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2009年1月30日金曜日

わからん人 (mixi05-u459989-200901300649)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
わからん人
2009年01月30日06:49
「今日私は次の様なことを考えた。あるひとつの言語の記述性について言語自身が先天的に持っている凡庸さ特異性を考慮しつつ日本語と各ヨーロッパ言語を比較しるという数ヶ月にわたる試みを通じて私は言語という存在自信が持っている理解困難さと誠実に相対することが如何に困難なのかを思わざるを得なかった。」

なんというか理解困難な文章はかっこいい。 そういう価値観が日本人の中にはあると僕は思う。 上に書いた文章みたいに単語ひとつひとつの定義をはっきりさせないまま、バーっと長い文節を書けばいくらでも哲学っぽくかっこうよくなる。

しかし最近英語で文章を書いている時、気がついたのだが、英語の文章を書いているとき、この「あいまい難解」のノリで文章をかくと、非常に恥ずかしい文章になる。 英語には日本語みたいなあいまいさがないので、何の意味もないことを書いている、ということが誰の目に見てもはっきりわかってしまうからだ。 ところが、日本語では単語の定義がはっきりしない場合が多いので、なんだかわかったようなわからないような、そういうあいまいさのなかで美しく話が進んでいく。

そういえば、英語では Can you describe it more specific? とか Define ○○? とかいう言葉をよくつかうようにおもう。 何か話をしているとき、ある単語を特殊な意味として使うということはよくある。 例えば誰かが「僕は言葉もひとつの記号だと思うんです。」っていったとすれば、この「記号」という言葉の意味は一般的な意味ではない。 聞き手からは「記号の定義は?」とか「もっと具体的にいうと?」とかそういうあいづちが即座に返って来る。

日本の哲学の先生とかに「もっと具体的にいうと?」なんて口のききかたをしたら恐ろしいことになる。 ムッとした顔をしたうえ、君にはワカランだろうが」とかそういう嫌味をひとことふたことつぶやいたのち、更に理解困難な言葉を大量に使って説明されるという恐怖の反撃を受ける可能性があるので、怖くて絶対そういう質問は出来ない。

日本だとわかり易い文章は何だかこどもっぽい物であるかのように扱われることが多くないだろうか。 英語の文章だと(文学とかは別だけど)ボキャブラリをやたらめったらたくさん使った文章はよくない文章の例として挙げられることがおおい様な気がする。 そもそも英語は日本語と比べてボキャブラリが少ない。 日本語は同音異義語が非常に多いし、二文字以上の漢字を多く組み合わせることであらゆる合成語を作ることができるため、信じられないほどたくさんの単語がある。

一説によると英語のボキャブラリは日本語よりもずっと少ないということがいわれているらしい。 例えばOxford English Dictionaryにはだいたい15万単語ぐらいの単語が掲載されているらしい。 また一般に普通に教育を受けた英語話者であればだいたい2万語程度のボキャブラリを持っているだろうという説もある。 一方、日本国語大辞典には45万語の単語が収録されているらしい。 この数字だけを見ても日本語が桁違いに単語数が多いことを想像させる。 梵語・オランダ語・ドイツ語・英語・中国語・和語とゴッチャマゼになった日本語と比べると英語はずっと「簡単」に感じる※。

※ 日本語では一般的な人がどれくらいの単語数を持っているのかについてはあまり研究がなされて居ないようだ。 これは日本語の難しさと関連しているように思う。例えば「拙者これにて失礼させてチョンマゲ、バイナラ、ナラバイ」という文章があったとして、これらの単語を日常的に使う人はまず確実にいないだろうけど、日本人なら殆どの人がこの文章を読んで意味がわかる人はずだ。(わからないとはいわせない。)このように日本語だと読みと書きでボキャブラリの数が違うというようなことが起こるけど、英語だとそういう要素は少ない様な気がする。

英単語数について
http://www.askoxford.com/oec/mainpage/oec02/?view=uk
http://www.askoxford.com/asktheexperts/faq/aboutenglish/numberwords?view=uk
http://hypertextbook.com/facts/2001/JohnnyLing.shtml

Oxford English Dictionary
http://www.oed.com/

日本国語大辞典
http://www.nikkoku.net/introduction/tokusyoku.html

バイナラについて
http://www.youtube.com/watch?v=8nKzInZ4rIY


英語で論文を書く時言われることがある。それは「これは何とかだと考えられている」「...だと思わざるを得ない」とかそういう受動形の文は*死んでも書くな*っていうことだ。 だけど日本語で文章を書く時は、そういう風な理解がじゃっかん難しくなる書き方を多様する事でとりあえず格好をつけることがとても多い様な気がする。

コメント一覧
あび   2009年01月30日 12:19
> 哲学の先生とかに「もっと具体的にいうと?」なんて口のききかたを
> したら恐ろしいことになる。

たしかに・・・・。「もっと具体的にいうと?」という簡素な言い方だと、なんだか語感として、「説明が不足しているから詳しく説明して欲しい。」とか「説明の仕方が漠然としすぎていて理解不能だから追加説明して欲しい。」という事を求めているように感じてしまい、ぶっきらぼうに感じて相手を不愉快にさせてしまうかもしれないなあと感じますね。

たぶん、このような状況では、

「先生の仰った内容の○○という部分までは理解できたのですが、△△という部分が良く理解できませんでした。これは、××というような理解でよいのでしょうか。それとも▲▲というような意味合いでしょうか。もう少し具体的な例を挙げてご説明頂ければ助かるのですが・・・。」

というような、自分の理解度を細かく説明して、追加説明の要点を絞った質問をしないと、哲学の先生から、自分の求める粒度での返答を得る事はできないでしょうね。(それでも、更に理解困難な言葉を大量に使った説明に終始する学者様も多いのも事実なのですが・・・。)

もしかしたら、日本語は、微妙なニュアンスや意味合いを持った多様な語彙があるが故にきちんと、それらを駆使できないと、意思疎通自体ができない言語なのかもしれませんね。

更にそこへ、「相手の気持ちを汲み取る」とか「行間を読む」なんていう高等戦術まで駆使して不足した情報を想像力で補いながら、意思疎通をしないといけないとしたら、もう、それは言語による意思疎通の領域をはみ出して、テレパシーとかの領域に突入しそうな勢いになってしまいそうですね。
おかあつ   2009年01月30日 15:28
> 更にそこへ、「相手の気持ちを汲み取る」とか「行間を読む」なんていう高等戦術まで駆使して不足した情報を想像力で補いながら、意思疎通をしないといけないとしたら、もう、それは言語による意思疎通の領域をはみ出して、テレパシーとかの領域に突入しそうな勢いになってしまいそうですね。

僕がタイに来てタイ語が話せる様になって思ったのが、タイ語が話せるようになると逆にタイ語を話す機会が少なくなる、ということがある。何というかタイ人って普段他人をものすごくよく観察していて、話を始めた時には既にこっちが何をいおうとしているか知っていることが多いからだ。 例えば、食堂にいって注文する時にはもうこちらが何を食べたいか知っている、とかそういう感じだ。 下手すると注文しなくてもご飯が出てきたりする。

タイ語を話す時は、タイ語以前の問題として言葉を使わない意思疎通がすごく大切なんだと思う。逆にタイ人からいい奴だなぁと思われたかったら、こちらが普段からタイ人をよく観察して、いわれるまえに先回りして向こうがやってほしいことをやってしまうといい。 例えば引越し運搬をやっている人のそばに居たら、すかさずさっと扉を開けてあげたりとか、後ろから急ぎ足で来た人にさっと道を開けてあげたりとかする。 すごく気持のいい笑顔を得ることができる。

日本人ってタイ人ほどは、気持を重視してないんだと思う。 タイ人を見ると、逆に、日本人ってすごく不器用だなぁという風に感じることがおおい。

でもタイ人は逆に、論理的な説明を受けると混乱してしまうことがおおい。日本人と比べると完全に気持重視なので、理を尽くして説明すると、「だからなんなんだ」という反応を受ける。 それが気持とどういう風に関係しているのかまったくつかめないからだと思う。

おかあつ   2009年01月30日 15:28
(続き)

>たしかに・・・・。「もっと具体的にいうと?」という簡素な言い方だと、なんだか語感として、「説明が不足しているから詳しく説明して欲しい。」とか「説明の仕方が漠然としすぎていて理解不能だから追加説明して欲しい。」という事を求めているように感じてしまい、ぶっきらぼうに感じて相手を不愉快にさせてしまうかもしれないなあと感じますね。

そういえば、論文とかだと、パラグラフ内の最初の文を読んで異論がなければ残りの文はすっ飛ばして次のパラグラフを読んでもいい、というルールがあるんだそうだ。だからパラグラフの最初の文に「言語は記号である」とかそういう抽象的なことが書かれていたとき、読者がそれをよんで「ははぁそうそう」と思えば、それ以降はもう読まないらしい。

そういう暗黙の了解が既にあるので、会話の中でも、そういう習慣があるんではないだろうか。誰かが「言語は記号なんだぜ」とかそういう抽象的ないい方をしたとき、その時その人の気持には既に「わからなかったらつぎすぐ説明するから言ってくれよ」という行間のようなものが既にあるんじゃないだろうか。聞き手もそれを知ってるからこそ「具体的に言うと?」という短い言葉でことたりるんじゃないだろうか。

英語では、誰かが話しをする時、その聞き手は自分が言っていることを絶対に知っているわけがない、ということが大前提にあるので、聞き返しても失礼にならないんじゃないだろうか。

だけど日本だと、タテマエとして基本的に何かを言った時、それがわからないのは聞き手の責任にあることが多い様な気がする。 だから「具体的に言うと?」なんていい方をすると、「わからねぇのはおめーの責任だろが!」 という反応が返ってくるのではないだろうか。

>「先生の仰った内容の○○という部分までは理解できたのですが、△△という部分が良く理解できませんでした。これは、××というような理解でよいのでしょうか。それとも▲▲というような意味合いでしょうか。もう少し具体的な例を挙げてご説明頂ければ助かるのですが・・・。」

あびる氏の指摘にはふたつの要素が入っていると思う。ひとつは聞き手が「アクティブリスナー=物言う聞き手」であるということは大切だ、ということの気がする。このことは多分言葉に関わらず大切なんだと思う。 もうひとつは「相手の気持を考慮した話し方が大切だ」ということである様な気がする。こっちは日本独特な考え方な気がする。

日本だと「具体的に言うと?」というような物言いをする人は何も考えて居ないことが多い。「今の話を聞いた結果自分はどう思ったのだが、これで正しいだろうか」というようなアクティブな聞き方をする人はあまり一般的じゃない気がする。だから「具体的に言うと?」とかいう応答をしてしまうと、話者の怒りのトリガーを引いてしまう結果になるのではないだろうか。そういう一般常識の違いもある様な気がする。

結果的にやっぱり日本語って英語(100%論理重視)とタイ語(100%気持重視)の中間にあるような気がする。
 
出展 2009年01月30日06:49 『わからん人』