と触れ合わない方が楽なのです。 非常に寂しい話だと思うのです。 どこかに中間点があればいいと思うのですが、まだわかりません。
今、タイのアラブ街で水タバコを吸っています。 さて、これからどこに行こうかなぁ...。このままタイに居るか、それともいっそのこと、中東やアルジェリアに行くか...。でも、どこの国に行ってどこの言葉を学んでも、いいこともたくさん知るし、それ以上に悪いこともたくさん知るものですよね。 さてなぁ...。
コメント一覧