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2009年3月19日木曜日

就活 (mixi05-u459989-200903190252)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
就活
2009年03月19日02:52
僕が住んでいる地元の駅にスターバックスがある。 このスターバックスは、とても小さく決して居心地がよいとはいえないのだけど、とにかく近いのでよく行く。 このスターバックスには、吉野家のUの字テーブルのように、向かいの人といつケンカになってもおかしくないほど差し迫ってしまう、小さなテーブルが二つおいてある。 窮屈ではあるが、他には小さな丸テーブルしかない。 これでは書類を広げて仕事することが出来ない。 小さな差し迫った机以外にきちんとした卓上が確保できる席は無いので、そこに座る以外ない。

その日も僕はそのスターバックスに行った。 そしてその小さい差し迫った机に座った。 すると、向かいには、黒いリクルートスーツで身を固めた若い女の子が二人座っていた。 ペチャクチャとよくしゃべっていた。 向かいの席はとても近く、そのおしゃべりの会話の内容がよく聞こえた。 僕は聞き耳を立てるでもなく、聞こえてくるままに話を聞いていた。 彼女らは見たとおり、就職活動中であるらしかった。 その駅は東京の某空港のすぐそばにあり、航空会社と近いのだが、彼女らはどうやらスチュワーデスの面接を受けて帰ってきたらしかった。

ひとりは積極的でどちらかというと要領よく仕事を進める自分の才能に酔いがちなタイプなのかなと思った。 もうひとりは控えめな感じの女の子でずっと聞き手に回っているような感じだった。 話は恋愛から就職・東京暮らしまで多岐にわたった。

要領がいい方は、恋愛も相当強気らしかった。 田舎に居た頃、捨てた男が家のそばで待ち構えていたことがあって、つかまって泣かれて大変で、と笑って話した。 周りに近所の人がたくさんいて目立ってしまい、そんな男泣かせのこの女はどんなヤツなんだ、という絵があり、人目が気になって仕方が無かった、というようなことを言っていた。 「それってやじゃない?」 「え~ 絶対やだよね~」

彼女の言葉は自身に満ち溢れており極めて強気だった。 他人を踏みにじっても自分は絶対に他人から踏みにじられないというはっきりした確信を持っているように感じられた。 しっかりした両親に守られ失敗も挫折も知らずにここまで育ってきたのではないかと思う。

彼女ははっきり言って、僕が嫌悪するタイプの女ではあった。 話の内容も実に表面的でうんざりした。 何を考えているのかさっぱりわからないと感じた。 バカじゃないか、とも思った。 だけど、何を考えているかさっぱりわからず相手がバカだと思える、というのは、外国文化との遭遇でよくおこる一種のカルチャーショックで、もし相手をバカだと思ったままで立ち止まっていたなら何も進歩が無い。 だから、よく話を聞いて観察して、何を考えているのか、知る努力をしてみようと思った。

こんな会話が聞こえてきた。

「...○○社の面接受けてきたんだけど~。 ○○社って『もし会社の○○を紹介するとしたらどんな文章を書きますか。 実際に作成して提出しなさい。』 みたいな試験を出すんだって。 自由な発想で書け、みたいなことを言われるらしくて、だからシールとか使って自由に作って出すと~、その会社意外と硬くて、落とされちゃうんだって~。 じゃぁどうすればいいっていうの~? 傾向がわかんない。」

その話を聞いていて、このような絵が浮かんできた。

面接というのは、実際にあって話を聞いてみるための場だ。 面接官は、そこで、その人物がどういう適性を持った人なのか見極める。 面接を受ける人は、自分の特徴やよさを面接官にアピールする。 だから、面接を受ける人は、何でも正直に話して、何でも正直に聞くべきだと、僕は思う。 それこそが普通の面接ではないか。 世界的に見ても、それが普通じゃないか。 しかし、日本では事情が異なる。

実際の日本の面接はそんな直接的なコミュニケーションの場ではない。 実際にはもっと違うことが起こっている。 面接をする側は、既に、あらかじめどのような人間を採用するか固定した方針として用意している。 試験管は言われた方針を守るだけで、あまり柔軟性がないのだろう。 だから機械的に面接を受ける人を振り分けるだけのマシーンに成り下がっているのではないかと思う。

もし面接を受ける側が、その面接のからくりを知ったら、どう思うだろうか。 面接を受ける側は正直に自分を出して自分の考え方をアピールするだろうか。 人間、そこまで正直じゃない。 もっとも自分のメリットが最大化する方法をとるのが自然だ。 つまり、面接をする側がどのような方針を用意しているのかをあらかじめ調べて、それにあわせてまったく別な人格を演じるのである。 これが常態化している。

これでは、面接が、その人物の適正を調べているとはいえないだろう。 これは、つまり、その人間の「空気を読む力」を測定しているのに他ならないだろう。 言葉を変えれば、これは、面接という形を借りたジェスチャー当てゲームである。

面接によって空気を読む能力を持った人だけが入社することになるのではないか。

これが、僕にはものすごく日本的に見える。



「空気を読む」というのは、多くの場合、言わずに相手が嫌がっていることやして欲しいことなどを、相手が言う前に察して行動することを指す。 しかし、空気を読むのは時として非常に難しく、実はほとんどの場合、実行不可能じゃないだろうか。

空気を読むことが可能であるケースは、極めて限られている。 空気を読むためには相手の文脈を知り尽くしている必要があるからだ。 文脈を知り尽くすためには何らかの同じものが必要だ。 「同郷である」「同大学である」「同期である」「同世代である」「同性である」といった何らかの同じものが必要なのだ。 しかし、そういう何らかの同じものを常に用意できるとは限らない。 同じものを用意できない場合、空気を読むことは出来ない。

相手のことを何も知らないのに、何も言わないで相手のことをどうやって知ることができるというのだろう。 もちろん説明を求めることも出来ない。 これでは理解することは絶対に不可能だ。 しかし、その不可能を乗り越えなければ「空気が読めない」といわれて批判される。

つまり、自分が他の人と異なった特徴を持っていると、コミュニケーションが極めて困難になる。

だが、この半世紀で急速に変化し信じられないほど複雑になった日本で、同じものなどいくつ用意できるというのだろうか。



日本人の人間関係は、実に疲れる。 何故だろうか。僕の意見では、このつかれる理由はふたつある。 ひとつは、日本人の人間関係がとても表層的だからだ。 もうひとつは、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。 順番に説明してみたい。

日本人の人間関係は、実に表層的だ。 表層的、というのは、つまり、相手に関する情報を一切知らず、自分に関する情報を一切知らせないことだ。

何故日本人の人間関係はここまで表面的なのか。 それは、自分の人格に関する情報を相手に伝えると、人間関係の駆け引き上、不利になるからだ。 たとえば、あなたのある特徴が、あなたを評価する人の考え方の中で好ましくない特徴であった場合、あなたはチャンスを失ったり、ポストを失ったりすることなる。 だから出来るだけ自分の特性を相手に伝えない方が有利だ。 あなたが評価する側でも同じである。 あなたの人間の好みがどのようなものであるか、相手に伝えない方が有利だ。 そうすることで、相手がうっかり本性出してしまう可能性が高くなり、評価の精度が高くなる。

つまり、日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負けなのである。

これは仕事上だけではなく、恋愛での人間関係であったり、時には友人との間でも、時として親類との人間関係であっても、起こりえる。

自分に関する情報を一切知らせないということは、時としてとても疲れる。 自由にのびのびと振舞えず、常に自分が言った建前どおりのことを演じきらなければならないからだ。 これは日本人を知る外国人全員の意見であるだけでなく、多くの日本人もそう思っているのではないだろうか。

これがひとつめの理由だ。

ふたつ目は、日本人が「日本人はみな同じである」という幻想を持っているからだ。

人間、ひとりとして同じ人はいない。 誰しも個人差があり、違う感性もって違う性格を持っている。 ハムスターなどを飼っているとこんなことに気がつく。 ハムスターは、みな同じ顔、同じ模様をしているものだが、不思議なことに一匹一匹少なくない個体差があるのだ。 性格や行動パターンがずいぶんと異なるため、見分けることはさほど難しいことではない。 ハムスターよりもずっと複雑な生き物である人間ならなおさらである。 当然なことである。

しかし、日本人は、そう思っていないようだ。 わずかな違いに目くじらを立てて、相手を糾弾する。 「髪の毛の色が違う」 「髪の毛の長さが違う」 「出身が違う」 「学閥が違う」 何故だろうか。

僕は最近思うのだけど、日本人は、アジア版・知恵の実を食べたアダムとイブなのではないだろうか。 それはつまり、アジアの国の中では珍しく、本当のことを知る辛さと正面から対決ということだ。


知るということは、時として実に辛いことだ。 知ることの中でも特に自分に関して知ることはとても辛い。 たとえば、誰にでも自分の容姿が醜いということに気がつくときがある。 誰しも自分が美しいと思っている。 だけど、あるきっかけで、それが真実でないということに気がつき始める。 自分を美しいと思う気持ちには麻薬のように常習性がある。 容易には止められない。 麻薬が切れると心の中にありとあらゆる苦痛が入り込んでくるが、鏡を見ることによってそんな麻薬が切れ始めるのである。 麻薬が切れ始めると人はいろいろな行動をとるものではないだろうか。

ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れなすがままに醜くなる。 ある人は自分の容姿が醜いことを受け入れることが出来ず、それを見まいとすることで、心の安静を保つ。 ある人は、醜い他人をあざけることで、心の安静を保つ。 ある人は、本当に美しい人の邪魔をすることで、心の安静を保つ。

しかし、醜いことを受け入れることが出来ずに、ひたすら美しくなる努力をする人もいる。あるいは、美しさが人間の唯一の価値ではない、という更に普遍的な価値観に気がつくきっかけになる人もいる。 こういう、前向きさ。 ひたむきさ、こそが人が残酷で何の色彩も無い冷酷な真実から心を守るための唯一の方法ではないだろうか。 人は、心の痛みを和らげるために、いろいろな現実認識に対する狂いを持っている。 それが麻薬として働く。 知識・論理・合理とは、そんな心をやさしく守ってくれる麻薬をすべて追い出してしまう、極めて苦い薬なのである。

厳密な論理に負けない気持ちのタフさを得るためには、極めて辛いコールドターキー(禁断症状)を乗り越えなければいけない。 その苦しさを乗り越えることが出来たものだけが、本当の美しさを手に入れる。 多くの人はその禁断症状を乗り越えることができず、次善策で妥協するものではないか。


ところで、日本はアジアの国の中でもとても特殊な国だ。 なぜならば他の国のように文化の中に「認識の麻薬」を持っていないからだ。 アジアの多くの国は、文化の中に、とても高級で副作用の少ない麻薬=現実認識の狂いを持っている。 それは、のんきさだったり、やさしさだったり、適当さだったり、あいまいさだったりする。 こういうあいまいさがあるからこそ、現実が自分の思ったとおりでなくとも、苦しくない。 心の世界は平和なまま保たれる。 あいまいさが生きている。

言葉もそれを反映してか時制が無かったり冠詞が無かったりすることが多いようだ。

しかし、日本語はその点大きく異なる。 日本語は、その点極めて特殊だ。 日本人はどういうわけか、他の文化からいろいろなものを輸入するのが好きで、特に、日本語に外国語から新しい概念を輸入するのが好きであるようだ。 日本語はあらゆる文化からのあらゆる概念を取り入れまくっている。 中国語・ポルトガル語・ドイツ語・フランス語・英語・あらゆる文化から新しい考え方を取り込むことで、あいまいだった日本語をドーピングしまくっているのである。

最初は大和言葉だけで他のアジア言語と同じようにあまり複雑な論理を表現できなかった日本語が、こうしてドーピングされることによって、非常に厳密に論理を表現できるようになってしまったのではないだろうか。



日本人は相手も自分もほぼ同じだ、ということを前提にコミュニケーションをとろうとする。 自分も相手も同じだという前提に立つことで、自分と相手の違いを出来るだけカモフラージュし衝突を避けようとするからだ。 だが、言葉が厳密である以上、こういう人間関係のあいまいさを徹底的にあぶりだしてしまうのではないだろうか。 あぶりだされてしまったあいまいさは、正に麻薬を断ち切る鏡のような存在で、極めて認めがたいものだ。 だけど、日本語が持っている厳密さはそれを否定させない。

そういう矛盾の中で、「ごくわずかな差」に目くじらを立てる人が現れたりするのではないだろうか。 上司の出身が自分と違えば、そのことを出来るだけ指摘しないように接する必要がある。 平社員は、上司の麻薬を切らせたら終わりである。 客の要望が現実的でなければ、そのことを出来るだけ悟らせないようにする必要がある。 営業マンは客の麻薬を切らせたら尾張である。

だからこそ、日本語を話す人は、そのごくわずかな差を隠すために全身全霊を傾けなければいけないのではないだろうか。



しかし本来であれば、日本語の鋭さを隠すような消極的な解決策に甘んじてはいけないのではないか。 本来であれば、現実認識の麻薬は完全に断ち切り、完全な論理・合理の世界にわたりきらなければならないはずだ。 本来であれば、厳密な言葉をつかって話し合うことでお互いの理解を深める、そんなコミュニケーションを持たなければならないはずなのだ。 しかし、日本人は、まだそこまでは近代化されていない。

そういう実にアジア的なあいまいさとヨーロッパ的な厳密さの中間で漂っている国が日本なのではないだろうか。

日本人の人間関係は、実に疲れる。 それは、日本語が持っている言葉の厳密さを全身全霊を使って隠す必要があるからなのかもしれない。

しかし、本来は、せっかく持っている日本語の厳密さを最大限に利用し、もっときめの細かいコミュニケーションをとるべきではないだろうか。 自分のことを出来るだけ的確に説明し、相手が説明する相手の状況を的確に読み解く。 こうすることで全員が「自分のことを100%理解できる人」になる。 いや、実は今までの「空気を読む」コミュニケーションでは0%しか理解できないだけなのだ。 話し合えば30%理解できるようになり、30%が理解できるだけで、多くの日本人が取り付かれたように感じ続けていた孤独感のほとんどは消えるのだ。

実際、日本の一部の人はそう考え始めているのではないだろうか。 僕はタイにいるのでよく思うけど、日本の女の子が言う言葉は、タイの女の子が言う言葉と比べて、ものすごく哲学的だ。 日本の女の子は、心理の奥深い部分にある複雑さを出来るだけ厳密に描写しようとしていることを感じる。 タイの女の子はもっとシンプルだ。


しかし、上で述べたように「日本人の人間関係の間では、自分の意見を言ったら負け」である限り、限界がある。 「自分の意見を言ったら負け」である限り、厳密なコミュニケーションをとろうとする人たちは、一般的に迫害されがちでもある。

これは、今の日本人がもっている大きな矛盾なのではないか。

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出展 2009年03月19日02:52 『就活』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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