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2009年2月18日水曜日

渋谷にて (isaan05-c987254-200902181102)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
渋谷にて (おかあつ)
2009年02月18日 11:02
最近管理人はあまりイサーン語についての文章を書いていません。 このコミュニティーを設立した当初は日本人がタイを大きく誤解して見下していることに違和感を感じて仕方がありませんでしたので、ひたすらその文化の違いについて文章を書くということをしていたのですが、最近では、なんか達観してしまったというか「日本人ってそういうもん」という風にヘンに割り切れてしまったので、諦めてしまったというか、いずれにせよ、イサーンについて書くことに対するモチベーションが落ちています。

先日日本に一時帰国したおり、日記を書きました。 イサーンと直接関係のある文章ではないのですが、語学に関することが書かれており、イサーンに興味を持っている方であればひょっとしたら興味をもたれる内容かもしれません。 閑話休題ということでここに転載してみたいと思います。 よろしければご笑覧ください。



「渋谷にて」 ──── 2009年02月17日03:22

今日、ひさしぶりに渋谷に行ったのですが、街の雰囲気というか人々の雰囲気が一変していてビビッてしまった感じです。 数年前までフレッシュな若者だった人が今は娑婆を食った大人になっており、入れ替わりで新しい若者が現れて、彼らは服装も若干違い、表情も若干違う、というのが、新鮮で面白く感じました。

個人的には今の10代後半の子の表情は僕にとっては若干親しみがあるような気がします。 うまくいえないのですが、格差を感じている人の表情をしているような気がします。 それが本当に事実を言い当てているかどうかはわからないですが、少なくとも1980年代生まれのように自信に満ちた顔はしていないと思います。 僕は、自信に満ちていることがいいことだとは思いません。 むしろ自信がない方が、考える機会に恵まれているんじゃないか、と僕は思います。 そういう考える機会に恵まれた人は、自信に満ちて考える機会に恵まれなかった人よりも困難に対する耐性が強いんじゃないかと思います。

久しぶりに日本でスタバに行きました。 スタバに行けば、僕が普段見ていたタイ人などは絶対に読まないような難しい本を暇つぶしに読んでいるような人がいたり、難しい課題に取り組んでいる人が居たりして、あぁ、日本というのは普通のアジアの国とずいぶん違うんだな、と思いました。 何かで、日本というのはひとつの国だけで文化圏を構築している珍しい国なのだ、ということを読んだんですが、タイに長くいて、渋谷に戻ってくると、実際そういう気がしてきます。 他のどこにもこんなユニークな国はないと思います。

でも、やっぱり日本は日本なんだなぁ、とも思いました。 というのも、坂の途中の映画館に「格差を語って救われた奴はいない」というようなことが書いてあったのがちょっと印象に残ったからです。 これを読んで、日本人というのは、どこか言葉によるコミュニケーションをあきらめているところがある、という思いを更に強くしました。

僕が言う、「言葉によるコミュニケーションをあきらめている」というのは、どういうことかというと、「他人の気持ちは究極的にはわからない」とか「意見が違う人には何をいっても無駄だ」とかそういう意見が常識的に正しいものとして受け入れられていることのことです。

なぜこういう風になるのでしょうか。 その理由を僕はずいぶん長いこと考えてきたのですが、最近は、日本語が曖昧な言葉だからじゃないだろうか、と考えています。 次に理由を述べてみたいと思います。

僕もタイ語を勉強し始めて3年ぐらいたちました。 だいぶ話せるようになりましたが、言葉によって具体性の度合いがずいぶん違うものだなぁということをよく考えるようになりました。

たとえば、タイ語は、もともとかなりあいまいな言葉です。 なぜならば、ある一文だけを聞いても何を言わんとしているのかはっきりしないことが多いからではないかと思います。 たとえば、タイ語で会話しているときは、その文の意味を前後関係から推測しながら理解しなければいけません。

そこにくると、英語はそういうあいまいな要素が少ないように思います。 すべての名詞は冠詞によって具体的に何を指しているのか明示されているし、過去・未来に関連する時系列もすべてがはっきりと明示されています。

最近、このことについて、きわめてはっきりとした具体例を見つけました。 それは、タイ語に น่าจะ / ไม่น่าจะ [ナーチャ・マイナーチャ] という構文です。 これはそれぞれ、すべき・すべきでないということをあらわす表現です。 ところが、この構文には時制をあらわす方法がないのです。 たとえば、ไม่น่าจะซื้อ [マイナーチャスー=買うべきでない] とあったとします。 この文をそのまま英語に訳せば (You) should not buy (it) という風になります。 ところが、後ろに続く言葉が แต่ซื้อแล้ว [テースーレーオ=だがすでに買ってしまった] となっている場合、意味的に時制が変わるので、You should not have bought it という風に訳す必要があります。 タイ語は前後の文脈によって自然に意味が変わりますが英語は前後の文脈によって意味が変わらないため、はっきりと形を変える必要があるのです。 これはつまり、タイ語でไม่น่าจะซื้อ [マイナーチャスー] と聞いただけでは、それが過去のことを悔やんでの発言なのか、将来どうすべきなのかを示唆しての発言なのか判別つかないということを意味しています。 タイ語話者は無意識のうちに、この意味的な違いを文脈によって判別しており、おそらく、この違いに気がついてすらいないと思います。

タイ語ではしばしばどちらの意味でとればよいのかはっきりしないこともあります。 タイ語が漠然とあいまいなままに話が進んでいきやすい原因のひとつでもあるのかも知れません。 だからこそ、タイ語では人が傷つきやすいようなことをうまくカモフラージュしてやさしく伝えることも出来るのかも知れません。 この点、英語では、こういった曖昧さは一切ないためまったく間違えようがありません。 だからこそある種の精神的な強さが求められる言葉でもあるのかもしれません。

思考は言語に支配される、などという人がいますが、言葉というのは気がつかないうちに思考にかなり大きな影響を与えるものではないでしょうか。 だからこそ、こういう言葉の性質の違い・曖昧・具体性が、気がつかないうちに、人の考え方に深く根ざしているのではないだろうか、というように思います。


で、日本語なんですが、こうして3つの言語を見渡してみると、僕には、英語とタイ語の中間的な存在であるような気がしてならないのです。

日本語はタイ語と比べるとずっとはっきりと断定的にわかる言葉だとおもいます。 時制もタイ語よりずっと豊富に表現方法があります。 しかし、英語と比べると、ずいぶんあいまいであるように思います。 それは、僕に意見によると、日本語に冠詞がないからではないかと思います。

冠詞というのは、the とか a とかいった、単語の先頭につく短い単語のことです。 これは英語を話しているとき、その話しているトピックの主役が具体的にどの実物なのかを指定する言葉で、文の意味をはっきりさせるために、とても大切です。 しかし、日本語には冠詞がありません。 たとえば、誰かが日本語で「犬が好き」といったとき、それが英語に訳したときに、I like dogs になるのか I like the dog になるのかは 文脈によります。

俳句に「静けさや岩に染み入る蝉の声」というものがありますが、この俳句の中で、静けさはいったい a なのか the なのか、複数形なのか、岩は a か the か複数形か... といったことは一切言及されません。 それをどう解釈するかは読んでいる人のイマジネーションにゆだねられています。 日本人はこれを「奥ゆかしさ」と呼んで、美しさの要素のひとつとして考えており、日本文化の一つの基盤になっているように思います。

この日本語のあるひとつの文の意味が前後の文脈に依存しているという性質は、上で述べたような、タイ語が持っている、ある文の意味が前後の文脈に依存している性質とまったく同じものではないかと思います。 日本語もタイ語と同じようにあいまいなところがあるのです。

僕は、日本人はこの日本語が根本的に持っている曖昧さにもっと注意を払うべきでないか、と考えています。

というのも、この性質はそのそも、論理的・哲学的な思索にはあまり向いていないものだからです。 たとえば、日本人が考える論理的な文章や哲学の文章は、まったく意味不明なものが少なくないです。 そして、僕は思うのですが、その意味不明さの中に一種の美しさを見出しているような気がします。 意味不明な文章をとめどなく書くことに一種の快楽を覚えているような気が僕にはします。

英語にすると、そういう曖昧さは一切消えてなくなります。 すると、その内容のなさが完全に暴露される形になってしまうため、奥ゆかしさは完全に失われます。

電車に乗ると、JTの啓蒙広告をよく見かけるのですが、ご存じないでしょうか。
http://www.jti.co.jp/sstyle/manners/ad/poster/index.html

上に日本語で、読む人に意味を考えさせるようなあいまいな文章が述べられており、その下にその英訳が書かれている、というパターンでたくさんのポスターが作られています。 で、特筆すべき点はこの英語の意味不明さです。 この意味不明さは、英語話者にとっては、なんの奥ゆかしさも感じさせません。 それどころかこの変な英文を書いた人は頭がおかしいのだと断定されてもおかしくないほどの、ひどい無意味さなのです。

日本語にはそういうあいまいさの中で、前後の文脈によってその意味を推測することを要求する要素があります。 場合によっては、前後の文脈はそこには書かれておらず、社会で話題になっていることがらや、普段生活するうえでの一般常識と照らし合わせて、推測する必要がある、ということも少なくありません。 つまり、タイ語と同じで、日本語では文章だけを読んでも、意味がわからない場合がしばしばあるのです。

だからこそ、日本人は、このような意味不明さの中で文が持っている意味を知ることが出来るのではないかと思います。 文脈への依存が少ない英語では、このような書き方は許されません。 また、だからこそ、日本語は時代が変わることによって文の意味がまったく不明になるということも少なくありませんし、日本語で書かれた文章は読み手によってまったく真意が汲み取ってもらえないということも少なくないように思います。




久しぶりに見る日本は、ハイテクがすさまじい勢いで進化しており、携帯も3Gが当たり前、みんな知的好奇心が強くてスターバックスに行けば難しい本を片手にあれこれ考え事をしている人がそこらじゅうにいる...という 頭のいい国だなぁ、と思うと同時に、タイと大して変わらないのではないかと思うことも少なくないです。



先日、秋葉原を歩いていたら、珍しくジャズのストリートをやっている人がいました。 10年前には絶対にいなかったような抽象的な演奏をする人たちで、今はこういう人もいるんだなぁ...と思うと同時に、あぁやっぱり日本の演奏なんだなぁというようなことも思いました。聞いていて思ったのですが、抽象的な中にあまりパターンが見えないのです。

ジャズって言葉と非常に近い要素があります。 ジャズにも言葉と同じように単語があり、文脈があり、抽象性と具体性があり、ギャグやパロディーがあり、コミュニケーションがあります。 ジャズは言葉である以上、言葉と同じように「話すのがうまい・へた」ということがあります。 また、言葉と同じように、話すのがうまいへたにかかわらず、かならず言葉を話すことが出来ます。 ジャズは、どんなバカでもどんな天才でも、等しく言葉が話せるのと同じように、どんな初心者であってもどんな達人であっても、等しくジャズという言葉を話すことが出来ます。

しかし、日本人のジャズの演奏からは、そういう言語性を感じられないのです。 これは演奏がうまいかへたか、という次元とはまた別次元の話であるように感じます。 ジャズは、言語である以上どんなに抽象的であってもそこには必ず意味があるものです。 しかし、日本人の演奏からは漠然とした無意味さを感じることが少なくないのです。 また、ジャズは、英語がそうであるように、あまり曖昧さがありません。 無意味さに奥ゆかしさが存在できず、美しくないのです。

ここに、日本人の中の言葉の不在を、僕は感じます。
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出展 2009年02月18日 11:02 『渋谷にて』